二十四

 モモヒキ姿で犬の散歩をするジイさんが日常にあるような、山に囲まれたのどかな住宅地の一角に、その道場は当時と変わらない姿で残っていた。表現に気を遣えば風情がある、率直に言ってしまえば小汚い雑居ビルだが、ワンフロアがまるまる将棋道場になっているという広々とした空間である。
 戸を開けると三、四十名はいるだろうか、かなりの客が入っており、突如現れた新入りにまずは刺々しい視線が向いたが、それも長くは無かった。如何せん有名人である。
 一人が気付けばまた一人、口をパクパクとさせながら銀乃介を眺めるようになる。
「席主はどこだい?」
 手近な席に座っていたオッサンを捕まえて問うと、一際かしましい奥の一団を指で示される。見れば子供が輪を作っており、その中心に髪のすっかり抜け落ちた頭はまだ肌ツヤが良い、見覚えのある老人の姿が見える。
「ありがとさん」
 礼を言ってずいずいと奥へ進むと、向こうもどうやら気付いたらしい、懐かしそうに鼻で笑われた。
「久しぶりじゃねえかボウズ、今日は道場破りじゃねえべな?」
「呼んで貰ったから伺ったンすよ、お久しぶりです」
「まあいいさ。さあ、お前たちは今言った事試してみんだぞ……おうい、シゲさん、シゲさんやい。ちょっと悪いが子供らの事見てやってくんな」
 片隅でスポーツ新聞を読んでいた男を手招きすると、男はしぶしぶといった具合に了解したようだった。
「したら行くべや、上が家になってっからよ」
 十年近く前に一度会ったきりとは思えない程軽い口調で、席主は銀乃介を自宅に招いた。

 応接用のソファに腰を下ろして待つ間に、たとえば食器棚にグラスを並べるような気軽さで、ガラスケースに並ぶ無数のトロフィーが自然と目に入る。壁には並べる場所がないと言わんばかりに隙間なく賞状が敷き詰められ、それらは全て将棋に関する物に違いない。目を凝らして見るとどうやら大会の格にはこだわりが無いようで、全国大会も地方の大会も関係なく、無秩序に並べられている。
「悪趣味だろ?」
 丸盆に急須とせんべえを載せた席主は戻ってくるなりそう言った。
「飾る必要無いって言ってんだが、家内に渡すと並べんだ」
「奥さんは指さないンすか?」
「ボウズんとこと違ってな。その代わり口は出さない、出来た女房だよ」
 求めた訳でも無いが自然と灰皿を前に出され、結婚した事についても当たり前のように知っている。
「見てくれてるンすね」
「そりゃあ見るさね、野宿で通って来た小学生なんざ後にも先にもオメだけだもんよ」
「あざす!」
「誉めてねえよこんバカたれ……まあ飲みな、アルコールは入ってねえが」
 銀乃介の体面に腰を下ろすと、乱暴な口調とは裏腹に湯飲みは静かに置かれる。
「さて、電話でも聞いたが、改めて要件を聞かせて貰えるかい」
 まるで最終確認のような警戒を隠しきれていない口ぶりだった。銀乃介は言葉に込められた意図を察していたが、沙智の事だけを伝えた。
「これから預かる上で、秀正さんに一言もないままじゃ失礼だと思ったので」
 真実だが口実だ。席主も察してはいるだろうが敢えて追及してくるような事も無かった。それはもしかすれば島津銀乃介個人に対する席主からの信用なのかも知れない。もし仮に、この場に来たのが他の人間であれば彼は口を開かなかったのではないかと、そう思わせるような意志の強さもまた同時に感じられた。
「秀正さん……屋代君か――」
 そんな前置きをしてからきっと二、三分の間があっただろう、やがて席主は語り始める。
「――色々あって、ウチの道場手伝うようになってくれたのは、ありゃ浅井先生がC2を一期抜けした年だから……もう二年前になるかね。
 道場に子供が大勢いただろう、あんなのは屋代君が来る前は無かった事だ。彼が自分で考えて、近所の学校に頭を下げてチラシを配って、一からやってくれたんだ。評判が良くてよ、今じゃ他所の市から通ってくる子らもいる」
 言われてみれば沙智も隣の市だと言っていた。先の子供たちの表情からしても、評判が良いのは間違いないだろう。
 屋代の指導は連盟の将棋教室でも人気が高く、奨励会員の身分ながらプロよりも指導が巧いという評判が聞かれる程だった。そしてその手の話題になると決まって『周りの人間よりも才能が無い分、生徒の人たちが何を理解できないのか良く解るからだ』と自嘲していた事を、銀乃介は自然と思い返す。
「今は、昼間はコンビニのアルバイトに行って、夜は資格の勉強してるよ。そういう経験が今の屋代君には大事なんだよ。人間、金を稼ぐ方法を知らねっきゃ、生きていく自信を持てねきゃ、ダメだ。余計な不安を抱えたままじゃ、正面から将棋を楽しめん」
「秀正さんは、自分の将棋も指してますか?」
「ああ、ここ最近だがようやく指せるようになってきた。俺とも指すしネットでもやっているようだ。大分マシになってきたってとこかね」
「そうか、良かったです」
 ほっとした銀乃介はそう漏らし、
「指してるならさっさと大会でもなんでも復帰してくれねえと、みんな心配してっからさ。秀正さんの名前見るだけでも喜ぶ人間が沢山いるんだ」
茶をすすりながら自然と続いた言葉だったが、席主は静かに首を振った。
「そりゃあ本人に任せることだ。少なくとも、俺から勧める気はねえよ」
 意外な反応への戸惑いを隠せずにいると、席主は、強い意思を感じさせる視線だった。
「ようやく自由になった将棋が、また周りに縛られることになるかも知れん。たかが大会の勝ち負けにそこまでする価値があるかどうかは、屋代君本人が決めることだ。他人の為に将棋を指す必要なんざねえ、楽しみ方を自由に選べることも一般人の特権だ」
「周りに縛られるってのは、解らねえな」
 納得がいかないことを言外に含ませる銀乃介に席主は鼻を鳴らして呆れて見せた。それは言っても聞かない悪ガキへ大人が向ける仕草にも見える。
「元奨ってのは、厄介な肩書なんだ。履歴書に書ける訳でも無いのにこの世界なら誰もが理解しちまう、その上三段ともなりゃ、そこに重みってヤツが加わる……ま、肩書だけで獲れる程アマトップ層もヌルかねえがよ。
 大会に出れば否が応にも注目される。もう解放されたはずの肩書で周りから見られ続ける。『これだけ強くて挫折するのか』とか、『あれで三段なら奨励会も案外温い』なんて具合にな。どっちせよ、余計な評価が付いて回る。
 最近じゃ奨励会からアマに流れて来る連中もそれなりに見るが、結局アマにもなり切れずに消えちまう奴も大勢いる。アマで指し続けられるのは割り切れた連中なんだ、元奨の過去を必要以上に誇らねえし、ましてや恥じる事もねえ、そうして整理がついた人間だ。
 屋代君はまだ止めておいた方が良いというのが、俺の率直な感想だよ」
 今でこそ奨励会を脱落した人間がアマチュア棋界に復帰することも決して珍しくはなくなったが、一昔前は一度プロを志した人間がアマチュアに混じって指すのは未練がましいとして、それすらも非難の対象となった時代もあった。今でも、奨励会を有段で退会した人間は公認のアマチュア大会に一年間参加できないという、さながら懲役刑のような規則がある。鉄鎖に繋がれた状態で一年間檻に閉じ込められ、そうして年月をかけて研ぎ澄ました自身の刃を潰さなければ、彼らはアマチュアへの合流を許されない。
 言うなれば元奨は狭間の存在に違いなかった。自らの半生を費やした奨励会という場所を完全な過去として割り切るか、それともアマチュアとしての表舞台を生きる事を諦めるか、その二者択一を選択しない限り、安定した立ち位置を得る事は出来ない。
 しかしまだ迷いがあるのなら、二択は曖昧なままに留めておいて、こうして静かに道場で指す道もある。席主はそう言いたいのかも知れなかった。
 席主は間を置くように茶をすすってから、
「洒落た言い方をするのなら、町道場は将棋のアルファでありオメガなんだ。だからこそ、そこですら将棋と関われなくなってしまえば、全てを捨て去る道しか残らない」
そう言った。
 将棋を捨てる。その言葉が持つ意味は無論銀乃介にも解るし、アマチュアである席主も変わらぬ重さで理解しているだろう。将棋を捨てるとは、プロになることを諦めるという意味とはまるで異なる。
 そして現実に【将棋を捨てる】人間がいる事を、銀乃介は知っている。
 自らの人生から将棋を失うということ。記憶の底に蓋をして、二度と目を向けず関わらないこと。
「俺は、表舞台に立つことや上を目指すことだけが将棋の全てだとは思わないよ。屋代君がここで静かに将棋を楽しみたいと言うのなら、その選択もまた一局であるはずだ」
 そう言うと席主はせんべえを齧った。歯はまだ良いらしい、バリバリと音を立てる豪快な食い方だった。


 夕暮時のはずだが、生憎の雨模様では空の色も変わらない。
 席主から聞いたコンビニの表で、傘を片手に煙草を吹かしていると、勤務を終えた屋代がふらりと現れ、再開の挨拶はどちらからでも無く、お互いに笑った。
 家はアルバイト先のコンビニから徒歩で十分とかからない距離だった。道場とバイト先と屋代の家は全てが徒歩の圏内に収まっている。
「随分都合よくまとまりましたね」
「あのコンビニのオーナーも立川さんだし、アパートの大家も立川さん。ほんとに、全部立川さんのお陰だよ」
「あの席主、金持ちなンすか?」
「そりゃそうだろ、あの道場も持ちビルらしいし、他にも不動産何個も持ってるらしいよ。若い頃に小豆相場で稼いだんだとさ」
「はあ、小豆ねえ」
 ぼんやりと聞きながら道を行くと、小綺麗な二階建てのアパートの二階一番奥、南側に面した日当たりの良い部屋だった。玄関に併設されたキッチンスペースを抜けてリビングに入ると、カーペットの敷かれたそこには探すまでも無く七寸盤が鎮座している。
 それを見た途端ほっとしてしまった自分に気付いた銀乃介は慌てて表情を引き締めたが、却って屋代は、慣れない気を遣ってくれるなと、その様子に苦笑した。
「これも立川さん。子供教室企画したんだけど結構ウケたみたいで、客が増えたからって、ボーナス代わりにくれたんだ」
「ボーナスって気軽に言うけど、これ本カヤっすよね?」
「だろうな。言っただろ、お金持ちなんだよ」
 はあともへえともつかない感嘆を漏らしながら近付いて眺めていると、
「A級棋士からしてみりゃ珍しいものでも無いだろう」
屋代が言う。振り返ると視線が重なり、
「あとは棋天の挑戦と、ついでに結婚も、おめでとう」
続いたその声に妙な硬さは見られない。
「やっぱり、お前も浅井も化物だったな」
 春物のジャケットをハンガーにかけながら漏れた屋代のぼやきが余りに自然に聞こえたから、銀乃介から出た言葉も、余分な意味など一つも含ませない、昔のままのそれだった。
「取りあえず一局指しましょっか」
 そして当然のように屋代も頷く。

 チェスクロックは無かったため、お互いの体内時計で計る十秒将棋は、一局毎に先後を入れ替えての全局相居飛車となった。矢倉が二戦、角換わりが一戦、横歩が二戦と、五局とも銀乃介が屋代の指し手に答える形の戦型となったが結果は銀乃介が全勝。
 序盤に関しては多少のブランクも感じるがそうそう錆付く物ではないのだろう、戦型の裏にある流れを熟知しているだけに表面上で出てきた新手への対応も見事なものだったが、終盤の指し回しが無残なほどにガタガタだ。
「やっぱ全然駄目か」
 敗戦後でも朗らかに笑える事は、あの頃よりもむしろ幸福に違いない。
「横歩が一番危なかったですかね、二階堂新手までちゃんと勉強してると思わなかった」
「まあな、新人王のアレはネットで見てたし……そういやあの時の立花の顔傑作だったよ、笑っちまった」
「伝えておきますよ」
 焼酎を片手に駒を動かしながら、口に出るのはくだらない言葉ばかりだから感想戦にはなっていなかった。それでも、駒を動かすだけで互いの意思は通じる。
「鈍ってるな」
「言うて現役のA級相手ですからね」
「気を遣うなって言っただろ。自分が一番解ってる、ここまで錆付くと思ってなかった」
「そっすね。相変わらずどころか前よりひでえ終盤してましたよ」
「そこまで言うこと無いだろ」
「サーセン……結局どんくらい離れてたンすか?」
「ん……そうだな、全く指さないのは二週間もたなかったよ。盤も駒も処分して考えないようにしたけど結局頭に盤が浮かんでくるから諦めた。人と指すのはネットでやったりもしてたけど、全然気がのらないから、一年位は離れてたかな」
「へえ、何で?」
「賭けるものが無いから、例会みたいに燃えないんだよ。まあ、それまでが異常だったんだけどな。目の前に相手がいる勝負じゃないから、悪くなりゃ投げて良いやって、そんな感じになっちゃって」
 屋代はふとグラスの中身を一気に煽る。酒が強いタイプでも無かったと記憶しているが大丈夫なのだろうかと銀乃介が探っていると、気付いたのだろう、平気だよ、とその対応は以前よりも逞しさが感じられる。
「なんつーか、前よりも野性味出ましたね」
「そうか?」
「だって昔の秀正さん、ほんとに将棋以外何もできなそうだったっすもん」
「お前ね、もう少し年長者を敬えよ」
「いやいや、ホントに。何で?」
「まあ、生活できればそれで良いって、気楽に思えるようになったからかもな」
 空いたグラスに焼酎を足しながら、銀乃介のグラスにはまだ中身が入っているが寄越せと目で催促してくる。以前よりも人間臭くなったその姿に確かな安堵を感じながら銀乃介もグラスを渡す。
「将棋で食っていく以外の事を考えられなかった頃は、勝ち負けが自分の存在価値に直結しちゃってたけど、こうしてバイトして普通に暮らしてみたら、生きて行く事はそんなに難しい事じゃなかったんだ。そんな当たり前のことに、三十になってようやく気付けた」
 注ぎ足したグラスを銀乃介に返しながら、
「でもきっと、その分だけ将棋は弱くなったんだ。あの頃みたいな力は、もう出せない」
そうして漏れた呟きは、奨励会員の屋代を知らなければ解らないだろう、生温い春の空気にも似た諦観を倦んでいる。
 駒の並んだ盤を眺めながら、ぽつり、ぽつりと、話は続いた。
「十年十九期、三百四十二戦、百七十六勝、百六十六敗、大体五割二分。四段に上がった四十一人とは百五十九戦、八十二勝、七十七敗」
 それは三段リーグの戦績だった。勝率五割を超えながら、これだけの数字を出しながら四段になれなかった。プロになった人間でもこれより悪い通算成績の人間などザラにいるだろう。本人でなくとも救われないと思ってしまうような数字だ。
「駄目になった後で何となく数えちゃってさ。未練がましいと解ってはいたんだが、ついつい、ってヤツだ」
 一度や二度では無いのだ。詰まることなく読み上げてしまうほど、その行為を繰り返していたのだろう。その事実には銀乃介も気付いたが、気付いてすぐにそれを忘れることにした。覚えていてはいけないことだと思った。
「お前とは当たらなかったな」
「こちとら一期抜けの天才ですから」
 重さを笑い飛ばすように胸を張ってみせる。
「立花とは四戦して三勝一敗。浅井とは当然だけど一戦一敗、見事に首落とされたよ」
「感想は、どうでした?」
「単純にモノが違うよ。良くある喩えだが、俺が軽ならアイツは、お前も、F1のソレだ。当時は絶対言えなかったけど一目で悟ってはいた」
 苦笑ともつかない思い出し笑いを浮かべながらだった。
「今考えると、一局でも真剣勝負を指せたことを喜ぶべきなんだろうな。生憎と、当時はそれどころじゃなかったから、思い返すと味わえなかったことが残念だ」
 浅井響との一戦を、自らの希望が完全に潰えた一局を、既に過去として受け止めているような屋代の言葉に、銀乃介の口からはその問いが自然と紡がれていた。
「アマチュアで復帰しないンすか?」
 立川に言われたことは覚えている。しかし、素直に認めてしまう事は出来ない。
 それがエゴであるとしても、屋代が表舞台に復帰して、そこで思うままに将棋を楽しんでいる姿を、銀乃介は見たかった。それは銀乃介では無いだろう、響も、千代も、屋代の師匠である山下八段も、きっと千駄ヶ谷の大勢の人間がそれを望んでいるはずだった。
「どうだろうな、気が向いたら出るかも知れないけど」
「指導棋士登録、してないでしょう?」
 それは半ば核心に近い情報だった。こうして町道場に関わる立場になりながらも連盟に指導棋士としての登録を申請しない事こそ、屋代の中に熱が残っている証拠だと、銀乃介は思っていた。連盟の指導棋士に登録された人間は準棋士として扱われアマチュア棋戦への参加の一切を認められなくなる。即ち、敢えて登録していないのならばそこに参加する意思を残しているという事であるはずだ。
「まあ、そうだな。今更忘れてたなんてとぼける気も無いが」
「だったら――」
「――でも、さほど出たいとも思えないんだよ」
 食い下がろうとする銀乃介を突き返すように、その宣言はどこか冷ややかに放たれた。
「本音を言うとな、もう千駄ヶ谷に関わりたく無いんだ、俺の事も知られたくない。指導棋士を取らない理由はそれだけだ」
 突然平手で頬を叩かれた時と同じ感覚だった。何も考えられない一瞬の空白が頭の中に浮かんで、状況を理解すると叩かれた場所がじわじわと火照り、そして背筋が冷たくなる。
 唖然とする銀乃介への言葉は更に続く。
「お前、退会届って見た事あるか?」
 投げかけられ銀乃介はどうにか首を振るので精一杯だったが、その質問が始まりだった。内にせき止められていたものが溢れ出たように、屋代のゆっくりとした言葉は止まらなくなっていた。
「普通のコピー用紙に、自分の名前と師匠の名前を書く欄があって、奨励会を退会させて頂きますって、それだけだったよ。フォーマットが無くても一から作れるような、ただの紙っぺらだった」
 興味も無いし、見た事も無い。去っていく仲間はわざわざ事務手続きを語ろうとしないし、こちらから聞くことも無ければ、それは辞めた人間しか知らないことだろう。銀乃介が見てきたものとは別の世界、奨励会の底の底の話だ。
「コピー用紙一枚で俺は終わったんだ。人生の大半をかけてきたことが、全部チャラだ」
 語り手の精神の揺らぎを示すように、言葉は震えている。そのことに気付いてようやく、銀乃介はまだ屋代が本当には割り切れていないのだと、立川の言葉を思い返していた。心の底に眠っていた感情を無神経に触れてしまった。
「事務手続きやりながら、俺の人生は何だったんだろうって思った。才能が足りなかった、努力の方向が間違っていた、そういうの全部すっ飛ばして、ただ虚しかった」
 それまで下を向いて語っていた屋代がふと顔を上げ銀乃介を見据える。その視線は何かに脅えるように揺らいでいる。
 屋代が怯えているのは、銀乃介からの、棋士達からの視線に違いない。
「みっともないことは解ってる。だから言えなかった。少なくともここに来て立川さんに拾って貰うまで、言っちゃいけないことだと思ってた」
 そんな事は絶対にないと、声を大にして言いたかった。辞めさせられた人間が千駄ヶ谷を、連盟を、せめて恨むことは、それは彼らに残された最後の権利であるとすら、銀乃介は思う。
 しかし声は出せなかった。今何を言ったところで屋代のこの感覚を拭い去る事など出来ないということもまた解り切っている。
 それは屋代に巣食ってしまった精神の病巣の表出に他ならなかった。
 他でもない、誰より屋代自身が、その感情を抱く自分の事を許せていないのだ。
 屋代は怯えながら、嘔吐するように、臓腑から絞り出すように、それは慟哭だった。
「俺よりも弱い人間が棋士をやっている。俺から情報だけ聞き出したゴミみたいな人間が平然と対局に臨んでいる。平気で対局に遅刻して、平気で早投げするようなヤツが、産児制限が無かった時代の不良債権が、四段ってだけでふんぞり返ってる」
 【奨励会員は人間ではない】そんな言葉がある。昔の奨励会を表した言葉として語られることもあるが、現代ではまず口にされない言葉だ。――とある感想戦の最中に対局者がくだらない冗談を飛ばして棋士が笑う、記録係の奨励会員もつられて笑う、彼に冷ややかな言葉が投げつけられる。【君に笑う資格はないよ】――今ではそんなことはあり得ない、当時の奨励会員の扱いを表す古めかしい訓示めいた話だ。そうであるはずだ。
 だが本質はどうか。修行の名のもとに棋士の下働きをさせられ、事務職員の言いつけに使われ、奨励会員は連盟を運営する為の都合の良い存在として扱われているのではないか。
 全ては修行の為、その一言を方便のように振りかざして。
 多くの棋士は自らも同じ体験をしているから誰も気付かない。いつか君がプロになった時には同じように奨励会員に世話になる。そんな程度に考えているのかもしれない。
 しかし屋代はそうなれなかった。その結果外の世界を知り、将棋以外に生きる術がある事を知り得た彼は、かつての世界を、そこでの苦悩を振り返り、ふと思う。
 あそこは棋士を称する一部の人間の権益を守る為だけにある世界であると、そしてそこに費やした時間の無意味さを、ただ奪われるだけで終わった人生を、思ってしまう。
「結局のところそれさ。俺はもう、あの世界に関わりたくないんだよ」
 その結論に込められた重みに、棋士である銀乃介は言葉を返せなかった。屋代の存在を知っていればこそ、その言葉を聞けばこそ、否定のしようが無かった。
 全ては銀乃介も見てきたことだ。
「本音を言えば、サッちゃんに関しても千駄ヶ谷に関わるのはやめた方が良いと思ってる。お客さんでいられる研修会ならともかく、奨励会は、今でも賛成する気になれない」
 沙智の事に話が及ぶと、怯え切った目の色は変わらなかったが、声に力が戻ったようにも思えた。そこにはかつての、奨励会員の長兄としての屋代の面影があった。
「解ってる、俺は負けた人間だから、そんな結論は俺のエゴなんだ。だから立花に託した。紙一重で違う結果を手に入れられたアイツなら、きっと一番正しい判断をしてくれる」
 そうしてふと、千代の事を思い出したのだろうか、
「お前は良い嫁貰ったよ。あの子は気が強いけど人間的に芯があるし、根は優しい。他人の痛みを理解できるから、どれだけ辛くても、人として汚い真似はしない子だ」
或いは話題を逸らそうとしたのかも知れない。そんな風に言った。
 だから、それからは酒を飲みながら他愛の無い話をした。敢えて話を続けられる覚悟は銀乃介に無かった。流行りの漫画、競馬、麻雀、最近読んだ小説、映画、猥談。ごくごく一般的な、居酒屋で旧友とするようなくだらない会話だった。

 深夜、不意に訪れた尿意に銀乃介が目を開けると、どうやら飲みながら眠ってしまっていたらしい。屋代もまた突っ伏すように眠っており、先ほど吐露した激情などまるで思い浮かばないような穏やかな寝顔だ。
 用を足すと目が冴えてしまった。携帯電話で時刻を確認すると深夜三時という中途半端な時間だ。眠くなるまで読書でもしようかと本棚を物色するも、漫画や小説が多少並んでいるだけの寂しい本棚にはまるで魅力を感じなかった。そして、当然だろう、棋書の類も並んでいない。
「つまんねえ本棚だな」
 他人の本棚に吐き捨てながら、隅に置かれたデスクに腰を下ろし、音を立てないように、そっと漁る。後ろめたさは感じたが、それでも銀乃介は一つの希望を捨てられずにいた。
 ――まだ熱は残っているはずだ。
 それは銀乃介の身勝手な願望だったろう。
 連盟やプロ制度を嫌うのは構わない。しかしまだ、将棋という存在それ自体はどこかで大事にしてくれているのではないかと、そう願いたかった。
 かくして、デスクの二段目の引き出し、通帳などが整理されたスペース、屋代にとって貴重な品を仕舞っているに違いない場所から、数冊のノートを見つけだす。
 まだ新しい、何の変哲もない大学ノートに、対局の記録が記されていた。書かれている日付はバラバラ、内容も手順が飛んでいる箇所があり、屋代の性格からすれば在籍当時にこんな記録を付けるはずは無い。何より筆跡が綺麗過ぎた、敗局を記す文字までもが余りに整っていた。
 書き直したのだろう。一度は全て処分した記録を一つ一つ思い出しながら、破り捨てた写真を繋ぎ合わせるかのように、屋代は棋譜を書き直したのだろう。
 一枚一枚を丁寧にめくると、プロになった人間の名もあれば、屋代と同じように去っていった人間の名もあった。当然、立花千代の名もある。手順までは思い出せなかったのか、戦型と終局図だけが残されているようなページもある。
 やがて数冊を読み終え、no.1と記されたノートをめくった時の事だった。
 一ページ目、十八回戦と題されたそれは、初手7六歩とだけ記された奇妙な棋譜だった。書き損じを疑いながらページをめくると二ページ目には十七回戦とあり、相手は良く知る浅井響の名、こちらにはこれまでと比較しても完璧過ぎる程の棋譜が記されている。
 一呼吸の間を置いて、銀乃介は全てを察する。初手7六歩しか書かれていないページは、屋代の奨励会最終局であったことを。それは書き損じでなく、7六歩の続きは実際に指されなかったということを。この記録を作り始めた理由、そしてやめられない理由――即ち、空白の十八回戦が今なお屋代を責め続けていることを。
 屋代にとっての奨励会は、まだ終われていないのだろう。彼はまだ、悪夢の中にいる。
 そう思うと、気が付けば銀乃介は泣いていた。涙を流したのはいつ以来だろうか、思い出せない程に遠い記憶だったが、大粒の涙が不思議なほどに溢れて止まなかった。
 泣きながら思う。このような終わり方が許されるはずはない。自分と同じように将棋を愛している人間だからこそ、この棋譜が最後になるようなことがあってはならない。連盟棋士でなくとも将棋は指せる。しかし、奨励会などというたかだか一制度に敗れた程度で将棋を捨てることなど絶対にあってはならない。
 ふと、銀乃介は霞んだ視界で屋代を見た。かつて奨励会で戦い、敗れ、そうして今安息を得たようにも見えるその寝顔は仮初のものだ。そこで見る夢は、自分自身すら騙しきれない、安直な自己欺瞞に満ちた悪夢だ。
 だからこそ屋代はもう一度戦わなければならない。敗れても良い、正面から戦ってあの十八回戦を今度こそ終わらせなければならない。そうでなければ、彼は、彼が愛している将棋と正面から向き合えない。
 気が付けば窓の外が白んでいる。紫雲の茜空は、雨も上がっているらしい。

 やがて目を覚ました屋代は頭を抱えながらだった。やはり無理をしていたらしい。その様子に声をたてて笑いながら、
「アマの天下、取りなよ」
デスクに座ったまま、ノートを眺めたままの銀乃介は、挨拶代わりにそう言った。
「起き抜けに変なこと言うなっての」
 目覚まし代わりの効果はあったらしい、少なくとも寝惚けた事は言っていない。
「アマチュアタイトルを獲れば公式戦でプロとやれる、千駄ヶ谷に、連盟に、大手振って喧嘩を売れる。しんどくても、くだらないモン抱えたまま生きるよりよっぽど良いぜ」
「……何言ってんだよ、ホントに」
「今度は外側から、延長戦をやれってことさ。奨励会は響に首落とされて終わっちまったけど、諦めないのは秀正さんの意志一つだ」
 朝一番という事もあって声を荒げるようなことは無かったが、少なくとも耳には届いているようだった。屋代の視線は鋭く銀乃介を射抜くようになっている。
 それで良いと銀乃介は思った。
「秀正さんが言ってた事は、きっとそれなりに正しい。連盟ってのは四段以上の人間の為の利権団体なのさ。四段以上になれなかったら、あそこではただ奪われるだけなんだ」
「だったら何だよ」
「でも、俺は勝った、秀正さんは勝ちきれなかった。それだけだ」
「お前、喧嘩売ってんのか?」
「自分を食い物にした連中を見返せずに終わるなんて、悔しくねえのかよ。実力で負けてねえってなら、それを証明してみせろよ。秀正さんなら出来るだろ!」
 あからさまに挑発してやると流石の屋代も怒りを隠せなくなったらしい、のそりと起き上がると近付いて胸ぐらを掴まれた。殴られる覚悟もあったのだがそこまで出来ないのが屋代らしい。
「俺がアンタの、屋代秀正の敵になってやる」
 そして夢の続きを見よう。それは悪夢かも知れない、二度と覗きたくない深淵であるのかも知れない、それでも過去に縛られ死なずに生きている今よりは、きっと確かなものを得られる人生になるはずだ。
 互いに交わした火花が散るような熱い視線は、しかし逸れることも無かった。


 自宅に戻った銀乃介が無断外泊について千代から説教を受けていると、携帯電話が着信で震えた。見慣れない番号だが携帯からのそれだ。仕事かも知れないからと適当に言い訳をして席を外す。
『ボウズお前、屋代君に妙な事言っただろう』
 名乗りもせずに言ってきた席主に、
「妙な事なんて何も。アマタイトルを獲れと、公式戦でやろうと、それだけです」
『気安く言うことじゃねえぞ』
「大丈夫でしょ、何てったって初代アマ名人がついてんだ」
『……知ってたんかい』
「まあ流石にね、いくらガキでも席主が異常に強い事くらい気付いてたよ」
『だからって、屋代君に無理をさせるつもりは――』
「――大丈夫ですよ、秀正さんは」
 根っこからアマチュアに溶け込むのではなく、その過去を抱えたまま表舞台から消えるのでもない、アマチュアとしてプロ棋界にリベンジするという第三の道を、屋代は、将棋を愛する彼ならばこそ、きっと選ぶだろう。それは銀乃介の中で殆ど確信に近い感覚だった。
「絶対に自分の意志で指すはずです。だからその時が来たら立川さんが力を貸してあげてください、寝惚けたプロを全員ぶっ潰すつもりでね」
 言い切ると、受話器の向こうの立川からは笑いが漏れた。お前にしてみりゃ敵になるんだぞと言っている。望む所だ、銀乃介は言った。
「タイトル獲って、リベンジ待っててやりますよ。首の価値は高い方が良いでしょう?」
 今度こそ大声をあげて笑う立川は、しかしそれを否定する。
『もしも屋代君がそこまで辿り着けるなら、その頃には奨励会なんてどうでもよくなっているだろうよ』
「そうかい?」
『ああそうだ、人間なんてそんなもんだよ……だからまあ、目標としては悪くはないな』
 自分も一つ目標が出来たと、電話の向こうの立川が穏やかに微笑んでいるように、その声は柔らかく聞こえた。












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