六

           六の一

 梅雨を抜け海開きが近付くと、期末テストを乗り越えた学生の間では夏へ向けた遊びの予定が語られ始めるが、響には無縁なことで、どうやらこの夏は去年一昨年に比べて対局の数も増えそうだった。棋戦を勝ち進めていること自体は素直に喜ばしいのだが、こうもスケジュールが過密になると、夏の暑さと相まってメルトダウンを起こしそうなほど酷使している頭には平均的高校生の無邪気な思考を許す余裕など無く、出来るなら頭蓋をカチ割って取り出した脳味噌を氷水にぶち込んで冷やしてやりたいと、さぞかし豪快な湯気が上がることだろうと、冗談にもならないことを本気で考えている危うさにはっとする経験も度々だ。
 終業式を翌日に控えた放課後。棋戦の都合で遅れることになった期末テストをようやく片付け、冷房という文明の利器に感謝しながら机に突っ伏してダウンしていると、教室に残っているクラスメイトから呼び起こされた。
「あざいー、お客さん」
 慈乃だろうか、それにしてはやけに静かだなどと考えながら怠さの抜けない身体を起こすと、見たことのない、三人組の女子生徒だった。視線を向けるときゃあきゃあと甲高い歓声が返ってきて、見た目はかわいいのだが嫌な予感がした。
「どうも……浅井です」
「ウチら三年なんだけど。今日はこの子が、浅井八段に御祝い伝えたいって言ってて」
 グループの中心だろうか、一番垢抜けている――非処女臭の滲み出ている――女が言う。
 まだA級に入った覚えは無いのだが、彼女らにとっては段位などどうでも良いのだろう。低く見られる分には構わないのだが上に見られてしまうのはどうにも居心地が悪く、まだ六段なんですよ、いずれなりたいとは思っているんですが、と、厭味に聞こえない程度に訂正しておきたいのだが、そんな高等会話技術を響が持っているはずがない。
「あの……あの……」
「ほら、ミナ、頑張って」
 どうやらミナと言うらしいその先輩は、響よりも背丈が一回り小さく、気も太くないのだろう、震える声を出すのも精一杯なようで、顔を林檎のように赤く染めている。こういう時に銀乃介辺りなら巧いこと話を進めてあげられるのだろうがと、申し訳なさを感じるほどだった。
「ひょっとして、放送協会杯を見て下さったんでしょうか?」
 響にはこの程度が精々。それでも、最初のうちはこの程度すらできずにお互い黙り込むような状態になってしまうことが度々あったのだから、そこからすれば大した進歩だ。
 相手は犬がしっぽを振るような感覚で、真っ赤な顔を必死で縦に振り肯定の返事。
 放送協会杯は毎年行われる早指しトーナメントであり、事前に録画された対局の様子が地上波で全国放映されるという特殊な棋戦だ。とはいえ、視聴率など度外視でやっている老人の趣味層に向けた日曜日午前中の番組であり、本来ならば女子高生が見るような番組では到底無いのだが、腐ってもテレビの影響力は偉大なのか、はたまた同学のよしみから観戦してくれたのか、近頃はこの手の来客がちらほらといる。
「その、おじいちゃんが、一緒に住んでて……だから、その、私は、同じ学校だからとか、そういうのじゃなくて……今日はその、一言お祝いを」
 ミーハーと思われたくない、ということだろう。
「有難うございます……お祖父さん、将棋指されるんですか?」
「私も! ……私も、少しならできます。月刊将棋、お爺ちゃんが買ってるの読んでます」
「え……アレ読んでるんですか?」
 これには響も驚いた。月刊将棋とは棋界における週刊少年ジャンプのような存在ではあるが、一般人が読んで楽しめるものとは言い難い。ストーリー漫画でも載っていればまた違うのだろうが、観戦記と詰め将棋が主な読み物では一般読者は近寄らないだろう。
「浅井六段の記事があるときは、必ず読みます……その、今年は、神座位の挑決トーナメントから、ずっと見てて……あの7三銀合は、相手が強かったからだし、仕方ないと思います。あのときの記事は、記者が、見る目ないんですよ」
 月刊将棋では7三銀合を読み落としていたことよりすっぱり投了しなかったことをチクチク書かれていたなと、対小寺戦の記事を思い出しながら、口だけで礼を言う。
 しかしこれはこれで参ってしまった。全く知識の無い人間が騒いでいるよりも、下手に知識を持った人間を相手にする方が却って疲れてしまう。ハナからマイナーな世界であることは理解しているし、他人から評価されたくて指している訳でも無い。公言はできないが、普及活動など放り投げて自分の将棋だけを考えていたいというのが響の本音だ。
「私は、対局しているときの浅井六段……格好良いと、思います。
 ……それに、最近の連勝だって、すごいです。王竜と棋将のタイトル、二つとも順調に勝ち上がってその上順位戦も負け無しの絶好調、このままなら三年連続昇級、それどころか高校生タイトル棋士も夢じゃないって、お爺ちゃんも言ってました」
 聞いているだけで本当に頭が重くなってきた。
「しんどくなるのはこれからですから……ところで、詰め将棋はどうです? 自作なので出来は保障できませんが、幾つか用意してありますから、応援して頂いてるお礼と言ってはなんでしょうが、お土産に持って行って下さい。お爺さん用に上級者向けのも、どうぞ」
 七月は月半ばにして対局数は既に六を数えるという連戦具合、それも全てが全力勝負の場とあれば疲労もピークの真っ直中、挙げ句学生の本分である期末テストが重なれば、響は正に初夏の暑さの中で脳味噌をとろけさせるデスロードを行っているのである。せめて学校に居る時くらいはと甘えが出てしまうのも致し方なく、やんわり婉曲に伝えたはずの、そろそろお引き取り願えますか、という言葉も、相手には強く伝わり過ぎたらしい、ミナというその少女の瞳が潤み始めていることに気付いたときにはもう遅かった。
 フォローの言葉を続けるよりも早く、それこそ沈む船から逃げ出す鼠のような素早さで廊下を走り去ってしまい、残された二人もそれに続くと、ドアの前で立ち呆ける響だけが残される。
「さすがに引くわ」
 背後から、いつものようにからかい混じりの雰囲気でないことが余計に腹立たしい安岡の声。
「後で詫び行くよ……脳味噌煮立ってんだ、確かに有り難いけど、もう勘弁してくれ」
「お前が行っても余計困らせるだろ、その調子じゃまたロクな会話できないで面倒になりそうだし。詫び状でも書けば代理で届けてやんぞ」
「妙に親切だな、気持ちわりい」
「だって可愛かったし……夏だからなあ」
 下心そのもののような返答に溜息を一つ挟みながらもそれ以外に案はなく、じゃあ頼むわと即決。

 ノートの切れ端に前略オフクロ様云々と書き出したのは良いものの、詫び状などかつて書いた経験もなく何を書けばいいのかも解らない。これならば対局している方がよほど脳には優しいと愚痴をこぼしたくなるのを堪え、脇から口を出してくる安岡を適度にあしらいながら、どうにか文章をでっち上げ、自作詰め将棋をごく簡単な物からヘビー級の物まで織り交ぜて五作ほどセット、ついでに近場で行われる将棋イベントの告知ビラを合わせておけば、とりあえずの体裁は整っただろう。要は誠意さえ伝われば良いのである。
 安岡に完成させた物を手渡し、ようやく一息つけると机に伏せかけたそのとき、教室のドアが勢いよく開け放たれ、響ちゃんいる? と慣れた声が聞こえた。
「あんだよ。つーか二年の教室に当たり前のように入って来るなよ、お前は」
 ぼやいた響に、
「あざいは男の癖にちっさいんだよ」
すかさず別方向から反撃が飛んでくる。ギャーギャーとやかましく垂れ始めた女子連中はひとまず放置しておくことにする。
「棋天戦、控え室が六角先生の勝勢で検討止めたって、銀ちゃんから」
 棋天位戦最終局、現棋天位加藤虎之助八段対六角源太九段の一局は本日新潟で行われている。銀乃介は検討組で、千代も大盤要員としてそれぞれ現地へ行っており、勝った方がタイトルを獲得する解り易い勝負だけに現地は結構な盛り上がりだと、昨晩メールがきていた。
「へえ、そう」
「それだけなの?」
「興味ねーもん。短い無冠時代だったなあってくらいか……でも、やけに早いな」
「加藤先生が横歩から8五飛で急戦挑んで、中盤なんて殆ど無かったみたい」
 三十代の加藤八段としては、研究勝負になりがちな形に持ち込めば若さで勝る自身に分があると考えたのかも知れないが、六角源太という棋士はそのような策が通じる相手ではなかったということだろう。
「実際、化けもんだな」
 大抵の棋士が年をとるにつれて勝てなくなっていく原因の一つには、老いによって研究に必要な体力が失われてしまう点があるが、六角は現役最高齢でありながらも最新の戦型に遅れることなく対応し、逆に見事な形で取り込んでみせることすらある。肉体の老いが生物として避けられないものである以上、老いて力を落とすような並の棋士と六角の間に存在する差は、精神力、より細かく言うなら将棋に対する執念の有無だろう。一回り以上若いタイトルホルダーを相手に、挑まれた急戦勝負で逆に完勝してみせるなどという芸当は、六角以外に出来るわけがない。
「何、どういう話よ」
 安岡に説明を求められるも一から語っていては陽が暮れる。
「七十過ぎたジイさんが王者相手にガチンコの殴り合いして勝った、っていう話」
「よくわかんねえけど、将棋って結構無茶苦茶なんだな」
 投げやりな説明だったが安岡は納得したらしい。と、そんなやりとりをしているうちに慈乃の視線が安岡の手に向いていた。
「ねえそれ、今度厚生会館でやるイベントのチラシだよね? 響ちゃんも指導で行くやつでしょ、安岡さん来るの?」
「いんや、俺はただの伝言役。響からとある子に渡してくれって頼まれたの。な、響」
「響ちゃんの友達来るの? 誰?」
「ヤス。もう説明しなくて良いから、さっさと渡してきてくれ」
「良いじゃん、隠すなよ響。ってなわけで慈乃ちゃん、実はね――」
 精神からくる鈍い頭痛にこめかみを押さえる。脳味噌が少し変色している気さえする。
          六の二
                ※

 教室を出るときに軽く落ち込んだそぶりを残しておいたから、響は今頃クラス中の女子から説教を食らっていることだろう。少しくらい良い薬だ、と慈乃は思う。
「慈乃ちゃん、怒ってる?」
「べつに。響ちゃんこういうことしょっちゅうだし、もう慣れてる」
 大体人が良すぎるのだ。将棋のことしか考えていないようなことを言う癖に、連盟から頼まれた仕事は自分の休みも考えないで引き受けてしまうし、大して強くない癖に先輩というだけで幅を利かせている棋士の悪口も聞くだけで嫌な顔をする。今回の事も、本当に将棋が好きなら今の響の忙しさを解っているはずなのに、無遠慮に押しかけてきた相手が悪いんであって、わざわざ響が詫びる必要など無いはずなのに、こんな勘違いさせるような真似までしてしまう。将棋への甘えには容赦が無いけれど、棋士の癖に、響は少し人格が出来すぎているのだ――というような惚気混じりの愚痴を延々と安岡相手に語りながら、慈乃は三年の教室へ向かう廊下を歩いているところだった。
「でもそういうところも好き、と」
「うん」
「全く……怖いね。もしも響が慈乃ちゃんじゃない女の子と付き合ったらどうするの?」
「そんなのありえないよ」
「だと良いけど。アイツ慈乃ちゃんのこと女として見てないっぽいからさ、心配でね」
 安岡の言うことは事実だと、慈乃にも解っている。響は慈乃を妹のようなナニカとしてしか見ていないだろうし、それが男女の関係になるというのも、当分は有り得ないだろう。
 それでも、響が自分以外の女と付き合うことは有り得ないと、慈乃は自信を持って断言できる。
「ないよ、絶対にない」
「随分自信あるじゃん」
「だって、響ちゃんだから、将棋が弱い人を好きになるなんてありえないから」
「もしも、ものすごく強い、それこそ男にも勝って名人になるような人が出てきたら?」
「相手が誰でも、響ちゃんが絡んだ対局じゃ加減してあげられないもん。だから響ちゃんが私より大切な人を作るなんてことは絶対にありえないの」
 唯一自らの生み出す一手のみが盤上における神の器たり得ると、無意識のうちに発せられたあまりに傲慢なその言葉からは、欠片ほどの疑いも虚勢も見えず、そのように物事を語る、少女が振り回す自然という名の危うさに安岡は言葉を失ったが、慈乃はそのことにすらも気付かない、杜に生きる白蛇の如き天衣無縫の神聖。

               ※


           六の三

 終業式の放課後、響は自宅アパートへ寄ることもなく立花家へと直行した。
 陰翳と調和した日本家屋は冷房を控えても涼しさを感じられることから肉体への負担が少なく、加えて精神的にも自宅と何ら変わらずに過ごすことができ、何より寝ていて三食出てくる環境となれば、疲労を抜くのにこれ以上の場所はない。唯一の難点は慈乃の存在であるが、間抜けな学生にとっての終業日恒例行事――置き勉道具が鞄に入りきらず涙目――になっていたことが幸いした。手伝いを申し出る代わりに今日一日の安眠を約束させるという金底の歩にも劣らぬ備えで固める。学校を出る前に立花の母へ送ったメールには間を置かず返信があり、昼は蕎麦で夜には知人から送られてきた鮎があるとのこと。精神を逆撫でる蝉声も極楽への入場券を手にした今となっては可愛らしい。
 かような流れで立花家へ辿り着けば、これぞ賢母の鏡と万人に思わせる技術、食卓には正に茹で上がったばかりの蕎麦が薬味共々煌びやかな輝きを放っており、ああこのような女と結婚したいものと、響が思ったか否かは定かでないが、無言のままに蕎麦をかっ込む代え難い至福の一時、遠く信州から取り寄せたこだわり生山葵の風味豊かな香りの深さは、思わず立花の母の指先をちらと見やった思春期の青年が、この指先からこの味が、自らの青大将も山葵のように優しくニギられおろされたいと、妙齢の人妻が備えた老いを知らぬ美しさも相まって、白昼みだらな妄想にふけるのも止む形無く、青年の心の奥深くに熟女の魅力を植え付け云々――といった具合であるとかないとか。
 さておき腹もたまった所で、
「氷風呂用意してあるから、お腹落ち着いたら入っちゃいなさい」
とくればこれで落ちない男はいない、至れり尽くせり立花の母のすばらしさ。
「俺、絶対おばちゃんみたいな人と結婚するわ」
 思わず響が漏らすのも道理だ。
「あら、鑑連さんのこと倒せたら今すぐにでも響くんのお嫁さんになってあげるのに」
「将棋でいいの?」
「いえいえ、勿論碁の話」
 初代宗桂ならばいざ知らず、全盛期に比べれば衰えたとは言え第二十八世本因坊の雅号を有する、碁打ちの頂点を極めた相手に挑むなど無茶なこと。
「ご馳走様でした」
 遠回しに惚気られ、少しばかり本気で羨ましくなってしまう。
「お粗末様で……それと慈乃、男の子の前でそんな顔するもんじゃないわよ」
「響ちゃんはおばさんになんて興味ないんだからね」
「あら残念、そうなの?」
「そろそろ腹もこなれて来たし、風呂もらうね」
 自らの性癖に詰めろがかけられそうな雰囲気を察し、響は足早に風呂筋へと逃れた。

 鑑連が考え出したのだという立花家秘伝の脳疲労回復術は、氷で冷やした水風呂と四十度前後の温い湯を交互に浸かるというもので、これを行う為に、立花家の浴室は十畳ほどの広いスペースに二つの浴槽が入った贅沢な造りとなっている。更に趣味人としての鑑連の注文から、室内は総檜という仕様になっており、これでは掃除をする人間も大変だろうが、そこは立花の母のすばらしさ、浴槽は毎日、浴室全体となると流石に二月に一度ほど業者の手を借りるらしいが、いつ入ってもそこいらの旅館では比べものにならないほどに整えられており、響がこの家の風呂場を綺麗でないと感じたことは一度もない。
 それにしても、このような贅を為せる立花の財力こそ恐るべし……と、これだけで二畳はありそうな主浴槽の温い湯に浮かびながら、極楽気分でぼんやり考えていると、がらりと音が鳴り勢いよく風呂場の引き戸が開けられた。
「背中流してあげる!」
 現れた慈乃はタンキニとパンツタイプの水着姿。ピンクのボーダーがガキ臭く感じるのはデザインではなくモデルの問題なのだろうと、そんなことを考える程度には響も冷静を保てている。
「おばちゃんに止められなかったのか?」
「響ちゃんにこれ渡せば一緒に入ってもいいって」
 いくよー、と一つ前置きしてから、湯船に投げ込まれたのは将棋盤と駒が描かれた――舟囲いらしき心許ない囲いがデザインされている――トランクス型海パンだった。
「おじさん、わざわざこんな海パン履いてんのか」
 将棋に行った娘二人と話を合わせるのに必死なのだろうか、と思ったのだが、
「違うよ、これは響ちゃんの。お姉ちゃんと買い物に行った時に買っておいたの」
「なんで」
「だって、響ちゃん新しい水着なんて持ってなさそうだし、海に行く時困ると思って……響ちゃんに選ぶんだから本当は穴熊とかの方が良いかと思ったんだけど」
「いや、仮に穴熊でもいらないって。そもそも海なんて行かねーし」
 とは言え目下の急戦は逃れようがなく、贅沢を言える状況では無い。せめて舟囲いでも築かなければと、手早く裸玉を囲う間にも慈乃は浴室に入り込んでいる。
 どうにか囲い終え間一髪と胸をなで下ろす間もなく、その一手直後に慈乃は浴槽へ飛び込んできた。
「海行こうよ、楽しいよ。響ちゃんの水着も、この水着だって折角買ったんだよ?」
「もう使ったんだから、わざわざ海行かなくても良いだろ」
「海で使わないと意味無いもん」
「日焼けするしベタつくし、イヤなんだよ」
 攻め手を軽く捌きながら、響は五右衛門風呂のような鉄釜造りの氷風呂へ移った。全身の毛穴が音を立てて閉まっていくような冷気の中で、腹の底から内側の熱を絞り出すように息を吐く。
「大体、リーグ戦に集中しろよ」
 前期リーグ戦は九月まで、残り二月八局の折り返し地点を迎えており、響がこの台詞を口にするのも既に何度目か覚えていないほどだった。
「ちゃんと全部勝ってるもん、息抜きくらい良いじゃん」
「だから、その成績に対する自覚を少しは持てって言ってんだ。他の人間に失礼だろ」
 リーグが始まるまでは完全にノーマークで星を計算される側だった人間が、蓋を開けてみればこれまで十戦して十勝、その上それが女とくれば当然内外から注目が集まる。
 内面がどうであれ、外向きには将棋に対する態度を引き締めなければならない時期だ。
「解ってるよ、解ってるけど」
「とにかく海はダメだ。夏休みの間の六局も全部取る位の気持ちで行け」
「だって、気持ちなんてなくても勝てるもん」
「だとしても、最低限の礼を保て。それだけは勝つ側の務めだ」
 努力をしようと血反吐にまみれようと、奨励会の段位を昇り詰める上ではそんなものは無いに等しい。その大小に差はあれど結局は才能でしか生きていけない世界、慈乃が持つ暴力的な才能もそれだけで正義となることは、他ならぬリーグ参加者こそが誰よりも理解しているはずだ――それなのに、解りきったことであるのに、何故こんなやりとりを今更繰り返してしまうのだろう。自身とて何百人もの血と屍を踏み台にしてプロという地位に昇り詰めた存在であるのに、今更、叶わなかった彼らに礼を払えなどという言葉を吐いてみせる、それが偽善以外の何になるのか――ふと浮かぶ考え――慈乃の才能に蹂躙される彼らの姿に自身を重ねているとでもいうのか。
「響ちゃんだって、自分のリーグの時思い出してみてよ。私と指すより簡単に勝てるって感じてたはずだよ」
 事実であるからこそ、響は何も答えなかった。
 響が三段リーグを戦っていた三年前、慈乃はようやく初段に上がろうかという所だったが、家で指した時の感覚は間違いなくリーグに在籍していた誰より強かった。そして現在の慈乃の将棋からは、タイトル本戦であたるような上位棋士達と同等か、或いはそれ以上やも知れないというまでの深さを感じる。まともに指せば三段レベルに敵はいないだろう。
 慈乃の棋力は、響の成長を――まるで数値化して計測しているかのような正確さで――併走しており、出会ってから六年近く経つ今となっても響はその底を見極められずにいる。
 そうこう考え込んでいるうちに息が冷たくなっていた。時間の経過に気が付いて浴槽を移ると、間近に見る慈乃の顔は既にほんのりと赤らんでいる。
「私だって、頑張ってるんだから。今までみたいな負け、無くなったでしょ?」
「確かに、そうか」
「響ちゃんと約束したから頑張ってるんだよ」
「約束?」
「名人戦だよ。待ってるから早くプロになれって、響ちゃんが言ってくれたから、だから早くプロになっちゃおうって思えたの」
 表情は変えずに聞いていたが、湯に浸かっているはずの背筋がぞっとした。なりたいと思えばいつでもなれるという思考をしていなければ決して出てこないはずの言葉、そしてそれが思い上がりでないことを証明するかのような圧倒的成績――勝利も、それどころか敗北ですら望むままに手にすることが出来る。全ての結果は私の掌の上で予め決められている――まるでそんなことを言っているかのようだった。
「私がプロになれたら、響ちゃんのお陰だね」
 首からぶら下がるように手を回されて身体が寄る。重ねられた胸の、薄布の濡れた質感を挟んで、小さな二つの弾力とその谷間から響く鼓動を感じる。
「暑苦しい」
 触れ合う肌から伝わってくる体温は浴槽の湯よりも高い。
「響ちゃん氷みたいで気持ち良いんだもん」
 そう言いながら、左膝の上に臀部の窪みをぴたりと沈めると、二本のしなやかなふくらはぎで股をぎゅうと挟みこんできた。
「面倒臭いことしてないで、自分で氷風呂入れよ」
 膝に感じる肉の感触は、自然な重みなのか、それとも押しつけているのか、次第に厚くなっていく。
「やだ、あれきらい」
 首にかけられていた手が肩から胸へ滑ると背で緩く結ばれた。
「それに、響ちゃんとくっつくから気持ち良いんだもん」
 挟み込んだ太腿をレールにして、丸い尻の形を押しつけながら舐めるように付け根の方へ滑ってくると、背に回された細腕が引き絞られ、肉体は隙間無く重なった。なおも触れ合う肌の面積を増やそうとしているのか、ボトムを腰骨の尖った部分に擦り付けるようにしており、薄布の向こうにある溝の形状まで浮かび上がるように触覚へ透写される。
 巻き付いた腕がするするとのぼってくると、少女の肩周りに特有の、弾性に富んだ肉感が腋の下へ滑り込んできた。
「響ちゃんの腋、毛生えてるね……じょりじょりして気持ち良い」
 二の腕をねじりながら、毛の擦れる感触を楽しんでいるらしい。
「変態過ぎるだろ……気持ち悪い」
「私はちゃんと処理してるんだよ?」
 僅かに身体を離し上半身を湯船から出して、慈乃は自身の腋を見せつけるように左腕を上げた。
「ほら、見て」
 響の手を取り自身の腋の下へ持って行くと、指先で撫でさせる。
「ね、つるつるでしょ?」
 なめらかな肌には浴槽の湯とは違った僅かな湿り気があり、甘い匂いを放っている。
「だから海――」
「――頑張ったのに、行けなくて残念だな」
 先回りして答えると、むくれたような顔で黙り込み、抗議のつもりなのだろう、乱暴に湯船に沈んだので、跳ねた飛沫が響の顔にかかった。
 濡れた顔を拭うついでに伸びをすると、慈乃がその様をじっと見ている。
「良いなあ」
 人指し指を唇で咥えながら、心底羨ましいという風だ。
「何がだよ」
「お腹のお肉ついてないから」
 虹色に煌めく糸を引きながら、咥えていた指を離すと、響の腹に浮かぶ肋骨を下から上へ一つ一つなぞっていく。
「ああ、そいや水着なのに腹出してないな」
「別にそれが理由じゃないもん、これが可愛かったからだもん。ほら!」
 腹部を覆う水着をめくり上げると、勢いがつきすぎたのか、緩やかに膨らんだ丘の先の鮮やかな桃色がはみ出していた。しかし本人は気付いていないようで、その表情は一つも変わらない笑顔に満たされており、響も、言えば面倒臭くなると別段気にとめず流した。
「そんなにひどくないでしょう?」
 幼さの残る、整わない線に枠を引かれた肉体は、小さく窪んだ臍の周囲に、過去の怠惰による蓄積ではなく未来の成長への助走を感じさせる余分がある。
「腰回りがね、ちょっと気になるだけなの」
 肩幅ほどに足を広げて半身になり、脇腹から背の線を強調するように腰を曲げる。響の目の前に尻を突き出すような格好だった。
「でもクラスの平均よりは痩せてるんだよ?」
 見るからに柔らかく伸びた太腿の、ミルクの香りがしそうな白い肌は、若さを誇示するかのようにすらりと水を弾き、その一滴の雫がボトムからはみ出した膨らみの弧に沿って垂れていく。濡れてぴったりと肌に吸い付いたボーダーの布地は、背筋から臀部への谷をくっきりと描き出しており、無防備な二本の足の付け根、みずみずしい腿の内側に出来たコケティッシュな影に潜むように、布と肌の僅かな隙間から一段と柔らかそうな暗い丘陵が覗けている。
「ケツ向けんな」
 響は舌打ちを一つ挟みながら、掌で掬った水をぴしゃりとかけた。
「お尻見て欲しい訳じゃないもん、背中だよ」
 流石に恥ずかしくなったのか、振り返った慈乃は視線を合わせないまま響に抱きついた。
「だから暑苦しいっつーの、離れろ」
 引き剥がそうとした響に抵抗するように、先ほどと同じように腋下から背に通した手をより一層がっちりと結んだ上に、今度は二本の足を腰に回して絡みつく。
「ぜーったい離れない」
「子猿かよ」
「響ちゃんが親猿なら良いよ」
「生まれた瞬間に捨てるね」
 離れろ、イヤだ、離れろ、イヤだ――同じやりとりを幾度となく繰り返しながら、引き剥がそうとする響も、しがみつく慈乃も、双方の肌を濡らす汗にずるずると滑り、無駄に身体が擦れあうばかりだった。
「良いじゃん。海に行っちゃダメなんだから、これくらい」
「ベタベタされて鬱陶しいんだよ、文句あんなら大人しく浸かってろ」
「ヤダ! ヤダ! ヤダ!」
 慈乃はダダをこねるように身体を揺らし始め、こうなると響も観念するしか無い。諦めの息を一つ吐いて、なおも興奮冷めやらぬといった風に暴れる慈乃を好きにさせておいた。
 暫く放っておけば当然息があがり、重なった胸の心音も激烈な勢いになっている。
 今ならば容易に引き剥がすことが出来るだろうが、しかしそんなことをすれば後で散々喚かれるに決まっている。響は敢えてそのままにしておいた。
「つーか、もう冷たくねーだろ。離れろよ」
「いいの、冷たくなくても気持ち良いから」
 響の肩に顎をのせて、腕の力は緩くなったが身体ごとゆっくりと擦り付けている。響は自分が洗濯板にでもなった気分だった。
「響ちゃんとくっついてるとね、おへそのちょっと下の辺りがね、じわーってあったかくなってきて、すごく気持ち良いの」
「何だそりゃ、便秘治療かよ……ともかくさっさとあがれ、のぼせてぶっ倒れるぞ」
 ぼやくと、首筋に頬が寄せられた。
「ねえ。髪、触って」
「やだよ」
「触ってくれたらもうあがるから……おねがい」
 自分からあがってくれるならと、言われた通り手櫛で撫でてやる。
「ほれ、もう良いだろ」
 物足りないとでも言いたげな、未練がましい表情を見せたが、約束だろうと押し切ってやると今回はひどく抵抗されるようなこともなく、ようやく平穏を取り戻した浴室で安堵の息を吐きながら、響は水風呂へ移った。


 置き衣装の寝間着に着替え、立花の母が布団を用意してくれているはずの部屋へ向かうと、確かに布団は敷かれていたが、何故か二枚、それも部屋の中心にわざわざぴったりと並べてあり、片方では既に慈乃が寝転がっていた。
「自分の部屋で寝りゃ良いだろうに」
「今日はとくべつ。お昼寝なんて滅多にないし……ダメ?」
「もっかい布団運べとも言わねえよ。その代わり、すぐ寝るからな」
 電気を消し、布団へ倒れ込んで目を閉じる。
「ねえ、響ちゃん」
「喋るなら部屋戻れ」
「……どうしても海ダメ?」
「お前が行きたいなら行けば良いさ。海行く程度でどうこう言うやつなんて、いねえよ」
「じゃあ」
「ただし友達と行け。俺は自分の対局があるから無理だ、海行って体力使う暇ねえもん」
「海じゃなかったら、良い?」
「……どこだよ」
「花火とか、お祭りとか」
「……休み中のリーグ戦、六局全勝したらな」
「それじゃあお盆過ぎちゃうよ」
「八月末にそこの神社でやってんのがあるだろ」
「あんなの、毎年行ってるじゃん」
「もし一回でも負けたらあれもダメってこと」
「……響ちゃんのケチ」
「勝手に言え。もう寝るぞ」
 氷風呂で限界まで冷やされた頭には、余計な思考が沸いてくる余地も無く、間違いなく深い眠りにつけるだろう。慈乃にシャツの裾を握られているらしいと知覚したのが最後で、それ以降はぷつりと途切れた。


         六の四

 夕食の準備が出来たという立花の母の声に目が覚め、なおも涎を垂れ流して眠る慈乃を洗面所まで引きずって行き、二人で顔を洗ってから食卓へ向かうと、銀乃介と鑑連が二人で晩酌していた。聞けば銀乃介は新潟帰りに直接来たとのことで、呑んでいるのも土産の地酒だという。
「つーか慈乃、シャツ透けてんぞ」
 銀乃介の言葉に改めて見てみると、なるほど確かに。慈乃が着ているのは響が中学の頃に着ていたシャツで、立花家に置き衣装していたものをお下がりとして使っているらしい。布がかなり弱くなっており、光の強い場所では白地の下着についたピンクの小さなリボンまではっきりと透けている。
「スポブラかよ、高校上がったのに色気ねえなあ」
 そんな銀乃介の馬鹿笑いに気分を悪くしたのだろう、
「着替えてくる」
吐き捨てるように言う。
「慈乃のおこちゃまブラなんて誰も気にしねーよ、何ならパンツも批評してやろうか?」
「銀ちゃんとかお父さんに見られるのが気持ち悪いから着替えるの! バカ!」
「おお、こわいこわい」
 なおも煽る銀乃介を睨み付けながら慈乃は出て行く。響はこの世の終わりのような表情で固まった鑑連が不憫で仕方なかった。
「おじさんは完全な巻き添えだし……気にしない方が良いよ。本気で言ってないって」
「いーや、アレは普段から思ってるからこそ出た言葉だな。気にすんなおやっさん、娘が父親を嫌うのは健全な証らしいからよ、呑んで忘れようぜ」
「銀は少し黙ってろよ」
「おやっさんだって本気でヘコんじゃいねーよ、なあ?」
 気軽に肩を叩く銀乃介に、
「いや……確かに最近避けられている気がしてたんだ。風呂上がりに涼んでいた時も……あからさまな目だった、汚物を見るような……あんな目で親を見る娘じゃなかった」
鑑連は落ち込んでいる様子を隠さない。
「色気づいてんだな。そういう時期だよ、仕方ねえって」
「バカを言うな、早過ぎる。ただでさえボーッとしてる子なんだ、まだ親の目が必要だ」
 双方かなり酒が進んでいるのだろう、会話の方向性がまともでない。
 響が呆れていると、刺身を盛った大皿を抱えた千代が入ってきて、
「そりゃパンツ一丁でうろついてるの見れば慈乃だって嫌な顔するわよ、私も見たくない」
どうやら汚物を見るような目をされたのはそれなりの理由があるらしい。聡明な長女からも見捨てられた哀れな父だった。
「おい銀乃介、聞け。私はな、かつて碁打ちの頂点として恐れられたんだぞ、引退すれば第二十八世本因坊と呼ばれるんだ、それが何だ、この家での扱いは、おかしいと思わんか」
 いかな算砂と言えども、まさか風呂上がりにパンツ一丁でうろつく人間に引き継がれている未来など読めなかっただろう。
「俺ら将棋指しだからなあ、本因坊って言われてもちゃんとした重みがわかんねえんだよ」
「憎い、将棋が憎い! 私がこの家でこんな扱いをされるのは全部将棋のせいだ」
 千代は呆れた態度を隠さず、
「父さんがそういうことをしてると、他の碁打ちの方に迷惑だから、少しは肩書きを自覚した振る舞いをしたら?」
痛烈な一言だった。
「いつから呑んでんの」
「私たちが帰ってきてからずっとだから、三時間弱ってとこかしら。本当に二人で一升瓶空けちゃいそう……あ、でも五本買ってきたから、響は焦らなくても大丈夫よ」
 話している間に慈乃が戻ってきた。下のショートパンツは履き替えず、薄手のパーカーだけ新しく羽織っている。このパーカーも響が以前着ていた物だ。
「なんかやらしいな、それだと下なんも履いてねえみたいだぞ」
 慈乃の身体にはやや大きいためショートパンツまで隠れてしまい、確かにそう見える。
「いちいちうっさいセクハラオヤジ、そういうの、本当に気持ち悪いんだけど」
「俺は響の代弁してやってんだよ」
「響ちゃんは良いの、銀ちゃんが言うと気持ち悪いだけ」
 相手にしないことを決め、響はマイペースに食事を始めた。

 特に祝い事がある訳でもなかったが、明日からは慈乃が夏休みに入るということもあり日付の変わる時間帯になっても食卓は賑やかだった。
 いつの間にやら並んでいた将棋盤と碁盤を挟んで銀乃介と鑑連が向かい合い、銀乃介の四枚落ちに対して鑑連は八子の置き碁、更に持ち駒にレートを定めて双方の合意があればコミで買い取れるというルールの下、同時進行で対局している。単なる酒の余興ではあるものの、これが予想外に白熱し、長考防止用の対局時計まで持ち出される始末だった。
「おっちゃんよう、アンタこのままじゃ詰むぜ。何か張った方が良いんじゃねえか」
「解っている……金をよこせ」
「かれこれ三十目以上コミついてるけど、本当に出せるのかい?」
「私を誰だと思っている。さあよこせ」
「そうかい。金一枚四目のお買い上げ、毎度ありってなもんや三度笠ってか」
 消費者金融で繰り広げられていそうな会話を聞きながら、響は土産の地酒をちびちびと舐めるように味わっている。
「アコギな真似しやがって、金売ったところで詰み筋はキッチリ確保してんじゃねーか」
「お父さんも本気で目算した上で買ってるもん、格好悪さで言ったらどっこいだよ」
 隣に座った慈乃と、小声でそんなことを語り合いつつ、
「どういうこと?」
どちらのルールも全く知らない、立花の母への解説も忘れない。
「病人相手に、この薬を買えば治る、って文句で偽物の薬を売りつけてる感じかな」
「まあ、ひどい」
「でも、お父さんも大人げなくて、本気で巻き上げてるの。病人は悪徳高利貸しだったの」
「それはまた良くできたお話だこと」
 正に因果応報の見本のような光景である。
 慈乃の解説によれば碁盤は鑑連の圧倒的勝勢らしく、銀乃介としては生かさず殺さずといった具合に攻め手を緩め、相手を捌きながら、少しでも駒を売りつけてコミを稼ぎたいところだろう。勝敗はもう暫くつきそうにない。
「ちょっと外す」
 一言残し、響は厠へ立った。


            六の五

 ほろ酔い気分で夜風に吹かれながら心地良く渡りを歩いていた響は、蒼白い月明の中で池のほとりに佇む千代の姿に目をとめると、框のサンダルをつっかけて庭に降りた。
「何してんだよ、こんな夜中に。市松だって寝てんだろ」
 立花家の池には市松という名の錦鯉が飼われている。ひどく間抜けな面構えで、お世辞にも優雅とは言い難い鯉だが、どことなく愛嬌があって憎めない。
「なんだ、響か」
「なんだ、って何だよ」
「響で良かったな、って」
 このとき、夜の暗がりの中でも表情が読み取れる距離まで近付いて初めて、響は千代が泣いていたらしいことに気が付いた。食卓では堪えていたのだろう。千代という女はその手の演技が悲しいほどに巧い。
「新潟で、大盤の聞き手役したんだけどね。新四段どころか女流みたいな扱いの厭味言われちゃって。ほんとにさらし者って感じ、もう笑うしかなかったわよ」
 家着の浴衣をふくらはぎほどに捲り、足下は裸足という格好。池を囲むように置かれた大きな岩に腰を下ろし、徒然に任せるようにして爪先で水を揺らしている。
「『女の正棋士なんて凄いことだ』から始まって、『碁打ちの立花はとんでもない遺伝子を伝えた、これで男に生まれていたらタイトルも夢じゃなかったのに勿体ない』……だって」
 随分下らないことを言う棋士がいたものだと呆れはするが、付き合うつもりもない。
「愚痴なら銀に言えよ、俺は聞く気ないぞ」
「アイツは平気で優しくするから、ダメ。敵討ちしてやるくらい言っちゃうんだもん」
「意味わかんねえ」
「格下として見切ってない限り、そんな慰めできないでしょ」
 目の前の棋士が抱え込んでいる、全ての哀しみが集約された一言を、しかし響は、息を一つ吐くだけで聞き流した。
「私ね、碁をやめる口実が欲しくて将棋を始めたの」
 千代もまた響の態度が見えていないかのように話を続ける。同意して欲しい訳ではなく、ただ語りたいだけなのだ。
「碁は、十歳になるくらいまでかな……将来プロになれるかもって、その頃から言われるくらいには打てたんだけどね。父さんの名前が怖くて、一緒の世界に入りたくなかった」
「ありがちだな」
 敢えて攻撃的に伝えた言葉にも、そうね、とあからさまに自嘲する。
「でも、才能が無い訳じゃないのにやめるっていうんじゃおかしいでしょう。だから色々探してたんだけど……小学校のクラブで囲碁将棋部ってなかった? 私の所にはあってね、そこで初めて将棋を指したの。そうしたら、凄く面白くて、気付いたら奨励会に入ってた」
「で、女流制度が嫌だったから正棋士目指したってわけだ」
 小さく頷きながら、結局意味は無かったけれど、とこれもまた自嘲。
「三段さえ抜ければ、父さんも、女ってことも、全部関係無い世界だと思ってたのにな」
 虚ろな目で水面の月を眺めながら、何もかも諦めきったような、投げやりな口調だった。
 くだらねえ、と響は感じたままに呟く。千代に聞こえたかどうかなどということは考慮すらしない。下らないと感じたから下らないと声に出た、それだけだった。
「……今日、慈乃と三段リーグの話してて、屋代さんのこと思い出してさ。覚えてるか?」
「そりゃ覚えてるわよ。一発抜けの天才どもと違って、私は七期もあそこにいたんだから」
 三段リーグを七期という千代の経歴は、決して妙なものではない。むしろ一期で抜けた銀乃介や響の方が異色な経歴なのであり、千代という棋士の不幸はそこにもあった。周囲にとてつもない才能が集まりすぎているのだ。
「私が奨励会に入った頃からずっといて、本当に面倒見の良い人だった……リーグに長くいたらどこかスレてて当たり前なのに、あの人だけはずっと礼儀正しくて、優しかった」
 屋代秀正は、響が三段リーグに参加していた三年前当時に二十七歳であり、通算で九年十九期という長期に渡ってリーグに在籍している人物として、全ての奨励会員にとっての長兄的存在だった。響は奨励会をほとんど最短距離で駆け抜けており、記憶に残せるほどの人間関係は築かなかったが、それでも屋代のことだけは覚えている。
「あの人を奨励会から追い出したの、俺なんだ」
 屋代は、勝負を左右する終盤での閃き・瞬発力に関しては、三段リーグの中でも劣った存在だったが、不足を補うように序盤の研究に力を入れた、努力肌の棋風だった。劣勢に立たされても決して諦めずに粘り続ける屋代の将棋は、玉を詰ませるのに最も疲れる対局相手として、プロ棋士の間ですら名前が挙げられるほどであり、彼が奨励会を退会すると決まった時には千駄ヶ谷の空気が重くなったと語られたほどだ。
「勝ち抜けが決まった状態で、延長戦資格崖っぷちだったあの人と当たって、潰した」
 二十六歳までにプロになれなかった人間は基本的に奨励会を退会しなければならないが、年齢制限を超えても、リーグ戦で勝ち越した場合には一期ずつの延長が認められる。響がリーグに参加した当時、屋代は既に年齢制限を超えており、一期また一期と勝ち越すことでどうにか首の皮を繋いでいる状態だったが、十七戦目、既に勝ち抜けを決めていた響と八勝八敗で後のない屋代の対局が組まれ、結果は響の勝利、屋代の奨励会退会はその瞬間に決定した。
 以降、屋代がどこで何をしているのかは全く伝わってこない。
「あの人だけじゃない、三段にあがれずにやめていった人間も星の数ほどいて、俺はそういう連中踏み潰して今の所に立ってるんだよなって……慈乃の態度があんまりムカついたからかな、気付いたらそんなこと考えてた」
 彼らの分も頑張る義務があるなどという青臭く陳腐な台詞を吐くつもりなど響には毛頭無い。しかし、勝ち残った人間が、それまで散々食い潰してきた人間が、今度は食われる側に回ったからといって途端に態度を変えるようなことだけは許せなかった。それは欺瞞である、全ての勝負への冒涜である、我慢のならない腐臭を放つ醜悪な精神である。他者を殺す者は常に自らの死を意識しなければならない、今日自らが彼に為した事は全て明日の我が身に為される事であるのだと自覚されなければならない。そうでなければどうして他者から奪えよう。それは勝負師が最低限保たねばならない矜持である。
「俺もお前も、そうやって散々他人を踏み潰してここまで来てんだよ。三段リーグだろうが、順位戦だろうが、結局は勝つしか無いんだ。借りがあるのなら盤上で返せ、泣くしかできないなら引退しろ。今更、どのツラ下げて泣き言なんて垂れられる」
 それは自身に言い聞かせる言葉でもあったろう。
            六の六

「さっすが、優等生は言うことが違うわね……あー、腹立つ」
 しかし女の冷笑はなおも崩れない。
「響だって、慈乃の相手してるんだもの、絶対的な能力差ってヤツを自覚した瞬間の絶望くらい解るでしょう。だから今だってわざわざ三段リーグの話なんて持ち出してる。ギンが私を見るのと同じ視線で、貴方は慈乃から見られているんだものね」
「ヒス起こして無茶苦茶言ってんじゃねえよ。慈乃相手なら百局指して五分、いや、五つ六つ勝ち越すくらいはついてるだろ」
 キッチリ割り出す事などしてはいないがその程度のはずだと、響が言うと、千代は一笑に付した。
「まさか、あの子が一度でも本気で指したことがあると思ってるの?」
「厭味言われたか何か知らねえけど、下らないこと言うのは大概にしとけ」
 対局で手を抜いているなどということは、冗談でも言ってはならないことだ。このやりとりの間に、響の瞳には薄い怒りの色すら浮かんでいた。
 夏の夜の虫の声。池では、眠っていたはずの市松が、殺気でも感じたというのか、再び泳ぎだしている。その美しい足を水面に滑らせる千代は、響の様子を気にした風も見せずに言葉を続けた。
「今からちょうど十年前、一人の天才碁打ちが全盛期を迎えていた。本因坊戦の八連覇を筆頭に大三冠を三期連続で独占、世界中を見渡しても向かうところ敵無しだった――」
 立花鑑連その人のことであると、響でなくともすぐに解ることだった。碁が現在の棋戦を行うようになって以降、大三冠の独占も、本因坊戦八連覇も、立花鑑連以外には誰一人として為し得ていない偉業だからだ。
「――ところが、碁打ちとしての頂点を極め神の一手に最も近いとまで言われていたその人物は、とある非公式対局のただ一度の敗戦で、引退寸前にまで追い込まれたの……さて、立花鑑連をただ一度の対局で精神ごと粉砕した女のコとは、一体どこの誰でしょう」
「まさか慈乃だってのかよ、十年前っつったら五歳児だぞ」
 十年前、当時全盛を誇っていた鑑連が引退を囁かれるまでの急激な落ち込みを経験したということは情報として知っているが、その裏にそんな敗戦が隠されているなどとは聞いたことがないし、ましてやその相手が当時五歳児の慈乃だったなどと語られては、笑い話にもならない。何故こんな子どもすら騙せない与太話を始めたのかと、笑うことも出来ずに呆れてしまう。
「慈乃は、言葉を覚えるのが極端に遅くてね。障害があるかも知れないってお医者さんにも言われてて、何度も検査したんだけど、原因は解らなくて、家族全員が覚悟するような子だったの。だから、まさか碁なんて打てる訳ないと思ってたし、誰も教えていなかった」
 呆れきった響を説き伏せようとするでもなく、それは最早独り言だった。
「簡単なルールを説明しただけだったのよ。要は石で囲めば良いって、それだけ。将棋で言ったら駒の動かし方を教えて相手の玉を詰ませれば勝ちって伝えるだけの説明。棋理も定跡も、何一つ知らない状態だった。慈乃を楽しませる為の、ただの遊びのつもりだった」
 ふと言葉を止めると、響に視線を向け、
「勝ってから、あの子何て言ったと思う?」
蒼白い月の魔力か、そう問いかける千代の瞳には狂気じみた何かが宿っている。
「お父さんほとんど間違えなかったねって、そう言って笑ったの。まともに喋ることさえできない舌足らずな喋り方で、碁打ちとして当時間違いなく世界最強だった、もしかすれば碁史上でも最強クラスだったか知れない父さんを相手に、五歳の女の子がそう言ったの」
 荒唐無稽な内容に、ではなく、それを語る千代の雰囲気に圧倒される。夏の夜の湿気と池の水面の静かな涼しさとが混じり合った、背筋が寒くなるような気色の悪さだった。
「父さん、倒れたわ。とてもじゃないけど二度と碁なんて打てないだろうってところまで精神が沈んでた。今の所まで立ち直ったこと自体、立花鑑連だからこそ果たせた奇跡よ」
 何かに憑かれたように、抱え込んで内に隠していたものを吐き出すように、感情の揺れは再びの薄い涙となって目元に滲んでいる。
「慈乃は、百手先くらいなら一瞬で、その気になれば何手でも、全ての変化が映像として見えているんですって……無数に存在する盤上の可能性の全てが、好手や悪手の区別なく見えているのだから、後は相手が何を指そうと自分の勝ち筋を踏み外さなければ良いだけ。こんなの、もう読みとすら言えない、ただ膨大な情報を処理するだけの作業、普通の人間じゃ何十万年かけても終わらないような、途方もない作業よ。
 ――その作業を、あの子は一瞬で終わらせる」
 ふつう、盤面を読むという行為は、指し手が自身の思考や経験に基づき幾つかの候補を選んだ上で、或いは明らかに棋理から外れるような悪手を排除した上で、行うものである。一手指すのに百通り、二手なら一万、三手で百万、四手で一億……そんな馬鹿げた具合に枝分かれする局面を、一瞬で百手先まで全て読み切るなどという行為は、仮に量子計算機が実現したとしても不可能なことだ。
「アホ臭い。局面なんて無限にあるんだ、百手先に存在する全ての可能性を一瞬で見切るなんて、それこそ宇宙の全てを理解するのと同じこと……神様でもなければできねえよ」
 仮に千代の語っていることが全て事実であるとすれば、将棋や囲碁、加えてチェスなども、つまり二人零和有限確定完全情報ゲームに分類されるものであるならば、慈乃はそのルールを理解した瞬間に必勝乃至不敗の存在になるということ。真面目に語る内容としてはあまりにも酔いが足りなすぎる。
「そうね。あの子は本物の神なのかも知れない……将棋の神様が将棋なんてどうでも良いと思っているなんて、おかしいけれども、きっと間違ってないわ。指す前から全て知っているものをどうして楽しめるって言うの、神様はいつだって退屈しているものなのよ」
 語る千代の表情は、嘘や誇張の類ではまず現れない深刻さが滲み出ている。
「あの子の中では、碁も将棋もあの子がルールを理解した瞬間に死んでしまった。だから手を抜くの、勝ちたくないから、結果の見えている勝負を必死で考える相手の姿が哀れで仕方ないから、そうして壊れてしまった父さんを見ているから」
 或いは無力感に押し潰されて気が狂ってしまったのではないかとすら、響は真剣に疑いたくなっていた。それほどまでに、あくまでも真実を語るような口調の千代が、とてもではないがまともとは思えない。
「本当に、神がモナドを配置して世界を作ったという説の縮図そのものなのよ。あの子にとっては盤上の全てが予定調和に過ぎないの。だから、あの子は将棋なんてどうでも良いと思っている。けど、盤前には響がいるから、響が将棋しか見ていないから」
 不意打ちのように出された自身の名にも、響は何も感じなかった。千代はほんの少しつかれているだけなのだと、そう考える以外にできなかった。
「このことを知っているの、立花の人間以外では貴方だけよ。決して口外しないで頂戴ね」
「話せるかよ、病院紹介されちまう」
 千代に背を向け、母屋の方へ歩き出す。
「もし本当のことを知りたいと思う時が来たなら、父さんに聞いて御覧なさい……きっと、響になら話すから」
 背後から届いた声に振り返ることはなく、
「厭味言われてヘコんだのは十分解ったから、早く寝た方が良い。つかれてんだ」
立ち止まって、見上げたつきに呟いた。
 静かな夜は月が蒼い。





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