二十三

 銀乃介が自室を出ると、辺りが妙に薄暗く、そして湿った臭いがした。渡りに出て庭を眺めると重たげな灰色の雲から垂れる無数の糸が庭の池に波紋を描いていた。青々とした葉桜を揺らして水面に一枚の緑を落とすと池の鯉が小さく跳ねた。肌を撫でる生温い空気に気が付いてようやく、絶え間なく響いていた雨音の存在を知る。
 頭の回転と時の流れが乖離して世界とのズレが生じる奇妙な一幕、将棋に集中しているとよくある事だった。
 雨音は望んでいない他の騒音も連れてきた。キャンキャンと甲高くじゃれるような慈乃とそれを鬱陶しがる響の会話、せわしなく駆け回っているらしい鑑連の派手な足音、時折飛んでくる苛立った千代の説教。どうやら客を迎える準備で揉めているらしい。
 四月の末の日曜日。空は生憎の雨模様だが、立花家には千代に弟子入りを志願している沙智という少女がやって来る予定になっている。
 居間の手前まで行って中の様子を伺うと、
「だから響ちゃんは和服着た方が良いってば!」
「何で俺が和服着るんだよ」
「タイトルホルダーなんだから貫禄見せなきゃダメだよ」
「千代の弟子なんだから関係ねえじゃん」
「お姉ちゃんの弟子なら私達には姪っ子みたいなもんじゃん」
「俺は一応六角門下だ」
「そんなの関係無いってば」
「そうだぞ響、今回は言わば立花一門として新弟子を迎えるようなものだ。お前にとっても姪として受け入れろ、私にとっては初の孫弟子にあたる」
「ほら見なよ、お父さんが和服着てるとなんか一番偉そうになっちゃうじゃん。やっぱ響ちゃんも和服着ないと駄目だよ」
「その通り、我々タイトルホルダーがしっかりと迎えてやれねば不安になってしまうかも知れん」
鑑連の笑い声が響き始めたところで台所から大声が届き、
「お願いだから静かにしてってば! アンタ達が騒がしいと私が恥かくんだからね」
そうして雷が落ちてようやく多少は静かになるものの、小声でひそひそと続けている辺り浮かれ気分を隠せていない。尤も、数か月前の沈んだ状態よりは数倍マシだろう。
 あの少女に感謝しなければならないのは自分たちかも知れないと思うと、自然銀乃介の頬も和らいだ。
 無造作に戸を開けて居間に入ると、じゃれつく二人はいつも通りだが義理の父になった鑑連は見るなり嫌な表情を向けてくる。
「タイトル持ってない奴は普段着で良いぞ」
 当てこすられても、自分の行いを振り返るとあまり強くは出られない。
「あと二か月もすりゃ手元に来るさ、多少先取りしても問題ねえよ」
 精々こうして流してやる程度だ。
「ま、わざわざ和服着る気も無いけどな」
 更に加えてやると、鑑連は面白くなさそうに鼻を鳴らして、
「タイトルより先に嫁取るヤツは大した出世もできんからな……覚えておけよ、響」
「いや、俺に言われても困るんだけど」
聞かせんばかりの声で響に絡んでいる。心底面倒臭い親父だ。
 相手にすることを止め台所へ向かう。背後からはなおもネチネチ言っている声が届いているが聞こえないふりをした。
 台所では母と千代が並んで料理をしている。千代が台所に立つこと自体珍しく、今日は特に気が入っているのだろう、随分と凝った料理に取り組んでいるようだった。出来栄えは不慣れな千代を操作する母の腕一つに託されていると言ったところだろう。
「気合入れすぎなんじゃねえの」
「良いの。これから先は気楽に祝える機会の方が少ないんだから、せめて最初は」
 からかうつもりも無かったので、明確に言い返されれば大人しく引き下がる。母を見ると微笑まし気な表情でそっと頷いた。
「出迎え、行って来てやるよ」
「いいの?」
「煙草買いに行くついでだ」

 カートンの煙草を片手に改札口で待っていると、黄色の長靴とカッパを被った少女の姿は直ぐに解った。そっと目を外してその周囲を伺うと、本人から知られないように、距離を取って見守る両親はホームへ続く階段の上に見える。向こうも銀乃介に気付いたようで小さな会釈を送ってきた。小さく頷いて返してから片手を挙げて少女を出迎える。
「一人で来られたか?」
 沙智は、落ち着きなくあたりを見渡しながらではあったが、しっかりと首を縦に振って頷いた。千代を探しているのかも知れない。
「千代は家だ、お前の歓迎会の準備だとさ」
「わかりました」
「今日は俺が駅まで迎えに来たけど、これからは一人でも通えるようになるんだぞ。電車もちゃんと一人で乗れるように覚える、まずはそこからだ」
「はい、だいじょうぶです」
「んじゃ行くか」
「はい!」
 気合十分な少女の姿勢に一つ頷いてから、少女に合わせてゆっくりと歩き始める。自然と下がっていく視界にかつての響や慈乃の事が思い起こされると月日の足の速さに気付かされ、自分が本当に年寄りになったような気持ちにさせられる。
 多少遠回りをしてでも歩道が整った道を選び、信号を渡り、解り易い目印がある場所を通っていく。沙智はあたりを見回しながら懸命に道を覚えようとしているらしい。子どもなりの真剣さが伝わると、見所があると銀乃介は思った。
「ヤシロ先生ってのは、ヒデマサさんか?」
 行く道で沙智の手紙に書いてあったことを尋ねると、沙智は大きく頷いた。
「そうです。島津先生ともしょうれいかいで指したことがあるそうです」
「覚えてるよ、強かったからな」
「先生は弱かったからダメだったって言ってました」
「弱い人間なんてあそこにはいない、目指すのならお前もいずれ知る」
 その言葉に沙智はきゅっと口を閉ざすと、幼いながらも芯がある瞳で銀乃介を見返した。
 小学校低学年の少女が見ず知らずの土地までこうして将棋を習いに来たのだから、その意思は最早疑うべくも無いだろう。付け加えるなら、千代の前では口に出せないが沙智は女だ。現在の女流制度が多少形を変えてでも残るなら、この気持ちを持続させてやるだけでも、少なくとも将来に困るような事態には陥らずに済むだろう。
「沙智は大丈夫さ。ついでに言うとも少し肩の力を抜いた方が良い、先は長いぞ」
「はい!」
 駄目だこりゃと呟きたくなるような肩に力の入った返事が却って微笑ましい。
 再び歩き出すと子犬の様に懸命に後をついて来るが、響や慈乃の存在を思い返すとこれもいつまで続くだろうか。きっと今が一番素直なのだ。
「そういえば、秀正さんは……沙智は、どこの道場に通ってんだ?」
「となりの市の――」
 それは銀乃介にとって聞き覚えがあるような無いような道場だった。小学生の頃の記録を見れば行った事があるかも知れないと、ぼんやり考えながら立花家への道を行く。

 歓迎会が盛り上がり沙智がすっかり居間でオモチャにされているのを横目に、銀乃介は自室へ戻った。押し入れの段ボールから過去の日記ともつかぬ対局記録を取り出して暫く、千葉の方を荒らして回っていたのは小学四年の頃だったかと探していると、沙智から聞き出した道場名もやはり残っていた。
 手元の携帯で電話をかけると六回ほどのコールの後でしわがれた老人と通話が繋がる。
「突然のお電話申し訳ありません。私、連盟八段の島津と申しますが――」
 ビジネストーク交じりの自己紹介を内心で笑いながら話をすると、先方は銀乃介のことを覚えていた。或いは今の活躍を知っていたのかも知れない。
『なんなら今から来ると良い、アンタなら秀正さんも大丈夫だ。今ならバスもある、その気になりゃあ一時間で着くだろうさ』
 千葉までならまだ日帰り出来るだろう。二つ返事で頷いてから通話を切り、適当に支度を整えてから銀乃介は家を出た。
 外出の事は母にだけ、帰りが少し遅くなるという風に伝えた。響は直接手を下した相手であるし千代は三段での付き合いが長過ぎる、まだ言わない方が良い。


 家を出て一時間と少し程度で高速バスは海を渡り千葉に入った。一昔前、銀乃介が道場を荒らしまわった頃はこれ程気軽に訪れる事が出来る場所で無かったように覚えているが、さりとて沙智の事を考えると楽なことは有難いかも知れない。
 ――奨励会に入る前、銀乃介は関東各地の将棋道場を荒らし回っていた。文字通り道場破りをしていたのだ。小学校の三年生ころから始め、都内は元より埼玉・茨城・千葉と巡ってはその道場一番の猛者と勝ち負けを繰り返しその全てを記録に留めていた。何故始めたのかは覚えていないが、確か宮本武蔵の伝記か何かを読んだ直後だったから、その手の事に憧れていたのだろう。かくて各地の将棋道場を荒らし回る恐怖の小学生がアマチュア棋界で一時期有名になったのはまた別の話だ。
 まさか当時の記録が役立つとは思わなかったと、銀乃介が手元のノートを開くと、どうやら四年生だったらしい。一学期に千葉県北部から始めた道場破りは東京湾沿いに南下を続け今日の目的地である道場には夏休みに行ったと記録されている。やたらと強い席主がおり、勝てなくて悔しいから野宿で二、三日留まったとある。結局どうにか勝ちを拾えるようになった頃、様子を察した席主から家族に通報されあえなく強制送還となったらしい。――
 屋代秀正の名前が連盟の指導棋士に登録されていないことはすぐに知れた。沙智からの手紙を読んで事務職員に確認すると職員も当然のように屋代の事を覚えており、彼は登録されていないとその場で回答があった。
『屋代さんの事は当然みんな気にしてます、本当に行方が解らないから』
 アマチュア棋界でカムバックしたという噂も無く、他奨励会員との繋がりも一切が切れ、不安に思った師匠の山下八段が実家へ問い合わせたところ家族でも詳細が解らないと言われたらしい。山下八段は地方の小さな将棋大会の結果まで虱潰しに探したということだが、そこでも名前が見当たらなかったということだ。
『家族には時々メールの返信があるみたいで、その……無事ではあるようなんですが』
 屋代は生きている、しかしどこで何をしているかは一切が不明である。それが将棋連盟で得られた、元奨励会三段の屋代秀正に関する全ての情報だ。
 やがてバスは目的地に到着した。生温い雨は静かに降り続いている。
sage