一三

     十三の一

 王竜戦第七局観戦記。読日新聞文化部・幸田成行記
『――弱冠十六歳の神童による初タイトル獲得なるかと、一般メディアまで騒がせていた影響だろう。本日二日目を迎えた王竜戦最終局であるが、現地ではちょっとした〈事件〉があった。
 一言でまとめると、客が多すぎたのだ。

 主催側の私を含め、連盟職員は当然将棋絡みのイベントしか経験していないスタッフであるから、一般的な大規模イベントの見積もりなど経験がなく、増えたとしてもこの程度だろう、という甘い感覚が抜けていなかった。
 それがまずかった。
 当初確保していた旅館の大ホールは、五百人を収容できる巨大な施設であり、一般的な解説会では決して採用しないレベルの規模である。いくら我々が慣れていないと言っても、流石にいつもの数倍程度の客足は予想していたし、備えもしたつもりだった。
 これで十分だ、と考えていたのである。
 ところが、直前になって、我々の楽観ぶりを心配した旅館側のスタッフが教えてくれたことには、諸々の予兆からするにまるで規模が足りていないというのだ。
 現実を知らされてからは正に修羅場である。
 方々土下座して回り、地元行政の協力を得て急遽予備会場を用意。千人以上収容できるという地区最大の文化ホールを第二会場として、更に第三会場として近隣中学校の体育館を確保できたのは良かったが、当然準備が終わらない。結局、多くの行政職の方々を巻き添えにして突貫作業でセッティング、第二・第三会場分の解説は前日深夜に予定の空いている棋士を片っ端から叩き起こして用意したという無茶苦茶ぶり。
 こうして、第一・第二・第三まで合わせて実に二〇〇〇人以上を収容できる態勢をどうにかこうにかでっちあげ当日を迎えた訳だが、にも関わらず、全ての会場で立ち見が発生しているのだからお手上げである。

 今回の解説会、正確な数字はまだ明らかになっていないが、間違いなくケタ一つは動員記録を塗り替えることになるだろう。
 将棋の解説会に、ウン千という単位の人間が押し寄せているのである。主催側の人間が書くには不適切なことか知れないが、こんな日が来るとは想像すらしていなかったというのが、偽らざる私の本音だ。
 或いは、今後は解説会の運営を抜本的に見直す必要すらあるのかも知れない。
 浅井響という一人の天才は、盤上のみならず、盤外までをも支配しようとしている。


 竹中の振り歩先で行われた振り駒は表が五枚。戦型は後手番の浅井が一手損角換わりからの腰掛け銀を採用し激しい戦いとなっている。控室の検討では初日から一貫して先手の竹中が指し易いという見方で変わらず、こうなると、詰め掛けた〈新規ファン〉達からは退屈そうな表情が見て取れる。
 彼等が見たいのは名勝負でなく、話題の天才少年がタイトルを獲得する瞬間なのだろう。複雑な思いが無いと書けば嘘になるが、しかし、人が集まったこと自体は喜ぶべきだ。

「アッサリ馬作られた挙げ句香車一本丸損じゃね、そりゃ先手に楽な展開ですよ」
 本局では副立会として現地入りしている島津が、渋い顔で、仕方ないじゃないか、と誰に向けるでもない愚痴をぼやいた。午前中の解説会で疲れてしまったのだろう。第一会場には熱心な浅井の追っかけ、即ち普段の界隈では見かけない人種が特に多い。
 ――随分とお疲れですね。
「いや……そういうんじゃないっすけど」
 開き直って暴言を吐き出さない辺り、島津もこの状況を有難いとは感じているらしい。
「どうも、慣れない感覚でね」
 村にまで喩えられる独特の世界に外部から人が入ってくるのだから、最初のうちは難しくても当然だろう。
 ――野球もサッカーも、どこかを贔屓するから興行として成立するのでしょう。将棋もああなれるかも知れないと考えれば、良い傾向ではないでしょうか?
「ま、仮にそんな世の中になったら、アイツがこんな風に応援されることも有り得ないだろうけど」
 ――と言うと?
「本人が根っからのヒール気質ですもん。基本陰気だし、サービスするタイプじゃないし」
 当然のように言ってのける姿を見て、島津の渋い表情には弟分の苦戦も影響しているのだろうと、彼等の仲の深さに苦笑してしまう。本当に、不思議な関係である。

 そうして話をしていると、会場内から微笑ましい歓声が届いた。将棋の解説会とは少々方向性が異なる、さながら動物園の珍獣に向けるような、そんな類のモノである。
 ――立花の妹さんか。
「大方、モニターに向かって念力でも送ってるんでしょ」
 ――ウケてるじゃん。
「ちんころこまいのがピーチクパーチク、やかましいだけっすよ」
 ――折角来てくれたご新規さんだ、どんな形でも楽しんで帰って貰わないと。
「知りゃしませんね、俺は一足先に飯行きます……幸田さんもどうすか、ついでに一杯」
 至って平然とした口調で、猪口を傾ける仕草まで付けているが、島津は本局の副立会人。当然手当も付いており、バリバリ勤務中の身だ。
 ――お前、自分の立場忘れてないよな?
 ついでに言うならスポンサー側の人間である私の立場も考えて頂きたい……のだが、
「俺とアンタの仲じゃない、堅いことは言いっこ無しってね」
 ――どうなっても知らんぞ。
将棋記者にとって最も重要な仕事は、棋士とのコミュニケーションである。であれば折角のお誘いを無碍には出来ぬ……と、モノは書きよう、私も記者の端くれだ。
「大体、他人の対局なんて酒でも入ってないと読む気になれねえもん」
 これもプロ棋士という人種の不思議な所で、他人の対局を解説するような際には、中途半端に素面でいるより少しくらい酔っている方が読みも冴えるのだ、と島津は言う。
「自分の時を十とか十二とすると、外から眺める時は精々一か二しか見えない。ところがどっこい、酒が入ると四か五は見えるようになる」
 ――どんな理屈だ、呑みたいだけじゃねえか。
「嘘偽りのない真実ですって」
 ――お前も、少しは地に足付けてくれよ。
 この男の適当ぶりには呆れてしまうが、ともかく、我々は連れ立って昼食へ向かった。』



 ホテルレストランの関係者席では酒も舐められぬと、年の瀬の雪化粧美しい越後の冷気に吐く息を白く染めながら、ぶらりぶらりと行くうちに適当に見つけた、路地裏の小綺麗な料理屋へ二人は足を踏み入れた。
 まずは一言、
「喫煙席で」
 腰を落ち着けるや否やのタイミングでおしぼりを運んで来たアルバイトの店員は、普段は大学生でもしているのだろう、軽い雰囲気の女だったが、つまみになりそうな小品を幾つか選ぶ僅かな間に、今日はホテルで将棋のタイトル戦をやっているのだと、さりげなく言った。それは、たとえば、人気ロックバンドのライブに向けるような、ささやかな熱を感じさせる声だった。
「――後手番一手損角換わりって言ってね、後手番でも主導権を取れる作戦なんですって。後手番の上に手損するんだけど、普通の角換わりと違って飛車先の歩を保留した形だから、右の桂馬を跳ねた時に活用の幅が広いんですって」
 なるほど、彼女は午前中のテレビ中継を見ていたのだろう。自分がざっくりと解説した内容をそのまま語られるとは思わなかったと、銀乃介は苦笑する。
「そんなに良い戦法だと思わないけどね、どうなんだか」
 極めて個人的なことだが、銀乃介は一手損角換わりを好まない。勝てるならそれで良いという考えも敢えて否定はしないが、わざわざ自分から手損するというのはやはり納得し難く、何よりもまた、二手目8四歩と突いても問題無く勝てるという自負に根ざした、彼自身の暴君の如き棋風がある。――一手損角換わりのようなセカセカと動き回る手は指す必要が無い。何故なら自分は王者であるから――果たしてそんなことまで思っているのかどうかは定かでないが、プロ棋界における〈矢倉・正調角換わりの後手番守護神〉という立ち位置こそが、彼という存在、その思想を端的に表していることは確かである。
「へえ、お客さん詳しいんだ……でも、浅井さんは得意らしいですよ。ちょくちょく採用してるって、だからきっと良い戦法なんですよ」
「そういうもんかねえ。お姉さんは後手持ちなの?」
 灰皿を手元に引き寄せ、マッチを擦りながら問う。
「モチとか、そういうのは良く解らないけど、将棋のプロって、何年やってもタイトル戦に出られないような人もいるんですって。っていうか、九割はそういう人なんですって。それなのに、浅井クン、まだ高校生なのに、凄いじゃないですか」
 目の前で煙草を咥える男に何より重い一撃を突き刺した事など、気付いてすらいないのだろう。
「それに将棋盤の前だとあんなに迫力あるのに、インタビューとかだと結構天然っぽいし、こういうのなんて言うんだろう……ギャップ萌え? みたいな?」
 きゃあきゃあ、という表現が似合いそうな具合に、女は語る。
「あ、お姉さん、取り敢えずビール。瓶のコップ二つでお願い」
 まるで見計らったかのように割って入った、幸田の表情をちらりとやりながら、
「すぐ空けるから、燗つけといて、地酒のオススメお任せで……と、ふろふき大根ひとつずつ、あと芋煮」
銀乃介は煙を吐いて注文する。
「おい、ホントに呑みすぎんなよ?」
「少しあったまりたいだけっすよ」
 気を遣われたのだろうかと、そんな思考に至ってしまった、自分自身にささくれだった。



     十三の二

 昼食休憩時、対局室。
 定刻七分前ではあったが、手番である竹中がこのままという意志を見せた為、持ち時間から七分を差し引いて、早めの休憩に入った。響よりも一時間近く多く残していることもあるだろうが、何より、盤上の優勢を意識しての判断であろう。
 先に部屋を外した竹中の背を見送る事も無く、響は盤へ向いていた。
「棋譜を」
 部屋に残っていた記録係へ、視線は盤上へ向けたまま、声だけをかけ手を出すと、間を空けず一枚の紙が手に置かれた。

 ――先7六歩、後3四歩、先2六歩、後8八角成、先同銀、後2二銀、先3八銀、後7二銀、先3六歩、後6四歩、先2五歩、後3三銀、先3七銀、後4四歩、先6八玉、後6三銀、先7八玉、後5四銀、先7七銀、後3二金、先5六歩、後5二金、先4六銀、後4二玉、先3五歩、後4三銀、先3四歩、後同銀右、先3六歩、後7四歩、先6八金、後7三桂、先3五銀、後同銀、先同歩、後8四歩、先9六歩、後8五歩、先5五歩、後3一玉、先5四歩、後同歩、先3四歩、後同銀、先7一角、後8一飛、先4四角成、後4三金右、先1一馬、後8六歩、先同歩、後8五歩、先5三歩、後8六歩、先8八歩、後2二銀、先1二馬、後8二飛、先6三銀、後5三金、先7四銀不成、後6五桂――
 残りは先手三時間、後手二時間。
 一切の色を持たない無機質な文字の列だけに、盤を眺めるよりも正確に、そして冷徹に、ありのままの情報が伝わる。
 ――五十九手目、6三銀。
 響はこの一手に一時間を超える長考を支払わされた。つまり今ある時間的劣勢の原因となった一手であり、そして同時に、この銀の存在は今後盤上後手の形勢をじわりじわりと追い詰めていくに違いなかった。
 どこまでも忌々しい。
 と、言葉に出すような真似はしない、表情にも出さない。しかし、ただじっと五十九手目・6三銀の文字列を睨みつける。
 6三銀の打ち込みは、一つには5二歩成からの攻めを警戒させこちらの守り駒の連結を薄くする意図があるが、同時に、歩を払った5三金のアタリを避ける、7四銀不成という位置取りが大きい。目下の歩切れを解消しながら、将来的には7三銀成からこちらの飛車を追うことを見ている。
 現状8二に位置する後手の飛車は、敵陣8筋に圧力を加えながら、自陣二段目の強力な受けにも効いており、後手はこの自陣飛車一つで形勢の全てを支えていると言っても良いほどに、最大限に働いている。それは裏返せば、命綱とも言うべきこの飛車の位置取りを追われてしまえば、後手は盤上手のつけようがなくなる、ということ。
 6五桂に対し同銀同歩2四歩と来るか、或いは単に2四歩か。前者であれば7三銀成と飛車を追われる事が無くなるが、やはり本命は単に2四歩と突く手だろう。6三銀の打ち込みは2筋突破を目的とした一連の流れの核とも言うべき(即ち、3四銀を浮き駒にして2四歩に同歩と返せなくする、更に飛車を追って位置を悪くさせる)一手であり、指し手に一貫性を持たせるならば、ここは2四歩と突くべき局面である。
 何より相手はあの竹中、臆して攻め気を失うようなタイプではないのだから、優勢だと意識すればこそ主張を一貫させ、弛めることなく潰しにかかってくるだろう。
 形勢は芳しく無い、正直に言えば苦しい。
 しかし、だからこそ勝機がある――優勢な将棋で勝利する為には、『自然な手』を続けることこそが最も大切であるという全ての棋士の常識を、竹中もまた熟知しているのだから。
 そこまで考えると顔を上げ、気を落ち着かせる為に、深く、ゆっくりと息を吐いた。
「有難うございました」
 棋譜を記録係へ返しながら、今度は視線を向けて言う。と、見覚えのある顔、奨励会の同期だった。真柄直隆という、響よりも二つ年上だったように覚えている。
 しかし顔を知っている程度の関係でしかない、特別に話すこともなく、
「では私も外しますので、午後もよろしくお願いします」
身の回りの僅かな品を集めて席を立った。



      十三の三

              ※

 棋士控室。
 昼食休憩が明けて暫くの後、銀乃介と幸田が室内に戻ってきたのとほぼ同時に、竹中は再開後の一手を指した。
「2四歩、まあ順当だな」
 モニター前に陣取っている慈乃の脇から、銀乃介が画面を覗き込んで言うと、
「臭い……呑んでるでしょ」
露骨な表情で、鼻をつまみながらであった。
「相変わらず鼻良いな、警察犬でも目指してみろよ」
 と、今度は周りの棋士が驚いた表情になる。
「ってか、マジで呑んでんのか? 流石にマズイって」
「バレやしませんよ、こんなの解るのコイツくらいですもん。実際臭わないでしょ?」
 周りにいるのは上でも三十代という若手層、話せば解る気心の知れている相手なだけに銀乃介も隠そうとはしていない。
「いや、確かに気付かなかったけど……お前一応副立会なんだからさ」
「そうそう。俺等はともかく、石田先生とかに知れたら」
 しかし本局正立会人・石田佐吉九段の名前を出されると、流石に泣き所か、
「まあ、そこら辺はさ、皆さんよろしく頼みますってことで」
引きつり笑いで頭を下げた。と、突然尻に鋭い痛みが走り、
「後で師匠に叱って貰いますから、今日はこの辺りで勘弁してあげて下さい」
振り向けば、綺麗なだけに恐ろしい笑顔を浮かべた姉弟子である。
「で、局面どう見てるの」
 声のトーンを一段落として問いながら、なおも尻を抓り続ける千代に、
「お触り一回一万な」
脂汗を流しながらジョークを飛ばすと、
「あんまりふざけた事吹いてると、本当に石田先生に言いつけるよ」
目が笑っていない、これ以上はやめておいた方が良いだろう。迫力に押され継ぎ盤の後手を持たされる。
「同歩だったら傑作だけどな……なんて冗談は置いとくにしても、3五歩叩かれるくらいでもマジで死んだようなモンだし……苦し紛れに5五角でも打っとくか」
「それ、4六香で余計苦しくならない?」
 打たせたはずの合駒が玉の脇腹へ直射するのだからやっていられない。
「7七桂成同桂4五歩、で5六歩に3三角と引っ込む……ようじゃ、確かになあ」
「アンタの結論としては後手苦しいと」
「誰だってそう言うだろ、この局面じゃ」
「ま、それが普通だよね」
 二人でああでもないこうでもないと盤の駒を動かしていると、モニターにしがみついている慈乃が、
「5五角!」
叫ぶように告げた。
「破れかぶれ、って感じかなコリャ」
 とある棋士がぽつりと呟くと、
「破れかぶれはひどいけど、まあ、勝負手の類に見えるね」
「本人も良くないと思ってることは確かだろうな」
大抵の棋士は同意を示した。
「でも、打つならここしかありませんでした。4六桂が生じたらこの手も消えてた」
 いつもと変わらず、どうにかこうにか響を持とうとするのは慈乃一人だ。
「まあイモバナがそう言うのは解ってるけど、実際これは後手苦しいよ」
 周りも慣れたもので、柳のように受け流す。
「アネバナはどう見る」
 話を振られた千代は至って冷静に、
「さっきまで丁度検討してましたけど、この角が活きてこなくて。七対三の先手持ちです」
ウラギリモノ、と言いたげな慈乃の強烈な視線が向けられるが、こういう時の妹の扱い方に関しては誰よりも慣れている。空気を扱うかの如く、最早視界にすら入れない。
「島津も同じ結論か」
 巡り巡って、最後に水を向けられたのは銀乃介。
「そっすね、先手優勢だと思います」
 彼が軽い調子に真剣な表情で同意を示すと、控室の空気はまとまりかけたが、しかし、
「ただ――」
その声は続いた。
「――アイツなら、きっとこの角を活かす。手順は知らないが、活きるから打った角だ」
「何故?」
「アイツの何が一番怖いって、こういう、土俵際で出す、刺し違え覚悟の一撃なんすよ」
 まさか酔っているはずもないが、酒のせいか口が軽い。本人がそう感じるほどに、言葉は滑らかに流れ出ていた。
「穴熊小僧みたいに扱われてますけど、正直、大人しく穴熊に籠もって単純な速度計算に終始してくれてるのは、むしろ有難いことですよ……こと『勝負』っていう領域に思考を絞った時のアイツは、得体の知れない何かが憑いてるって、そういうレベルですから」
 普段は底に秘めている、浅井響という将棋指しに対する、銀乃介の本音の評価だった。
「それって、竹中先生がこのシリーズで浅井の本性目覚めさせちゃったってことか?」
「かも知れません」
 銀乃介の言葉からしばらくの沈黙の後に、今まではネコ被ってあの強さだったのか、と誰かがぼやくと、控室にいた多くの棋士は呆れたように笑った。
 それは、動物が腹を見せることにも似た、無条件の賞賛であったろう。
「純粋な棋力で比べれば、まだ俺の方が上ですけどね」
 浅井響を上と認めた彼等と距離を取る為であったろうか、銀乃介は静かに言った。
「ここで銀成かな」
「いや、後に回して先に4五香が本命じゃないか? 4一香成見せて1一銀も消せる」
「挙げ句に2三歩成まで権利だもの、先手なら温泉気分でしょう」
 控室で言い合っていると、
 ――先4五香――
竹中は4五香を選択。
「確実にかつ最速で、って感じがするね」
「同銀に、7三銀成で飛車追ってから2三歩成か」
「この局面で飛車追われたら、後手はもう勝てないな……こりゃ防衛かね」
「マスコミ関係者涙目の展開か?」
「商売上手だもん、適当な美談に仕立てるだろ」
「良いんじゃないの。タイトル戦の度に今回みたいな規模の解説会やってたら、コッチが先に参っちゃうよ。今は少し騒がしすぎる」
 思い思いに語り合う棋士達に、しかし慈乃は噛み付かなかった。一人モニターを食い入るように眺めている。
「たとえばココにねじ込んで、勝負になると思うか?」
 のそりと背後から伸びてきた手が画面上の8七を指した。銀乃介である。
「なる。正確には、そこしかない」
 短く、一言で言い切った慈乃の姿に、力みや虚勢のようなものはない。
「本気かよ……俺はただ、ねじ込むとしたら今しかないって意味で聞いたんだが」
 飛車を追われてからでは成立しない手、そして踏み込めば後戻りできない手。
「通じるよ、それで後手が良くなる」
「4五香は悪手だった、ってことか?」
「あれは、将棋の勉強をした人だから指したんだよ。理屈では良くなって当然の手だもん」
「相変わらず意味が解らんな、お前は。理屈でなきゃ何がダメなんだよ」
「だって、理屈だけで全部解ってしまうなら、将棋なんてとっくの昔に飽きられてるはずでしょ?」
「何だそりゃ、宗教でも始めたか」
「世の中は、みんなそうだよ。理屈は、ヒトが、自分より大きな存在を理解する為に与えた、都合の良い解釈なんだよ。ヒトの積み重ねた理屈はすごいけれど、例外の無い事象の方が少ないんだよ。
 本当のことは、誰にも解らないんだよ。将棋だって、そうだよ」
「冗談じゃねえ。俺は少しでもそれを知る為に、答えに近付く為に将棋指してんだ」
 慈乃は少し頬を膨らませた、つまらなそうな表情になり、
「みんなそう言う」
興味を失ったかのように会話を打ち切ると、モニターに向き直った。

            ※
     十三の四

 一般において、奇襲という手段は下策であるとされる。これは、然るべきところに然るべき戦力を投入できるならば自然と戦局は優位に傾いていくのであるから奇襲を行う必要など無い、という常識論によるものである。即ち、奇襲とは、実際に戦闘行為が発生した段階において然るべき戦力を用意できなかった側の行為であり、敗北を許されない立場にあるのならば、然るべき戦力を用意できるまで待つことこそが使命なのである。
 たとえば信長による桶狭間、たとえば九郎義経による一ノ谷の逆落とし。それらは必要に迫られたが故のやむを得ない決断であり、結果として残った伝説的勝利は、幸運こそが大であったとすべきであろう。信長は十倍の敵にあたらねばならず義経は周到な準備の上で待ち構えていた平家軍の裏をかく為に背後を取らなければならなかった。
 では、それらの勝利は全くの幸運であったのか。状況に劣る側は常に幸運を頼る以外に無いのか。
 そうではない。両者共に、合戦の起こる地形を予め調査し、敵軍に関する情報を収集し、劣勢にある自軍戦力をいかに配分すべきかと、周到に計画していた。
 奇襲の成功に求められるものは、一つには幸運。そしてもう一つには、圧倒的劣勢を前にしても決して諦めず、策を張り巡らせ、それがいかに僅かな程度であろうともいざ幸運が訪れた時には即座に行動に移れるよう、勝利への周到な仕度を怠らないことである。
 響は後者を着実に行っていた。初日以来一貫して苦しい形勢をそれ以上損ねることなくじっと堪え、後々に繋がる手であれば危険な道を見極めて踏み込み、敵陣を盤石には整えさせなかった。馬を封じ、玉頭に拠点の歩を作り、必要な香車を打たせ、守りの銀を抜き――そうして尽くした人事に天は応えた。
 桶狭間に雨の降った如く、弁慶が鷲尾義久と出会ったが如く、竹中は4五香を指した。
 4五香は疑いようもない善であった。しかし次善であり最善で無かった。そこに僅かな隙があった。
 ――後8七銀――
 針先程の間隙を穿つ、この一撃が天下を変える。

          ※

 8七銀が伝わると、控室に集った棋士たちの多くは呆気に取られた表情を浮かべた。
「銀……銀打ったん?」
「ブレーキ踏んで被害抑えるよりアクセルベタ踏みで突っ切ろう、みたいな感覚か」
「そりゃ解るけど、いきなりここで入れるのか」
「この状況で後手から一気に加速して終盤入りだもん、先手も驚いたんじゃないの」
 この手が高く評価されている訳ではない、あくまでも苦し紛れとしか見ていない。万に一つの勝ちを拾いに行ったのだろうが、万に一つのある相手ではないと、竹中重治という将棋指しへの信頼が、彼等の姿勢を変えさせなかった。
「うへ、ホントにねじ込んだよ」
「だから言ったじゃん。響ちゃんなら見落とすはずないもん」
 銀乃介はやや驚いたように、慈乃は当然であるように言い合う。
「6九玉に、4五銀と香車を消すか」
 ねじ込んだ銀を同歩と取るのは同歩成、飛車先のと金は作らせまい。先手は躱す一手である。後手もまた、いつまでも香車を素通しにはしておけない。6九玉と4五銀の交換は必然であるように見える。
「2三歩成、同銀に……飛車か馬か、どちらを切るか。最短は飛車切りからだろうが」
 終盤へ突入した局面へ次第に沈んでいく銀乃介の脇で、
「飛車を切れなきゃ話にならない、けど、切るのは香車で後手の勝ち」
慈乃は、誰にも悟られることのない、小さな声で呟いた。

 ――先6九玉、後4五銀、先2三歩成――
「おー、一気に勝ちに行った」
「竹中先生じゃなくてもここはそうするさ、決める時は一気に決めた方が良い」
「よく見りゃ先手も絶対安泰って玉形じゃないしな、厳しく迫れるなら行くべきだ」
 ――後同銀――
「どっち切るかな」
「飛車じゃないか。そっちの方が明確だし」
 言い合いながら、手元の継ぎ盤を常人には理解出来ない速度で動かし続ける。
「馬から切るのは2二歩くらいでも堪えてそうだし、飛車からだな」
 より慎重に読みを確認したのだろう、控室の意見が飛車切りでまとまってから数分後に竹中は飛車を切った。
 ――先同飛成、同金、同馬――
「これが4一金までの詰めろ。3二歩でどうにか……なるのかねえ」
「先手が俺なら後手勝ちかもな」
「良いこと聞いた、お前相手の時は頭金まで粘ってやろ」
「こりゃ下手したら中継始まる前に決着かな。会長がぼやくぞー、放送協会に頭下げるの俺なんだから、って」
「その時は浅井に頑張って貰うことになるのかな」
「奪取失敗直後の人間引っ張り出しはしないだろ、竹中先生への勝者インタビューだよ」
 竹中が指したという信頼が控室の検討を緩ませていた。あとは先手の華麗な寄せを見るばかりだと、いつの間にか誰しもがそう考えていた。
 しかし、
「後手、8九飛だ」
飛び出したのは全く別の手であった。

         ※

 対局室。
 ――後8九飛――
 一見単発の王手に見える飛車打ちを見てから、一〇分ほどの間があったろうか。見落としていた一手を悟った竹中は、やがて文字通り固まった。
 対する響は落ち着いた所作でペットボトルの水をコップに注ぐと三度に分けて飲み干し、扇子を開いて口元を覆った。
 7九金とは打てない。確かに飛車にアテた合駒ではあるが、先手が手持ちの金を使うと後手玉にかかった詰めろが解ける為9九飛成とすれば手詰まり。大駒を叩き切って寄せに出ている以上、ここで後手を詰ませられないならば先手はまず勝てない。であれば桂合か5八玉となるが、どちらに対しても4一香と埋め込むのが絶品。4一金の一手詰めを消しながら4五の銀が抜かれることを防ぎ、更には遠く4七の地点へ必殺の圧力が掛かる。
 8九飛の時点での残り時間は響の三十一分に対し竹中は一時間三十七分。
 しかし時間の差など最早意味を持たない。それほどまでに、4一香が見えている人間にとって、盤上の結論は決まっていた。
 ふと、竹中が乱暴に髪をかき上げた。苦痛に歪みながら、溢れ出て止まない殺意を隠しきれなくなった表情。紳士然とした普段の振る舞いとはほど遠い、素の、将棋指しに元来備わる純粋な粗暴を、野生を剥き出しにした姿であった。或いは、彼は既に自身の敗北を読み切り、一人脳内で敗着を探っている最中か知れない。
 響は、その姿を見ないように、意識を逸らす為にあてた、口元の扇子を離さなかった。
 見てしまえば気が緩む。
 彼に為した事が、自らの身にも起こらないとは言い切れないのだから、殺す時は徹底的に殺す。その意図を、安全勝ちを実現するだけの大差は、既についている。
 ここから詰みまでのやり取り、その全てを読み切るつもりで盤に沈む。



       ※



 竹中が表情を一転させるのとほぼ同じ頃、控室でもまた、継ぎ盤で誰かの指した4一香が話題になり、事件は発覚した。
「……5五角から、なんだろうな」
 慌ただしさを取り戻した控室の中、ただ一人、何も変わらずモニターを眺めていた慈乃に、銀乃介は言った。しかし独り言であったのかも知れない。正確には、それらの中間とすべきであろうか。
 4六香の合駒を打たせ7七桂成と銀を抜く、同桂に4五歩、5六歩、3三角。一見するとただ追われただけで何の役にも立っていない角であるが、それすらも4五香と踏み込ませる為の、相手に優勢であることを意識させ攻めに勢いを付けさせる、誘いであったかのように見える。8七銀、6九玉、そこで4五銀と『打たせた』香車を拾う。銀が離れれば2三への効きが一つ減るのだから歩成は当然の流れ。2三歩成同銀に馬から切る手は同金同飛成に2二歩とされるだけで決め手が無く、よって飛車から切る以外に無い。そうして狙い澄ました8九飛からの4一香。
 結果から逆算すればこそ見えてくる、周到に張り巡らされた謀略の糸。見る者に影すら気付かせない、完璧な奇襲――優勢であることを意識すればこそ指してしまう、いかにも自然な手順は、全てが後手の意図により偽装された誘導路、芸道の粋を感じさせる、超絶技巧の罠であったということだ。
 盤上、あれほど後手を悩ませていた7四の銀が、今改めて見れば完全に空振りの形。
「実戦なら、気付けたか」
 今度は慈乃に問うているのでなかった。その言葉は自らにのみ向いていた。

「島津、イモバナ、リハ始まるってよ。準備急げ」
 呼ばれて、銀乃介は我に返った。衛星中継の開始時刻まで一時間もない。副立会として来ている以上、最低限の仕事はこなさなければならないだろう。
 気を入れ直し、モニターに食いついて離れようとしない慈乃の襟首を引っ掴むと、ズリズリと引き摺って控室を出る。


       十三の五



 ――先5八玉――
 長考の必要は無いこの一手に竹中は一時間近くかけた。最早考えたところでどうしようもない局面であり、手を考えるよりも悔恨が大きい長考であろう。
 『勝ち将棋をダメにした』というダメージは棋士の精神を大きく抉る。負け将棋をそのまま負けるならばまだマシなのである。途中までは良かったと感じる程、良かった度合いが高ければ高いほど、ダメージは等比級数的に肥大化していく。ましてやこれはタイトル最終戦、敗北即失冠の戦いで、逆転負けが確定的になった局面を読み続けるのは、察するに余りある苦痛に違い無い。
「この後間違いなく4一香と打ちます。それでまず後手の勝ちでしょう」
 衛星中継のカメラに向かい、大盤の駒を動かすと、銀乃介は落ち着いた口調で断言した。
「それにしても、後手の大逆転劇ですね。控室では初日からずっと先手が良いと言われていましたし、私も島津七段も先手持ちだったんですが、驚きです」
 聞き手を務める千代が言うと、
「コッチの形勢判断も、甘かったってことですかね。ダメだな……こんなじゃ自分の時も同じこと食らっちまう」
軽い口調はテレビカメラの前でも変わらないが、妙に含みのある言葉。こういう言い方をする銀乃介は珍しい。
「なに、いつになく反省してる?」
 慣れた相手に対するからかいに違い無く、普段であれば銀乃介も調子の良い返事をするはずであったが、
「これからは待たせる側だからな……余裕で眺めては、いらんねえよ」
それは、少しばかり、真剣過ぎた。少なくとも、千代にはそう感じられた。
 焦らなければならないのは、千代も、他の棋士たちも、同じはずである。しかし銀乃介は余計なモノまで背負い込んでいた。
 ――後4一香――
「ああ、打ちましたね。本当に、謀ったようにピッタリの香車です」
 恐らく、生まれて初めて将棋に関して劣等感を感じたのであろう、目の前の男の深刻さを、滑稽にも近い、冷めた感覚で横目に見ながら、千代は解説を続ける。
 この業界で生きていく為には、天才意識なんてものは早くに捨ててしまうに限る。
 千代はそれを奨励会で学んだ。しかし銀乃介は学ぶ必要の無いままに今まで生きてきた。
 詰まる所、そういう差だ。

             ※

 対局室。

 ――先3三馬、後同桂、先3五角、後4四香、先1三角成、後2二歩、先3二歩、後4二玉、先3一銀、後5二玉、先2四馬、後4六歩、先5九桂、後8八飛成――
 この飛車成りが6八龍からの詰めろ。4八金は7八銀成から迫れば良し。6九金と打たれるのが手数的には一番長くなりそうだが、これはただいたずらに場を長引かせるだけの手、竹中のようなタイプは選ばない……少なくとも響はそう読んでいた。
 ――先6九金打――
 それは自傷にも似た手だった。たとえば、4七歩成同玉に3六角と打ち、5七玉以外は6九角成で打ったばかりの金がタダ。5七玉でもやはり6九角成と角を切って同金に4六金、ここで同馬とは出来ないので6六玉、7六銀成同玉から8七歩成が必死となり、先手の持ち駒は角と銀で後手玉が詰まない為、後手の勝ちと見える。
 自らの圧倒的終盤力に対する評判を逆手に取ったブラフか、それとも相手を動揺させる為だけに放った意味の無い手なのか……しかし、それらは全て違うだろう。
 今回の屈辱を決して忘れない。
 そのメッセージを、自分自身に刻み込む為の、盤前の相手に伝える為の、その為の手。そう解釈するのが、一番正しいように思われる。
 驕り高ぶった王者は決して選ばないであろう、真に強きを求める求道者の、修羅の一手。
 ――後4七歩成、先同玉、後3六角、先5七玉――
 ならば、と、角を切って応じてやるのが、本来の姿なのかも知れない。自ら泥を被った誇り高き王者にせめてもの情けをかけるべきか知れない。
 しかし響は、一切の躊躇いを見せなかった。
 ――後4六銀――
 優勢に立ったのなら最も確実な方法で絞め殺せばいい。万に一つであろうとも、8七歩成と必死をかけた後の手に読み抜けがある訳にはいかないのだから、情けで自らの指し手を曲げるなど愚の骨頂。
 6六玉と逃げるのは6九角成同金から7六銀成以下の詰み。
 馬を寄越せ、それで今度こそお前の指す手は無い。この先一切の希望を刈り取ってやる。
 息も絶え絶えの人間が相手でも、武器を持つ手が残っているのならば、まずは腕をもぐ事から考えるべきだ、動く足があるのならば、足を潰す事から考えるべきだ。そう言わんばかりの勝ち方を響は選んだ。
 ――先同馬、後同香、先同玉、後6九角成、先同金、後4五歩、先3七玉、後4六角、先4七玉、後1九角成――

 以て一一二手、4六馬までの詰めろを見て先手は投了。
 この瞬間、棋界に新たなタイトルホルダーが誕生した。



       十三の六

 その夜、関係者打ち上げの席をこっそりと抜け出した銀乃介は、幸田と二人昼の料理屋へ戻ってきていた。本格的に呑めなかった心残りを晴らそうというばかりでは無く、気の置けない相手と二人、静かに呑みたい方が大きかった。
 今頃、響も早々に引き上げているはずだ。本来ならば主役が逃げ出すなど許されるはずもないが、局後インタビューやら何やらと報道陣の前で散々働かせた負い目があり、今回ばかりは周りも強く言えないだろう。
 手元の猪口を一息に空け、煙草に火を点けると、国営放送にチャンネルを合わせていた店内テレビでは、九時のニュースが始まった。
 煙を吐き出しながら、ぼんやりと眺めていると、突然、ヘッドラインに見慣れた人物が映り込んだ。フラッシュに囲まれた和服の青年――響の姿。
『天才高校生棋士、初タイトル戴冠』
 本日の特集らしい。
「まさか一棋戦の結果で一般ニュースが特集組むとはね」
「そりゃ放送協会さんは映像持ってるし、今回は民放だって扱うだろ。ウチの系列なんてゴールデンにドキュメントの特番流すって話だし、旭日さんやら東日さんは今回の成功を順位戦PRに繋げる為に社外チーム作るって。ウチからも人出してくれって話がきてる」
「順位戦絡みで読日に声かけんの?」
「まあ、通年のリーグ戦だからな。ペナントレースやJリーグと同じ感覚で将棋を捉えて貰う、棋界全体を盛り上げるには、順位戦を柱に広報活動打ち出すのがベストだろうって話さ。連盟側から出た企画らしいぜ、で、今回の結果見て各棋戦の主催者も頷いたと」
 順位戦・名人戦は、現在旭日・東日両新聞社の共催という形であり、読日新聞は関わりがない。にも関わらずチームに参加するよう打診を受けているということは、一連の響の活躍によって生まれた熱に、新聞社同士の縄張り意識をある程度忘れておくだけの価値を見出しているのだろう。
「ウチとしては王竜戦の格を認めさせたいところだが、やっぱり名人って称号は大きくてさ、まるきり外されても良いこと無いし……ただ、きっかけはウチの棋戦だから、主導権取るなら今しかないって、上は案外乗り気なんだよ、これが」
 へえ、と気のない返事をしながら、テレビ画面へ視線を戻すと、丁度特集が始まった所だった。スタジオには七枚の大盤が用意され、七局全ての投了図が作られている。普段は経済問題などを難しい顔で語っているキャスターが、実は将棋が趣味なんです、といつになく緩んだ表情で大盤を撫でながら、いや今回のシリーズは実に名局揃いで、敗れたとは言え竹中名人も流石という他は無い内容のものばかりでした云々。などと、明らかに仕事を忘れた口調で語り始めるのだから、微笑ましいやら、後で上司に怒られるのではないかと会ったこともない彼を心配するやら、見ている側が大変である。
「今回の浅井は本当に凄いよ。人気取りだろうけど、文科省の役人が公教育に将棋の時間を導入するかって、本気で検討してるらしい」
「まさか国まで動かすか……冗談にしか聞こえねえや」
「正確には、連盟が以前から持ちかけてた話が今回の騒動で笑い話じゃなくなってきた、ってことだ」
 語っている自身もスケールの大きさに呆れてしまう、そんな、苦笑すら感じさせる幸田の表情に、銀乃介はそれがまごう事なき事実であることを知った。
 響は、響の将棋は、自身の将棋よりも遙か高いところで、次元の違う評価を受けている。そう感じると、今まで、兄貴分として接してきた過去が、音を立てて崩れ去っていくようだった。
「この間までランドセル背負って、例会で負けりゃ大泣きして帰って来たのが……いつの間に、だ」
 完全に追い抜かれたのだ。改めてそう感じた。
 愚痴をこぼした訳でも無いが、空気が重くなっていたのだろうか、
「焦るな、って言う方が、今は無理なんだろうけどよ――」
銀乃介の空いた猪口に片手で注ぎながら、幸田が言う。
「――らしくないぜ。剛毅剛直の鬼島津はどこいった、そんな姿、同期が泣くぞ」
 同期という言葉に、一時だが、意識は響から離れる。
「同期、か……最後に残ったマサチカも辞めて、結局俺以外プロ出なかったな」
 鎌田政近は、今年で確か二十二歳になるはずだった。
 まだ二十二歳、三段リーグはまだ五期目、しかし、一人また一人と同期が辞めて行く中で見切りを付けたのだろう。今年度前期リーグ終了時、三ヶ月前に辞めていった、最後の一人だった。
 中学二年生で入会した銀乃介にとって、同期は殆どが年下だったが、その彼等は、既に様々な理由で奨励会を去っている。二十四歳プロ六年目、奨励会入会ははや十年前。周りから仲間が消えるには自然な時期かも知れないが、しかし、やはり早すぎる。
「お前の代は少し早い気もするけど、大抵そんなもんだ。珍しいことでもない」
 或いは、と幸田は思う。銀乃介の世代は悲劇ではなかったろうか。同期である銀乃介の尋常ではない昇段速度、背後から彼等を抜き去った化け物の如き浅井響、そして、女性である立花姉妹に先を越された屈辱。旧来的な常識で育ってきた彼等がプライドを保つには、奨励会という場所はあまりにも厳しい世界へと変貌していたのではないだろうか。過渡期に起こりがちな悲劇。早すぎるようにも見える退会の背景には、様々な要因が潜んでいるように思われた。
「政近、この前の同期会来なかったけど、大丈夫なんかな」
「大学に入り直して家業を継ぐってさ。電気工事の会社で、大卒絡みの資格が必要らしい。今は受験勉強もあるだろうけど、そのうち顔出すさ。大丈夫、俺とは普通に話せてた」
「そうですかい」
 それは良かった、と続くべき言葉が小さくなったのは、どうして辞めたと詰め寄りたい感情を堪えているせいだろう。同期の決断を認めようとする人間的な部分と、まだやれるはずだと引き留めたい将棋指しとしての部分、その対立は幸田にも理解出来る気がした。彼もまた、棋界から去っていく同期を幾人も見送ってきたのだから。
「幸田さんの同期、どうなりました?」
「プロはC1の甘利とC2の岩城。二段まで行った遠藤が理研の将棋部に拾われたけど、他は普通の社会人……そんでもまあ、自営の家多かったから、全員と連絡付くのは有難いな」
「今時、弟子取る時に親の職業確認する人もいるくらいだから。昔とは違うさ」
 近頃では弟子を取る条件として、親が農家か自営業者であること、という条件をつける棋士もいる。師匠として弟子の将来に出来る限りの責任を持つことを考えれば、行き着く所はそこなのだろう。
「そいや、お前の家も自営業っちゃ自営業か」
「家の話はナシ。少なくとも、俺が棋士として認められるまでは」
「しょうもねえ」
 しんみりした空気を変えようと、幸田は茶化したつもであったが、銀乃介は却って表情を硬くした。自ら語ることが無い為殆どの人間が知らぬ事だが、一部上場、業界最大手にして老舗も老舗、大東亜製鉄の直系創業一族は三人兄弟の長男坊である。本来ならば将棋指しなどになるはずもなく、日本経済の中枢としての役割を期待される出自であったろう。どこをどう間違えてこの世界に転がり込んだのかは知らないが、こういった素の反応からしても、結局、根の所はお坊ちゃまなのである。
「それでも、年始くらいは顔見せるんだろう」
「まあ、な……オヤジに小言貰ってくるさ。響に先越されてちゃ、説教されても当然だ」
 そうして話題は振り出しに戻った。弟分に、響に、追い越された。
 酒の席である。面倒臭いと言いたげな、投げやりな態度を隠さず、幸田は突っぱねる。
「力さえありゃあとはタイミングだろ。今期持ち玉いくつ残ってんだ?」
 乱暴な物言いに眉を寄せながら、しかし湿っぽくなり過ぎていた自身に気付くにも良い薬であったのか、銀乃介は普段の軽い調子を取りもどすように、指折り数えるような仕草を見せながら、
「年明けてからは放送協会杯の準々決勝、棋天と旭日杯は本戦、左近リーグは白組」
つらつらと読み上げていく。
 戦績を聞いて、幸田は呆れた息を吐いた。要は全ての棋戦で順調に勝ち残っている、という訳だ。
「ついでに順位戦も残り全勝なら文句なし昇級……なんだ、俺も結構勝ってるな」
 比較対象が浅井響では銀乃介の態度も仕方ないのかも知れないが、レーティングで十指に入る成績の男がこれでは、他の棋士の立場が無いだろう。
「だったらよ、ウダウダ言ってねえで、全部勝て。放送協会杯と旭日杯優勝して、棋天と左近で挑戦者になって、順位戦でA級昇って、ついでだ、王竜も二組優勝して表から上に行け、この際挑戦者になって浅井からぶんどっちまえ。来年の今頃は三冠だ」
 言い切ると、手元の酒を一息で流し込み、猪口をずいと突き出す。
 浅井響という化け物を相手に、棋会が互角以上に渡り合う為に、その独走を許さない為には、誰が立ち塞がらなければならないのか。大将格を誰が務めるのか。幸田は銀乃介に自覚して欲しかった。
「なんだよ幸田さん、今日は珍しくヤルじゃない」
 片手で注ぐ銀乃介に、
「いつもなら手前が言ってる事だろう。チンカスみてえなこと気にしてんじゃねえや」
いかにもお前の口真似をしているんだ、という口調。
 ふと、煽りすぎた口調を落ち着かせるように、話を区切る間を置く。
 一呼吸の後、静かに酒を舐めながら、続けた。
「追い越されたのが事実だとしても、ここまで面倒見てきてやったんだろう。だったら、こんな所で浅井を一人にしてやるな。最後の最後まで、付き合ってやれ」
 俺がお前を見る目線で、お前が浅井を見てしまうのは堪えられない。本人ですら気付かぬうちに、幸田はそんなことを考えていた。
 お前と浅井は、まだ同じ土俵の上に立っているはずだ。お前は、こちら側に来てはいけない。こちら側の人間の気持ちなど、解ってはいけない。

 銀乃介が視線をテレビ画面に戻すと、いつの間にかニュース番組は終わりを迎えており、エンドロールが流れていた。例のキャスターが他の出演者達と笑顔でお別れの挨拶をしている。
『――今日は将棋の話題ということで私も興奮してしまいまして、少々お見苦しいところがあったかも知れませんがご容赦下さい』
『視聴者の方は、いつも冷静な吉田さんがあんな風になって驚かれたでしょうけど、彼は本当に将棋好きなんですよ。いつもマイ扇子を持っていて、それも将棋のなんですよね?』
『ええ。実は今日もね、いや、浅井新王竜の話題で特集組むだろうって予感があったので、今ここに持ってきてますよ』
 言いながら、取り出した扇子を慣れた所作でサッと開くと、銀乃介には見慣れた文字。
『これはですね、私の応援している方がイベントに出ていらしたので、北海道のイベントでしたけど、有給貰って行って来たんです。そうしたらお話するチャンスがあって、事情を話したら、特別にね。ええ、直筆ですよ、販売品じゃないんです』
 記憶を探るが、思い出せない。というのも、銀乃介は基本的に頼まれれば断らずにホイホイと書いてしまう為、誰に書いたのかなど一々覚えていないのだ。
 しかし間違いなく自身の書体。
 おかしな縁もあるものだと眺めていると、話題が将棋であるからか、例のキャスターはまたも口調が熱くなり、
『実に格好良い将棋を指す方でして……いや、浅井新王竜も確かに強いですが、私としては彼の方を応援したい。彼の方が強いと思うんですよ』
番組的には響を持ち上げて終わるところであるはずが、妙なことを言い始めた。当人以外は引き笑いを隠せていない、何とも微妙な空気のスタジオは絶賛全国放送中である。
「放送協会も最近はハッチャけるようになりましたね」
「後で怒られるんだろうな、彼。慰めの手紙送ってやれ」
 このキャスターの御陰で、突然酒が美味くなった気がした。幸田と二人言い合いながら、今日初めての自然な笑いが漏れていた。
『将棋を見始めたばかりの方は、是非島津銀乃介という名前をチェックしておいて下さい。いずれ名人になる方です……それでは本日はここでお別れとなります、おやすみなさい』
 終了間際のドタバタの中で、例のキャスターが何気なく漏らした一言。
 いずれは名人になる器だ。奨励会時代から、そう言われてきた。竹中・小寺の次は島津の一人勝ちで決まりだろう、そう言われていた――響がプロになるまでは。
 別番組の始まったテレビ画面から目を外すと、
「違うな」
静かに呟く。
「何がだよ」
「いや、さっきの幸田さんの話……惜しいけど、ちと違う」
 怪訝な表情の幸田に、今度は、一つのかげりもない、いつも通りの表情で返す。
 それは自身に言い聞かせるように。
「俺がアイツに付き合うんじゃない、アイツが俺に付き合うんですよ。最後の最後まで」
 あの日、例会でクソガキに声をかけたのは何の為であったのか。従順な後輩を作る為であったか、研究する上で役立つ人間を身内に引き込む為であったか――断じて否。単に己に相応しい相手を作り上げる為に、である。
 夢か現か朧気な、浮世に男児一生を得たからには、血吐き骨砕く刹那の恍惚を身に与え得る、宿敵をこそ求むべし。
 銀乃介にとって、名人になることは目的ではない。至上の宿敵と名人をかけて殴り合う、その過程こそが全てなのである。
「アイツがいて良かった」
 ともすれば忘れがちなその幸福を改めて思い出せば、何を落ち込むこともない。今宵は宿敵の出世した宴席なれば、これほど嬉しいこともない。


sage