一四

        十四


      十四の一



 大晦日、正午前。
 年末の大掃除を経てすっかり綺麗になった立花家私室で目を醒ました銀乃介は、一番にこめかみを押さえた。
 昨晩行われた立花家忘年会は、昨年までは響が呑まなかったこともあり並の宴であったのだが、今年は少々具合が違った。子供の酒などやらないはずが、どうにも勝負師の性というものか、どちらも引かずの盤外チキンレースにその場のノリで本因坊まで加わっての呑み比べ、一升ではきかずに呑んだはずだ。
 一日がこの調子では動くことさえままならぬと覚悟を決めて便所へ向かい、慣れた手順で胃の中身を空にする。
 幾分マシになった頭で居間へ向かうと、こたつで背中を丸めながら蜜柑の皮を剥く慈乃の姿が目に入った。一人ぽつねんと蜜柑をいじるその姿からは、いつものやかましさなど欠片も感じられず、それどころか妙な哀愁を帯びている。
「おっちゃんと響は?」
「お父さんはお母さんと買い物。響ちゃんは……もう帰った」
 終盤に向けてしぼんでいく辺りが実に解り易い。
「実家まで着いていく、とか喚いてキレさせたのか」
 アタリをつけて放り込んでみると、
「うるさい……いつもはあんなに怒らないもん」
既に涙声である。
 いつもならば散々からかって遊んでやるところだが、酔いの抜けきらない頭では面倒が勝った。
「俺も風呂浴びたら出るからよ。二日の夜には戻るからおっちゃん達に言っとけ」
「銀ちゃんは帰ってこなくて良いよ」
「響の相手やってやるっつってんだ。お前の変態将棋で調子崩してたら、わざわざ老体に鞭打って出てくる爺サマに悪いだろ」
 軽いジャブを入れてやり、ムッとした表情で振り返った、一瞬の隙を逃さない。白い筋まで丁寧に剥き終えて、後は口に入れるばかりであったろう、蜜柑を横からかっさらう。
「酔い醒ましには柑橘系ってな」
 口をモグモグと動かしながら言ってやると、
「さっさと帰れ、バカ!」
言葉と一緒に、皮の剥かれていない蜜柑がまるごと飛んできた。
「うおっ! あぶねえだろバカ野郎」
 言いつつも、直撃したわけではない。掌でしっかり受け止めている。
「うっさいバカ! 早く帰れ!」
「響がいないとマジでひたすらウザいな、お前……じゃ、精々良い年迎えろよ」
 このままウダウダしていたら第二第三の蜜柑が飛んでこないとも限らない、適当な挨拶を残すと、銀乃介は居間を出た。
「しっかしアイツ、あんだけ呑んでも平常運転たあ……高坊にしてウワバミか」
 深夜一晩トイレの世話になっていた響の姿など、知る由もない銀乃介である。

       十四の二

 駅からの慣れた道を行って暫く、目に入った懐かしい家の鍵は当然持っているが、インターフォンを押して反応を待った。不用意に入り込みでもしようものなら、常識の無い母親がいつもの調子で何をしでかすか解らない。不審者と間違われて警備会社でも呼ばれた日には折角の晦日が台無しだ。
『はい、どちらさま……あら、銀乃介』
「ただいま、母さん」
『今開けますから、少し待ってくださいね――』
 と言った直後、
『それにしても、貴方も素敵な男性になりましたねえ……ああ、インターフォンのカメラとモニターをね、変えたのよ。だからね、映りが良いの。映りが良いっていうのは、貴方が格好よく映るとかじゃないのよ? 細かいところまでよく映るってことなのよ? ああ、それで、本当に、父さんの若い頃みたいですよ……そういえば、立花さんの千代ちゃんとはどうなっているのかしら? ぼんやりしているとね、他の人が横から出てきますからね。あんなに綺麗な子なんだから。貴方はね、お父さんと似て、格好付けたがる癖に肝心な所で腰が引けるから。そのせいで私も苦労したのよ。女に苦労させる男はダメよ、ちゃんと男の人から声をかけないと、可哀想よ――』
雪の積もった年の瀬、インターフォン越しで寒さを堪える相手に、ボケた話を大真面目で語り出す。銀乃介の母、島津日向(ひなた)はそういう女である。
『――初めてのデートもそうだったのよ。映画のチケットを持って私の周りうろうろしていてね、変な人だなあって思っていたの。それでね、いつまで経っても後を着いてくるからね、私怖くなってしまったの――』
「――交番に駆け込んだんだよな。その話は中で付き合うから、とりあえず鍵開けてくれ」
『そうなのよ、交番に逃げたの。そうしたらね、父さんったら――』
言った所で聞きやしないのは解りきっており、
「ああ、解った。こっちで勝手に開けて入るから、警備に連絡すんじゃねーぞ」
伝えたのだが、
『――結局留置所に入れられてね――』
去り際、インターフォンから漏れ聞こえた様子からして、思い出話は独り言として延々と続くのだろう。

 パタパタとスリッパを鳴らして駆け寄る日向を避けるように、コートをハンガーに掛け、リビングのソファに音を立てて腰を下ろす。
「親父は?」
「留置所に入れられてしまったの。でもね、私も、どこかで見たことがある人だって思い出したの。それで、もしかしたら用事があったんじゃないのかしらと思って、そうしたら可哀想になってしまって、迎えが来るまでね、警察署の玄関で待っていたの――」
「――その夜一晩待って、次の日警察署から直接映画館に行ったんだろ、知ってるよ。
 で、親父は、今、何してんの?」
「専務をやっていますよ。大東亜製鉄の」
「……そうだな。で、専務の親父は今日はどこにいるんだ?」
「今はお買い物に行っているわ。お休みをね、頂いたの。今年はね、五日まで」
「そりゃ良いご身分だ」
「でも、大変なのよ。会社のね、秘密の精錬方法が流出しちゃったんですって。それで、裁判を起こすんですって。父さんもね、ずうっと忙しくて、ついこの間まで、そのことで海外に行っていたの」
「ああ、そいやニュースで見たわ。職員引き抜かれて技術が漏れたんだっけ」
「お土産を買ってきてってお願いしたのに、父さんったら聞いてくれなかったの」
「親父も苦労してんだな」
「その国のドラマもね、これまで二人で見ていたのに、見なくなってしまったの」
「そりゃ大変だ」
「でもね、空いた時間で父さんと将棋をするようになったの、それが楽しいのよ。母さん銀乃介にも勝ってしまうかもしれないわ、父さんにも勝てるんだから」
「ほー、ドラマの続きは気になったりしないのか?」
「だって、一週間見なかったらどんな話だったか忘れてしまうじゃないの。気にするにも気に出来ないわ」
「相変わらず幸せな頭してんだな」
「ええ。銀乃介に会えたから、今日はとても幸せね」
 一事が万事この調子、母親でなければとても相手をしていられない。普段であれば父に任せて放置で済むのだが、生憎その父は不在ときた。
「じゃ、親父帰ってくるまで相手してやるよ、将棋」
 延々話を聞かされるより何か作業をしていた方が紛れるだろうと、自分から持ちかける。
「盤はどこ?」
「テレビの脇にありますよ」
「ん……ああ、これまだ使ってんだ」
 焦茶色に日焼けした傷だらけの卓上板、歯形で文字の消えかけた駒。銀乃介が家を出るまで使っていたものだ。
「何もこんなボロ使わなくたって良いだろうによ……脚付きもあったろ、ほとんど使ってないの。ほら、俺が最初に買ったヤツだよ。面倒だから使わなくなったの」
 当時小学生だった銀乃介少年が格好を付けて買ったのだが、一々引っ張り出すのが面倒になり、結局は卓上板に代わられてしまった哀れな脚付きが、島津家には存在している。
 偶に気分転換で使うくらいなら用意する面倒もそれほどではないだろう、と、そういう意味だった。
「アレはね、会社の将棋部にさしあげたわ」
「ああ、そうなんだ」
「銀乃介の物なのに、勝手にして悪かったかしら」
「別にいいさ。相変わらず職団戦頑張ってるし」
 職業団体対抗将棋大会、通称・職団戦。企業の将棋部などが参加する連盟主催の大会であり、SクラスからFクラスまで七階級に分かれて五対五の団体戦トーナメントを行う、アマチュア企業人による順位戦のようなものだ。当然、成績に応じたクラスの入れ替えもあり、Sクラスともなれば、理研や日電などの、元奨に対する理解の深い企業――奨励会退会者という履歴書に一定の評価をし、雇用の際に考慮する事もある――が占めている。
 銀乃介が幼かった頃の大東亜製鉄将棋部は、歴史はそれなりにあるものの実力に関しては今一つ、という評価であったのだが、ここ五、六年は、爆発的な成長と言われるまでの変化を遂げ、直近十月の職団戦でBクラス3位入賞という快挙を達成していた。
「銀乃介が奨励会に入ってから、会社の人達、一生懸命勉強しましたからね」
「親父にゴマするつもりだったんだろうけどな」
「でも父さん、将棋部の連中は将棋に傾き過ぎているから出世させないって言っているわ。御本人達にも、そう伝えているのですって」
「まさしく本末転倒だ」
「でも、誰一人として部をやめていないわ。最初はそうだったのかも知れないけど、今は本当に好きなのよ。父さんも、出世はさせないけど、あそこに顔を出すのは楽しいみたいだから、みんな幸せなんじゃないかしら」
 とことんまで人を疑う事を知らない母の言葉に、呆れながらも頬は緩くなる。楽な空気の家庭なのである。
 駒を並べ終えて、
「じゃ、指すか」
言うと、母の目は点になっている。
「でも銀乃介、貴方の駒が金と王様しか並んでいないわ」
「俺の金は母さんの大駒二枚分くらい強いから、これで十分。その代わり先手コッチな」
 今度遊びにでも行ってやろうか、と将棋部の面々を思い浮かべながら、久方ぶりのキンタマ将棋。


 難しい顔で盤を睨み続ける母だが、如何せん日頃の間抜けな空気が染みついており迫力は無い。局面に眼を向けると、銀乃介の玉は既に入玉を果たし負けの無い態勢、後は適当に浮いた駒を拾っていくだけで勝てるだろう。
 一手で済むところを三手かけてやったり、或いは歩で済む所でも敢えてカナ駒を渡してやったり、可能な限り緩めているのだが、我が母ながら、アマチュアがどうのプロがどうのという以前の問題で、弱すぎる。
 と、インターフォンが鳴った。
「親父じゃねえの?」
 水を向けてやるが、
「母さん一生懸命なんです。貴方が行ってください」
いつもならば父の帰宅より優先される事項など無いはずなのだが、にべもない。それだけ必死に考えて何故そんなに弱いのかと、銀乃介は苦笑しながら立ち上がった。

 インターフォンのボタン一つでロックを解除、というのでは味気がないと、気分転換も兼ねて表まで迎えに出ると、
「……日向はどうした」
世紀末覇者に負けず劣らずの強面で一言。遙か昔の学生時代はラグビー部の主将なんぞを務めていたというだけに体躯も大柄であり、本格的に、大企業の幹部よりマフィアのドンと紹介した方が腑に落ちる外見である。
「将棋盤と睨めっこしてるよ……それより親父、セガレの前で母親を名前で呼ぶの、いい加減やめねえか?」
「お前の都合など知らん」
「これだから帰ってきたくねえんだ」
「下らない文句を垂れる前に荷物を持て」
問答もそこそこに、中身がぎっしりと詰まったエコバッグを押しつけられる。父があまりに軽々と持っていたせいか、油断していた銀乃介の足はふらついた。
「蟹を買ってきた。今日は鍋だ」
「んなこと聞いてねえよ」
「局面はどうなっている」
「は?」
「将棋の局面だ。指していたのだろう」
「ああ……キンタマで相手してやったけど、ありゃ弱すぎだわ。流石に負けてやれねえよ」
「ふん。バトンタッチだな」
 ぼそりと呟くと、銀乃介を押しのけて家の中へ入っていく。
 程なくして、母の甘えた声が玄関先まで届いた。
 父・龍之介と母・日向、共に四十八歳とそれなりの年齢であるはずなのだが、金の力かそれとも夫婦の関係故か、見た目も中身も異常に若く、初対面の人間から常に驚かれる程である。実際、二桁少々のサバを読んでも十分通じてしまうだろう。
「この年で弟やら妹ってのも、勘弁して欲しいよな」
 有り得ないと言い切れないのが、息子としては恐ろしいのだ。



      十四の三

 島津家次男・俊久が帰宅すると、リビングでは疲れ切った表情の父が、一人紅白歌合戦を点けながらビールを呑んでいた。異常なまでのタフネスを誇り、どのような仕事をこなした後でも全く疲れを見せない人間であるのに一体何があったのかと、その様に狼狽える。
「お帰りなさい。お疲れ様でした」
 パタパタとスリッパを鳴らして近付いた母にコートを預けながら、
「父さん、何があったの?」
尋ねると、
「銀乃介と将棋を指していたら、盛り上がってね。何て言うか、気にアテられて、参ってしまったみたいなの」
ほわりほわりとした、いつも通りの空気で母は答える。
「ああ、なるほど。兄さんはどこに?」
「今お風呂に入っているわ。ご飯ももう少しかかるから、俊久も一緒に入ってしまったら? 豊明があと三〇分くらいで着くらしいから、それに合わせているの」
「そう……なら少し話もあるし、そうするよ」
 ワイシャツのボタンをぷつりぷつりと外しながら、俊久は風呂場へ向かった。


           ※


 わかっちゃいるけどやめられねえアホーレ、と、昭和の親父さながらに、銀乃介の響かせていた歌声は、突然開いた浴室の戸にぶつりと途切れた。
「ようトシ、元気か」
 島津家の風呂は広い。この年になっても一緒に風呂に入る事は珍しくなく、悠々と湯船に浸かりながら迎え入れる。
「そっちは元気そうだね、こっちは大変だよ。聞いてるだろ?」
 言う俊久は、シャワーで髪を濡らすと早速泡を立てている。
「訴訟起こすんだろ、勝てんのか?」
「勝てなきゃやらないよ、頼りになる人集めているから……兄さん風に言うなら、ケツの毛まで毟り取ってやる、だね」
 事も無げに言う弟がたのもしい。
「ま、頑張れ……トヨは、最近どうしてんだ?」
「国の総合職目指すってさ、今年はずっと勉強してたよ。今日も図書館行ってるし」
「マジでか……ウチの家系って何で俺だけバカなんだろ、母さんに似ちまったのかね」
「母さんだってペーパーの点数は良かったはずだよ、あんなだけど」
「そうなんだよな。俺以外で赤点取った事ある人間いねーだろ、ここの家」
「兄さんはそういう部分の能力値、全部将棋に突っ込んじゃったんだろ」
 喋りながら身体まで洗い終え、浴槽へ浸かる。二人の男が肩を並べてもまだ二、三人の余裕はありそうだった。
「将棋と言えば、浅井君だっけ。彼、すごいね」
 と、出てきたのはよく知った名だが、だからこそ、銀乃介の反応はワンテンポ遅れた。
「何だ突然」
「ウチの将棋部がさ、最近注目を集めているから」
「ああ、どこぞの専務から出世させないって言われちまってる連中だろ?」
「基本的には良い人達だよ。出世から外れた事を自覚していればこそ、話してくれることもある」
 そう言って、俊久は一見屈託のない笑顔を見せた。こういう時の弟は何を考えているか解らない事を、銀乃介もまた当然理解している――とはいえ、それに張り合うつもりも、張り合えるだけの器用さも、まるで持ち合わせていないのだが。
「将棋の件は、純粋に連中が頑張ってるからだろ。職団戦だって来期からAクラス、元奨やらアマ強豪で固めた訳でもねえのに、純粋な企業部活動として立派なもんだよ」
「確かに将棋部の人達が頑張っているのも要因ではあるけど、それだけじゃないんだ――」
 声色が、一段と落ち着いたものになる。
 意識的に変えているのだ。聞き手に態度を改めるよう、それとなく促している。
「――浅井君という存在の力で、将棋というゲームに対する評価があからさまに変わった。特に若い世代の間で」
 相手が彼の兄でなければ、銀乃介でなければ、有効な手段であろうが、
「若い世代って、俺もお前も若いだろうがよ、ジジくせえこと言いやがって」
この男にはまるで意味が無かった。平然と聞き流し、今にもハナクソでもほじり出しそうな空気を崩さない。
 尤も、俊久も兄の性質など熟知しており話を続ける。聞いていない訳ではない、という事もまた承知していた。
「たとえば、理研・日電・富士重機・三銀・ニチレ」
「S級常連のメンツか……そこら辺の部員はほとんどセミプロの域だな」
「浅井君絡みで将棋が注目を集めるようになってから、材料が少ない日でも株がじわじわ伸びてきてる。特に顕著なのは、ニチレが将棋イベントを発表した事は知ってる?」
「あー……自分の所のコーヒーチェーンでやる将棋カフェってヤツか。詳細は知らんけど、連盟にも話は来てるみたいだな」
「発表から八営業日続伸だったよ。仕手筋の動きが見えたし、イベントの成否自体も現状じゃ不明だけど、マーケットが将棋という材料をどう捉えているかは十分に解る。
 ラグビーや駅伝なんかの、企業における花形部活動と同じ視線が、いやそれ以上のものが向くようになったんだ。これからは、将棋と縁が深いというステータスが、企業広告の上で相当な武器になる」
「で、結局何が言いたいんだ?」
「……大東亜が出資して新棋戦を立ち上げる計画がある、って話だよ」
 流石に、銀乃介のだらけきった空気にも細波が起きた。
「突拍子もない話じゃないさ。今の世相なら、将棋にはそれだけの金を出す価値がある」
「俺が身内の人間だって事で宣伝する気なら、悪いけど受けねえぞ」
「当然、兄さんには迷惑がかからない事をやるさ」
 どういう事だ、と視線で問うと、
「作ろうとしているのは、女性の最強を決めるタイトルだもの」
これもまた予想外の答え。
「その前に背景を軽く説明しておくと、日本の鉄の未来は決して明るくないんだ。何より単価の安い国を相手に戦っていかなければならないし、技術的な付加価値だけで商売するなんて現代市場じゃ無謀なだけ……勿論、今回みたいな知財管理の甘さは別問題だけど」
「解り易く一言でまとめろ」
「大東亜ブランドを、一般の消費者層にPRしたい」
「もっと解り易く」
「たとえば一般消費者が車を買う時に、その車のボディはどこの製鉄会社が作った鉄なのか、少しでも意識するようにさせる。多少価格が上がっても、海外の鉄よりも国産の鉄で作られた製品に有り難みを感じるようにさせる。国産鉄というブランドを、一般消費者が意識するように仕向ける。そうなれば、製造業は国内製鉄をそう簡単に捨てられない」
 銀乃介はふと、淡々と語る俊久に、父・龍之介と同じものを感じていた。目の前の弟は、その戦場の最前線を知っている人間に違い無かった。
「タイトル戦の際に着る和服、江戸時代から続く風習の数々。その実はどうでも、将棋は日本の伝統文化であるという、連盟のイメージ戦略は実に成功している。こちらとしてはそれに乗っかりたいんだ。日本の伝統文化に理解があり、一般生活の身近な所で役立っている、最高品質の鉄を作っている大東亜。そういうイメージを、もう一度浸透させたい」
「その上で、響が出てきたって事か」
「まあ、今言った事に関しては、気休め程度の効果でもあれば上等、って感じだけどね」
 俊久は包み隠さずに笑うと、
「それでも、純粋に費用対効果で考えれば、今の将棋は格安だ。たったの三億で、確実に全国民が大東亜の名前を覚える、日常生活の中で意識するようになる」
ハッキリと言い切った。
「対象が女ってのは?」
「イメージ戦略で女性が重要視されるのは必然だし、それに、女性に対するアプローチは棋界が出遅れている部分だからね、古参スポンサーとの無用な軋轢も避けられるだろ?」
「なるほどねえ……よーく解った」
「兄さんはどう思う?」
「俺が口挟めるこっちゃねえだろ、好きにしろ……必要なら頭くらいは下げてやるさ」
 棋士と言っても指す専門、棋戦運営に関する知識などまるで無いに等しいが、事務方を紹介するくらいならばしてやれるだろう。全て押し付けて勝手をやらせて貰っている負い目もあり、やれる事はしてやりたいと、そう思うのは自然だった。
「本当に、頼りにしても良いんだね?」
 念を押すように問うた俊久の表情は、気の置けない兄弟の会話という雰囲気ではないが、
「俺のやれる事ならな……じゃ、先上がるぞ」
深く考える事もなく、普段通りに応じると、ざぶりと、豪快な音を立てて湯船を出た。



      十四の四

 一家五人の食事を終え、島津家年末の恒例行事である『桃鉄九十九年ぶっ通しプレイ』の最中、酔い覚ましを兼ねて、煙草を吸おうと表に出たところ、俊久に声を掛けられた。
「一本ちょうだい」
「吸ってたか?」
「付き合い程度ならね、肺には入れないけど」
「誰がやるか、勿体ねえ」
「ケチだな」
「悪いな……今時煙草吸うヤツなんてよほどのバカだけだ、やめとけ」
「自分は吸ってる癖に」
「バカでなきゃ将棋指しなんざなるかっての」
 ケッ、と笑ってみせると、俊久は苦笑していた。
「ウチの家系じゃずば抜けた天才だよ、兄さんは。間違いなく」
 言いながら、自身の懐をまさぐり、取り出したのは葉巻だった。手慣れた仕草でカットすると、どうやら火は持って来なかったらしい、手で催促する。
「吸わないっつってたろうが」
「肺には入れない、って言っただろ?」
「ジッポしかねえぞ」
「たまにはオイルの味も良いさ」
 右手を振って火を起こす。暫くすると葉巻の甘い匂いが漂った。
「ニオイ、混じらねえか?」
「言うなよ。兄さんの隣で煙を吐いてみたかったんだ」
「物好きなのは結構だが……この時期じゃ、息が白くて解りゃしねえよ」
 空を覆う雪雲に星は隠れているが、まばらに舞う雪が反射する街灯で、不思議な明るさがある。新潟を、響がタイトルを奪取した、あの雪化粧の街を思わせる夜だった。
「さっきの新棋戦の件、早速だけど、一つお願いがあるんだ」
 ゆっくりと、舐めるように煙を吐きながら、俊久は話を切り出した。
「立花姉妹を口説いて欲しい」
「ああ……なるほど」
「連盟の事務方に軽く打診した時は、本人の意志を尊重したいと……要は、良い感触ではなかったんだけどさ。仲、良いんだろ? 昔からよく名前聞いたし」
「アイツら棋士だしな……本人が出る気ないって言うなら、難しいんじゃねえか」
「そう、何より重要なのは本人のやる気。だから、その気にさせて欲しい」
 切り返しの早さに、どうやら俊久も本気らしいと悟り、銀乃介は己の軽口を悔やんだ。
「勿論、対局料に関しては別枠を用意する。連盟の事情も理解している、棋士と女流棋士を同列に扱うような真似は誓ってしない」
「そこまでされたら、事務方じゃ嫌とは言えないわな」
「女流至上ぶっちぎりの賞金額、棋士のタイトル戦を一つやれるだけの金を投資するんだもの、疑問が生まれる余地なんてないはずだよ。勝って稼ぐ、それだけだ」
 俊久は人の心の解らない人間ではない。とすれば、敢えて感情を消しているようなこの無機質な物言いも、仕事上の必要から身に付けたものなのであろう。
「アイツに……血ヘド吐く思いして這い上がった人間に、今更女流と混じって指せなんて、簡単に言えねえよ。正道でプロになった人間に、女性なんて枕詞は侮辱と同じだ」
 或いは慈乃ならば二つ返事で了解しそうなものだが、千代の場合は事情がまるで違う。
 彼女が女流という退路を自らの内で断ち、背水の覚悟を背負って奨励会という修羅場に臨んでいた事を、当時の悲痛なまでの決意を、自身の臓腑をすり潰す事すら辞さなかったであろうおぞましいまでの執念を、銀乃介は誰よりも間近で見ている。故に、千代が女流という人種に対して、他の棋士とは異なる、複雑な、ある種の屈折した感情を抱いている事も、今はまだ、仕方のない事だと理解している。
 だからこそ頷けなかった。
「まだ、仕方ねえんだよ……ついこの間まで、アイツは、そこに行かない事を誓いにして指してきたんだ、堪えてきたんだ。そのことを解ってやってくれ」
 言葉のやり取りでは敵わぬと事実上の投了を告げ情に訴える。銀乃介には最早それしか手が残されていなかった。
 これにはさしもの俊久も言葉を躊躇った。少なくとも、それまでの饒舌は消えていた。
 故に、それは精一杯の温情に他ならなかった。仕事であれば決して明かさないだろう、自らの狙いを、隠すことなく打ち明けたのだった。
「なら、言い方を変えるよ。立花姉妹に……立花千代さんに、謝っておいて欲しい。少しでも納得した状態で場に出てきて貰う為に」
「どういうことだ」
「事務方とは別ルート、松永会長がこちらの条件を呑んだ……強権も辞さないという言葉まで付けてね」
 聞いてから吐き出した息が、ひどく重かった。
 俊久の言葉を疑う事すら出来ない。松永であればそうするだろうという思いが、銀乃介の中にもあった。そして、事態が彼女の意志とは無関係なところで既に動き始めているのだと知ると、俊久の依頼を受ける以外に方法が無い事もまた知れた。
「つまらない営業でしか稼げない女流棋士を本当の意味で独り立ちさせる機会だ――あの人はそう考えている……常識的な判断だと思うよ」
 ならば何故、わざわざ自分に話をした。と、言葉に出すよりも先に、俊久は続ける。
「それでも、本人には出来るだけ納得した状態で出てきて欲しいんだ……協力的な人間に優勝して貰った方が主催者としては有難いってことは、何となく解るだろ?」
 無理矢理引っ張り出したのでは、広報活動に協力して貰う上で不都合がある。そういう意味だろう。響のような例外を除けば、愛想のない棋士が自社の棋戦を勝ち進む事を主催者側は歓迎しない。それは当然のことで、だからこそ、俊久の発言全てに納得がいく。
 棋戦の開催も、そこに千代と慈乃が参加させられる事も、或いは、棋士と女流の棋力差からして、姉妹のどちらかが優勝するであろうという事までも、スポンサーとしては既に織り込んでおり、その上で、今後彼女たちを巧く使う為にアリバイを作っておきたい――言ってしまえばそういうことになる。
 あまりにも自分たちの世界をコケにしているが、銀乃介は怒れなかった。スポンサーとしては当然の理屈であると理解していた事もあるが、それは決め手ではなかった。相手が俊久でなければ、このような依頼をする無礼な人間は即座に殴り飛ばしていたか知れない。
 しかし、どうして怒れようか。俊久がこれを言うのは、彼がその背に負った存在の為である。彼がその存在を背負うのは、銀乃介が放り出したが故である。つまり、俊久の発言は全て、銀乃介が言わせていることと同じなのである。
「解ったよ……俺からも話しておく」
 連盟の命令で出場することと、弟弟子に頼み込まれて出場するのでは、彼女からしてもまるで意味合いが違ってくる。自分たちの関係を過信するのではないが、彼女の精神的な負担が軽いのは確実に後者であろう。自らの意志を踏み潰されて出るのではなく、間抜けな弟弟子を助けてやる為に出場してやるとなれば、最低限のメンツは立つ。
「すまない。ありがとう」
 そういった俊久は、下唇を軽く噛みながら頬を少し膨らませた、知らない人間が見れば相手をからかうような表情だった。そしてそれは、昔と変わらない、彼が心から謝罪の念を感じている時に出てしまう癖だと、銀乃介は知っていた。小学生の頃、銀乃介の作ったプラモデルで遊んでいて壊してしまった時と、全く変わらない顔をしていた。
 その後は無言だった。雪の散る中で、ただひたすらに二人並んで煙を吐いていた。

 煙草も三本目を吸い終わろうかという頃、家の中から、桃鉄の続きに焦れた父親の呼ぶ声が届くと、二人で顔を見合わせて、呆れ笑いが浮かんでいた。
「そろそろ戻るか」
 言って煙草の火を消して、玄関の扉に手をかけた銀乃介に、後ろから、
「兄さんは、何故将棋を指してるの?」
「あ? 何だよ、急に」
「いや……企業勤めしてると、利潤や社会貢献に繋がらない目的意識って凄く新鮮だから。気になってね」
振り返ると、いつも通りの、しかし、今日は初めて見る顔かも知れない、余計な肩の荷を降ろした弟の顔だった。
 銀乃介はふと考え、
「敢えて言葉にするのなら、不条理なるが故に、ってヤツか……結局はそこに行き着く」
そう答えた。彼自身、そうとしか言いようが無かった。
「元より、堅気の人間には理解されない感覚だ。解らないならそれで良いさ」
 答えを聞いて不思議そうな表情を見せた俊久に、更に続けて言い残すと、今度こそ家の中に入った。

 この家は、彼という人に与えられた才は、少々恵まれすぎていた。故に、彼は真っ当に生きられなかった。
 プロになったのは、全くの偶然である。あの日、将棋祭りの対局コーナーで彼女に出会わなかったらば、乞食暮らしをやりながら片田舎の道場で将棋を指し続けある日ぽっくり野垂れ死ぬような、そんな人生を送ったのかも知れない。
 金も、名誉も、彼は将棋に報酬を求めない。唯一求めるものがあるとすれば、より強き存在、それのみであろう。
 人生が不条理に囚われていることと同じように、或いはそれ故に、彼は、あらゆる意味の霧散した精神の荒野で将棋と遊び続けることを選んだのである。




      十四の五

 年明け五日。千駄ヶ谷では指し初め式が行われており、出番を終えた銀乃介は羽織袴の出で立ちで連盟地下のスタジオに入っていた。隣には少しばかり不機嫌な風な、晴れ着姿の千代が立っている。
「少しは機嫌直せよ、折角良いモン着てんだから」
「うるさいわね……大体、アンタが考え無しに変な話引き受けて来るから悪いんでしょ」
 銀乃介が実家から帰ってきて以来、正確には例の棋戦への参加を依頼してからであるが、千代の機嫌は悪かった。彼女にしてみれば、弟弟子のあまりの必死さに不承不承引き受けてやったのであり、多少イジめてやってもバチは当たるまいということである。
「その件はマジで感謝してるよ。今度なんか買ってやるからさ」
「いらないわよ」
「ほら、この前欲しいって言ってた児島さんの駒、アレ買ってやるよ」
「アンタさあ、将棋の駒プレゼントされて機嫌直す女なんていると思ってるの?」
「欲しがってたじゃねーか」
「それでも、駒は自分で買うから要らない。本当に機嫌直して欲しかったら、もっと気の利いた物にしなさいよ」
 口悪く言ってみせてはいるものの、実際にはそう怒っている訳ではないと伝わってくる。とは言え、実際に銀乃介の財布は寂しい事になるだろうが。
「わーったよ、一日付き合ってやる。いつが良い?」
「じゃ、明日。当然全部アンタ持ちだから、今月は馬券買えると思わない事ね」
「手加減しろよ」
「エスコート次第かな」
 言い合っているうちに、今日の仕事相手である、インターネットサービス企業の職員が機材のセッティングを始めていた。指し初め式のイベントに取り込む形で行われることとなった、新人王戦記念対局を、自社動画サイトを通じて生中継するらしい。
「よくこんな最新メディアを引っ張り込めたもんだな」
「前々から、会長が独自のルートで口説いてたらしいわよ。今日のケースが巧くいったらタイトル戦の一日生中継とかも企画するって」
「ふん。あのジジイ、よー色々と考えるこった」
 浮かんだ松永の顔に吐き捨てたのだったが、
「どうかしたの? ギンが会長のことそんな風に言うなんて」
他ならぬ目の前の相手には、悟られてはならないことだ。
「別に、大したこっちゃねえよ……ちと小便」
 昨日今日の関係ではなく、ごまかしきる事など出来るはずもない。適当な理由付けて場を離れようとしたのだが、その時だった。
「やあやあ、今日はよろしくお願いします」
 景気の良い挨拶でスタジオに現れたのは松永その人であり、銀乃介と千代のいる一角をみとめた一瞬、彼の表情が確かに変わったのを、銀乃介は見逃さなかった。
 ひょっとすれば、松永は千代に例の棋戦のことを打診するつもりかも知れず、とすれば二人きりで話をさせるわけにはいかない。あくまで千代は、間抜けな弟弟子が必死に頭を下げたから、出場するのでなくてはならない。
 近付いてくる松永を千代の手前で引き留めると、
「便所、付き合って下さい」
老いを感じさせる細腕を荒く掴みながら、耳元で伝えた。



 最寄りの便所に入り、用を足すフリもなく、壁に寄りかかりながら。
「お誘いは有難いがね、どうせなら立花君に付き合いたかったよ」
「どっちの意味でだ、そりゃ」
「さあ、両方かな」
 飄々と、しらばくれる風でも無しに、松永は応じる。
「どんな味なんだい?」
「何が」
「お小水さ、立花君の」
「スカトロジジイが」
「何だ、まだ小便も飲ませて貰ってないのか。飲ませるのも良いが、偶には飲んでやるのも悪くないぞ」
 別段とシモの話が嫌いなタチではなく、いつもならば笑ってやるところだが、そういう気分でもない。
「例の棋戦の話なら、千代はもう納得してる。アンタは何も言うな」
 相手は松永である、それだけ言えば全て通じた。
「ならばそういう事に。君のご実家が満足してくれるなら過程は問わんよ」
「厭味な言い方をしやがる」
「厭味、厭味ときたか。天才と家柄の両方を腐るほどに与えられた君ならではの言葉だな」
「生憎、その手の煽りは聞き飽きててな」
 穏やかな雰囲気が却って不思議なほどであった。ふらりと入り込んだ部外者が何事も無く脇で用を足して出て行けるような、静かなやりとりだった。
「とにかく、千代に余計な事は言うな。アイツは自力一つで俺達と同じ土俵に立ってんだ、周りにガタガタ言われる筋合いなんざねえはずだ」
 銀乃介が何気なく呟いた言葉に、松永は一呼吸の間を置いて、
「まさかとは思うが、まだ抱いていないのか?」
そう言った。滲んでいるのは、嘲りというより呆れに近い色だろうか。
「知ったことか」
 突き放す銀乃介にそれ以上構うことはせず、松永は一人続ける。
「今回の件、立花君の為にも受けて正解だったと、私は思うがね」
「この期に及んで言い訳がましいぜ、見損なわせるなよジイさん」
「例の棋戦に貢献してくれれば、年に数億の金を引っ張ってくる存在だ、口を出してやる理由も出来る」
「何に口を出すってんだ。わざわざ庇ってやるような立場じゃねえだろう」
「……本当に、君は何も聞かされていないんだな」
「何を言っている」
「木下のことだ。理事の木下」
 木下元吉九段、二階堂とタイプは違うが女狂いで有名な棋士である。しかし実績に関しては折り紙付き。タイトルからは十年近く遠ざかっているものの、五〇代にしてなおB級一組を保ち続けている、紛れもなく棋界の頂点を知る一人だ。
 そして現在は、連盟の常任理事の一人でもある。
「棋天戦が終わった頃だ、結城が血相変えて執務室に怒鳴り込んで来てな。下らんデマだと追い返したら、次の日には市ヶ谷の筋まで引き連れてきたよ。万一にも立花鑑連の逆鱗に触れてみろ、冷戦どころでは済まなくなるぞ……と脅された」
「だから、何を言っている」
「多少特殊な研究会への誘いがあったそうだ。有り体に言うなら、最新情報をくれてやるから愛人になれ、と――木下本人も認めている。その上で、今後もやめる気は無い、とも」
 正直に言えば、予想の付かないことではなかった。というより、奨励会時代から、その手の目的で研究会に誘ってくるプロは何人かいたし、本人も適当にかわすのは慣れているはずだった。
「下らねえ、今更そんな戯言相手にするタマじゃねえよ」
 問題にもならない、と鼻で笑った銀乃介に、しかし松永は、なおも堅い表情を崩さない。
「相手は理事だ、盤外戦など幾らでも仕掛けられる……たとえば、立花君のスケジュールについて、疑問に思った事くらいあるだろう。雑誌の取材に地方での普及活動、明らかに過密なんだよ。同クラスの層に比べて、研究に割ける時間は半分以下のはずだ。
 忙しいだけならまだしも、そうした普及絡みの仕事でどうにか生計を立てているような、低層棋士からの恨みも買う……自分たちの稼ぎを奪う気か、とね。こちらの方は深刻だぞ、何せ木下はその連中をそっくりそのまま抱き込むからな。方法は簡単だ、理事として適切な仕事を与えるだけで良い。それだけで木下は手勢を増やし、立花君は更に孤立する」
 聞いていくうちに、銀乃介の胸中にふと思い起こされることがあった。
 昨年の十月頃だったか。千代が、奨励会時代から参加していた研究会に、突然行かなくなった。その研究会が解散した、ということではないのだ。ある日ぱったりと千代が行かなくなったのである。元々銀乃介は定期的な研究会に殆ど参加していないし、響や慈乃も同様だったため、特に気にかけることはなかったが、あれは何故だったのか。
「心当たりはあるようだな」
 表情に出ていたのだろう。松永の言葉は、耳を冷ややかに通り抜けた。
「もし仮に、連盟に所属する二棋士の間に問題が発生したとする、そしてどちらか一方が廃業しなければならないような事態に陥ったとする。そうした時、連盟の会長が何を基準に判断するか、君は解るか?」
「……さあな」
 一応の言葉は返すも、心はそこにない。話さなかった千代の態度への、木下のやり方への、そして、何も知らずにいた自身への怒りが、銀乃介の胸中で渦を巻いて濁流となっていた。
「この世界に残るべきはな、将棋が強い人間だ。もしも立花君がこれを問題として外部に訴えるつもりなら、私は迷い無く木下を擁護する……君も棋士なら、まさか狂っているとは言うまいね」
「ああ、そうだな。アンタが正しい」
 借りは全て盤上で返さなければならない。その信念を誰よりも強く持っている男だからこそ、躊躇いの間は生まれない。
「しかし、会長だからな、組織の運営を考える事もまた当然だ。仮に、一人の力で年に数億の金を稼いでくる棋士がいるとしたら、それは十分考慮に値する……と、これが今回の棋戦に彼女が参加するべき理由だよ」
「そうか……なら、好きにやりゃ良いさ」
 果たして松永は、本当に千代への嫌がらせを止める気があるのか、確かめる術は無いが、しかし仮に、その術があったとしても、銀乃介は敢えて確かめようとしただろうか。彼は既に、事の行く末よりも、胸中に渦巻くこの怒りを、盤上でその相手に叩き付ける事以外、考えられないのである。
 ふと、松永は呆れたような息を吐くと、
「その単純さが、将棋においても、強さに繋がっているのだろうがね……早く抱いてやれ、とだけ忠告させて貰うよ」
そう言った。
「君と彼女とでは才能のケタが違う、だからこそ、一局の勝ちに懸ける執念が違う。一度でも地獄を経験した人間は、泥を被る事を厭わんよ。君には解らん感覚だろうが」
 銀乃介の肩を気易く叩くと、
「誰の女か身体で教えてやれ。そうすれば、多少は角が取れるだろう」
「女流と指すことを拒否しない程度には、ってことか」
「そう単純なことは言ってない……なまじ幼い頃から一緒にいたからだろうな、君や浅井と張り合おうとする不相応を、彼女は認められずにいる」
そうして、間を置くように、私も会長なんぞをやるまでは知らなかったがね、と、珍しい自嘲を浮かべてから、
「棋士にも二種類いて、君たちは上、彼女は下、そういうことだ……下であるなら、生活のために指すことも恥ではないと、どこかで認めなければ、壊れるのは彼女だよ」
言い残して便所を去った。


       十四の六

 演出にしても凝りすぎている、と、響は少々機嫌が悪かった。
 タイトルホルダーとして初めて参加した指し初め式は特に問題なく務めたものの、その後、記念対局の相手である二階堂秀行が出てきた辺りからおかしなことになった。二階堂が、報道陣の前で、プロレス顔負けのマイクパフォーマンスを繰り出したのである。
『今日ワシは、後手8五飛をぶっ潰す。もしも浅井が横歩を取らせなんだら、それは浅井が逃げたということよ。八十過ぎの老いぼれを、恐れて逃げたということよ。いや、万一そんなことになったなら、ワシは棋界の未来が心配だ。ハッハッハ』
 響も大概ひねくれているため、それならば今日は飛車を振ってやろう、と考えていたのだが、間が悪く、その場に慈乃がおり、
『響ちゃんは逃げない。横歩だろうが角換わりだろうが矢倉だろうが、響ちゃんが勝つ』
と勝手に宣言してくれたのである。
 挙げ句ダメ押しとばかりに、連盟の事務職員から、
『今日は記念対局ですから……公式記録に入りませんし、どうか盛り上げる為だと思って一つ、お願いします』
と念を押されては仕方がない。万一勝ち負けまで指示されたらば、イベントなど一切無視して全て叩き壊してやったのだが、横歩を試す良い機会だという考えも多少あって、受け入れることにしたのだった。
 横歩取り、という戦型に関して、響は実戦で使ったことがまだ無い。というのも、学生生活で研究量の劣る立場、一手バッタリが多い横歩のような戦型をそうそう試すわけにもいかず、機会を窺っている現状だったのである。しかし、練習将棋では慈乃が好んでいることから多く経験しており、いつ実戦投入してもやれるだけの自信がある。
 舐めた真似をしたジジイを後悔させてやる。響は静かに燃えていた。
 新人王戦記念対局は四階の特別対局室で行われ、向かいに位置する銀沙・飛燕の二間を棋士控室として利用することとなっている。持ち時間各三時間、対局開始は十三時より。






 対局室は既に報道陣で埋め尽くされており、響は人混みを掻き分けるようにして下座に着いた。午前中の式典のまま、羽織袴の姿である。
 盤前に、目を瞑って座していると、やがて入り口の方から、それはモーセを思わせる人混みの割れ方だった。一歩、一歩と足を運ぶだけで、部屋の中の空気が変わっていくのが肌を通して伝わった。
 報道陣がざわめいている。口には出ていないが彼等の考えは解る。先程のふざけたボケ老人はどこに行ったのだ。そう言いたいのである。
 その老人から放たれる、恐ろしいまでの静けさによって、部屋中の空気が鋭利な刃物と化したかのようだった。この気、力強さとはほど遠く、むしろか細い蛍光を思わせる老人の気が、ただそれのみが、いつの間にか室内を支配している。
 盤前に座った二階堂秀行を、響は既に老人と見ていなかった。見ることができなかった。銀乃介、小寺、竹中、そうした連中を相手にするのと同じ、或いはそれ以上の相手であると、気のみによって、否応なしに認めさせられた。
「久々に本気で指してやる……落胆させてくれるなよ、十兵衛の」
 引退から十余年、二一世名人が盤前に舞い戻った。


sage