八

              八の一

 始業式、校長の挨拶では当然のように響のタイトル挑戦が話題にのぼり、全校を挙げて応援するという言葉は確かに有難かったが、壇上に上げられてマイクを渡されたことには少々難儀した。御礼の言葉と共に、普段の棋戦と変わらずに臨みたい、ついでにこれを機会に将棋というものに少しでも興味を持って頂ければ嬉しいです、というような月並みな文言を並べてその場は逃れたが、どうにも立派に扱われすぎて始終落ち着かなかったのである。
『浅井君は本校の誇りです、学生の鏡です。皆さんも、何か一つのことに打ち込み励む中で、彼のように、真摯で、そして誠実な人格を築けるように、十分努力して下さい』
 聖人君子でも語るかのような校長の口調がまた辛い。
 タイトル戦というステータスの魔力なのか、棋士という人種が世間から飼い猫のような感覚で愛されていることが、響にとっては違和感でしかなかった。檻の中の珍獣を眺めるという方がよほどに正しい接し方であるのにと、自身がそう感じてしまうほどに。

 SHRを終えると同時に担任から呼び出され、久々の誘いを受けていた麻雀部のメンツに断りを入れてから、半ば担任の私室として利用されている音楽準備室へと向かう。
 担任は一年の頃と変わらず、支倉奈緒という二〇代半ばの音楽科教師である。教師生活三年目という新米教師は、昨年の響たちのクラスが初めての担任経験であり、本来であれば響のような事情のある生徒を受け持つはずもなかったが、彼女にはかつて奨励会に在籍していた弟がいることから、他の人間よりも棋界の事情を理解出来るのではないかという学校側の意図があったらしい。いずれにせよ苦肉の策だったのだろう。
 おっとりしているように見えてズケズケと毒を吐く遠慮のない性格ではあるが、そこは音大出のイメージにピタリと一致するような優雅な外見が緩和しているのか、生徒からは広く慕われている。
「公立の進学校だからね、こういうニュースが珍しいだけよ。生真面目に受け止める必要なんてないわ」
 教員用コーヒーを響にも差し出しながら、あらかじめミルクを一つ垂らしてくれている辺りは慣れである。学校絡みの話はほとんどここで行われる為、響はここの常連と言っても良いほどに足を運んでいた。
「将棋指しの人格なんて見本にしたら、日本は一晩で修羅の国ですよ」
 たとえば、タイトル襲位の共同記者会見で、第一声『おまんこ!』と叫んだ棋士がいた――その名を二階堂秀行。才覚だけなら同世代の六角より上を行くとまで言われ、酒と女さえこの世に存在していなければという文句と共に語られ続ける、紛れもない天才である――ことなど、間違っても校長は知らないのだろう。既に引退した人物だが、現在は現役時代の功績から連盟の名誉理事を務めている。『おまんこ!』でも名誉理事である。そんな奇行を取る人間であっても実力さえあれば全て許される、勝負の前には社会常識などケツを拭く紙にもならないという考えがまかり通っている、そういう世界なのだ。
「自分からそんなこと言わないの。まあ、話聞いてる限りでは私もそう思うけど」
 奈緒はクッキーを咥えながら笑顔を見せた。遠慮無くお食べなさいと冗談めかして言われたので響もポリポリとかじりだす。
「プロなんてそんな人種ばっかりよね。小さい頃からそれ一本でやったんじゃ人格なんて歪んでふつうよ」
「いや、俺もプロなんすけど」
「浅井くんか……うん、やっぱり歪むんだね」
 奈緒はそれなりに名の通った音大の出であり、学生時代は演奏活動一本で生計を立てる夢を見ていた時期もあったという。そういう人間だからこそ出た言葉。専門性の高い世界で上へ行く人種というのは、大抵どこかのネジが一、二本ゆるんでいるものだ。
「コンクールとか出るとね、本当に漫画みたいなマザコンとかがいるのよ。男も女も良い年した大人がオカーサンオカーサン言ってるんだから、思い出すだけでも気持ち悪い――」
 身震いしてみせるように自身の身体を抱くと、無自覚のうちに豊満な胸を強調する結果となり、純白のブラウスに押しつけられることで浮かび上がった鮮やかな下着のラインも含めて、響は思わぬ眼福に与った。
「――ねえ、浅井くんもマザコンだったりするの?」
 響の顔を覗き込むように前屈みの姿勢を取ると、ボタンを一つ外しているブラウスからはこぼれ落ちそうなやわらかおっぱいの深い谷間が覗けている。手を伸ばしてはならないという意識が一瞬でも抜け落ちたなら、その瞬間に理性のタガなど月の果てまでぶっ飛んでいくことだろう。
「別に、そういうのは」
 おっぱいはすごく好きですけど、などと口走りそうだったのを堪えて表情を保つ。実のところ――幼児プレイ! そういうのもあるのか――という心境だったが。
「あっそう、つまんないわね」
 退屈を隠さない態度は教師としての資質を疑われかねないが、学生からすれば気が楽だ。
 奈緒は指先についたビスケットのカスを擦り落とすと、引き出しから一枚のプリントを取り出した。修学旅行の簡易予定表である。
「で、修学旅行なんだけど……どうなりそう?」
 どうやらこれが本題らしかった。
 王竜戦七番勝負は十月から最長で十二月末まで、一方で高校二年の二学期と言えば修学旅行の時期であり、こちらは十一月十日から五日間の日程で京阪方面を巡る予定となっている。時期が重なることから修学旅行を欠席するかも知れないと、決定戦に勝利した時点で奈緒には連絡してあった。
「第三局が十一月の十・十一日なんで、初日と二日目に被ります。それと前夜祭にも出席しないとまずいみたいで、九日の学校も少し早引けするかも知れないです」
「途中参加とかはどうとでもできるけど、第三局ってどこでやるの?」
「高野山金剛峯寺。本殿に上げて頂いて指すらしいです、そこは結構楽しみなんすよね」
 空海の寺、と言えば日本人なら誰でも解るだろう。高校生の身分としても正しく日本史でやっている範囲であるだけに、響をして人並みの好奇心を抱かせていた。
「和歌山か。丁度良いかな、直で来られるし。宿さえ解っていれば一人で大丈夫でしょ?」
「そこは問題ないですけど……体力的に少し不安で」
 行きたくないという訳ではなかったが、響は参加を見送るつもりでいた。自身にとっても未体験となる二日制対局の直後となるのだから、精神的な面で即座に高校の友人と騒ぐ気分に切り替えられるか不安であるし、肉体的にも合流すれば迷惑になるほど弱っているかも知れない。
 そういった点をどのように伝えれば良いかと迷っているうちに、奈緒の言葉は早かった。
「焦る必要なんて無いの。何だったら一日休んでからでも、四日目の朝から来られるんだから。ね、お願い! 四日目に撮る集合写真、卒業アルバムにも載っちゃうのよ」
 挙げ句ダメ押しするようにそっと手を取られてしまえば、これで墜ちない生徒はいない。若い女教師には生徒を操る魔力が宿っているものだ。そして響も例外ではなく、この魔力には抗えない。
「解りました。ただし、いつ合流できるかは本当に解らないので、頭数把握しなきゃ処理できないようなことは待たずに進めて下さい。別料金払う程度なら構いませんから」
「うわっ……可愛くないことサラッと言うわね。周り引かせるわよ、そういうの」
 打って変わってげんなりした表情で、握っていた手を放り出す。
「プロですから。歪んでてふつう、なんでしょ?」
 言葉通りの歪んだ笑顔で、響はそう応えた。
 それから暫く、クラス内の事柄から私生活での料理失敗談まで、下らない話をしているうちに、いつの間にかかっていたのかBGMはチャイコフスキーピアノ協奏曲第一番――奈緒は当初、この曲をチャイコンと略す癖が抜けきっておらず、チャイと聞いてもインドのお茶しか浮かんでこない響と話が噛み合わなかった――クラシックなど滅多に聞かない響もすっかり慣れた曲である。
「慣れてくると悪くないね、こういう曲も」
「浅井くんも目覚めたか。良いことだ」
 仕事らしい書き物をしながら、奈緒の横顔が嬉しそうに緩む。
「先生はやっぱりクラシックしか聞かないの?」
「んなこたないよ。ドラクエのサントラとかも家にはコンプしてあるし」
「ドラクエって、ゲームの?」
「ドラクエの曲は大学時代の友達にも好きな子多いんだって、割とホントに」
 音大生がゲーム音楽を好むというのも意外なことだと感じながら、コーヒーが切れたのでお代わりに立ち、私も、と突き出されたカップを受け取る。
 サーバーから注いでいると、奈緒がふと書き物の手を止めて言った。
「好きだからやってるんだけどさ、何かしらの目標が出来ちゃうと、やっぱり楽しいだけじゃなくなるのよ。好きな楽曲を聞いてるはずなのに、現実思い出して嫌になったりね」
 自身のカップにはミルクを一つ、奈緒のものには角砂糖を一つ。
「それでドラクエっすか?」
 ありがとうと受け取った奈緒からは、一瞬、しかし確かに憂鬱な色が見えた。
「そんな感じかな……勿論それだけじゃなくて、単純にドラクエが好きなんだけどね」
 両手で抱えるようにしたカップで口元を覆う、或いは表情を隠したかったのか知れない。
 耳に感じる煌びやかな旋律からは、この華々しい音楽を紡ぎ出す人々が外部には理解し難い葛藤を常に抱え込んでいることなど、到底想像も出来ないが、目の前で語られた体験はその世界で戦ってきた人間のものに違いなく、この矛盾、相反する事象は、響の心中に秘められていたとある問いを浮かび上がらせた。
「先生にとっても、やっぱりコンクールとか大きな舞台って特別だった?」
「また突然ね……どうして?」
「何となく、最近周りに置いてけぼり食らってる感じがして……将棋みたいに勝敗がつくものでもないんだろうけど、参考までに聞いておこうかなと」
「置いてけぼりって?」
「タイトルに勝つことだけが目標みたいな言われ方されると、どうして将棋を指しているのか、解らなくなりそうで」
 結局は世間に迎合した見せ物としての指標に過ぎない。解り易い図式の為に商業として作られた制度に過ぎない。将棋の本質とは何の関係も無い。むしろ将棋というものを檻に閉じ込めているのと同じではないか。称号を得たからといって、不敗の頂に辿り着ける訳ではないのに。――ここ最近、そんな考えばかりが浮かぶ。
 しかしそれは他者の過去に踏み込むにはあまりに不用意な言葉だったか知れない。舞台に上がることを認められた人間が、その権利を得られなかった人間に尋ねる。この構図の残酷さを響は失念していた。奈緒という大人の優しさに甘えてしまっていた。
 響の問いに、奈緒は、なるほどねと呟くと、背もたれをギシギシと軋ませながら伸びをした。そのままの姿勢で、宙に向け大きな息を一つ吐き、天井の蛍光灯をぼんやりと眺めながら、
「私じゃ参考にならないんじゃないかしら。規模が小さいのではそれなりに賞貰ったりもしていたけど、大きな舞台にはほとんど縁が無かったから」
でなきゃ高校教師なんてやってる訳がないでしょ、と続けた言葉は、生徒に向けるものとしてはあまりにも直球である。
「一回だけ、学生の頃に出た国際コンクールでファイナルに残ったけど、私の場合は浅井くんと正反対で、欲が出てダメだった……だから本音を言うと、浅井くんみたいな考え方ができる人種を見ると、羨ましいし、その何倍も妬ましい」
 奈緒はそう言うと、恥じらいと憂鬱の混じり合った表情を隠すような、作り笑顔だった。
 響は、自身の下らない青さで必要のない恥を掻かせたことにようやく気付き、悔やんだ。
「ダメだったお陰で教師になってくれたなら、俺たちは有難いっすけどね」
「何よ……ひょっとして口説いてる?」
 一転して軽い調子になる辺りが本当に良い教師、優しい大人だ。
「だとしたら、どうなの?」
 まけじと乗ってやる。
「年収幾ら?」
「把握してませんけど、今年は八桁行くんじゃないかな」
 税金などの関係は全て立花家を通した会計事務所に任せてあり、響自身は去年幾ら稼いだのかも把握していない。高校生の身分で稼ぐ額としては冗談のような数字だろうという程度にしか考えたこともなかったが、今年に関しては王竜戦という高額棋戦を勝ち抜いた事もあり、去年一昨年に輪を掛けてとんでもない額になっていることは確かだ。
「高校生で年収八桁か……むむむ」
「何がむむむだ。恋愛と金を秤に掛けるなよ、ダメ教師」
「まだまだ、プロと言ってもガキンチョか」
 馬鹿な会話をしながらも、響はこの担任に心から感謝している。







           八の二

 新学期が始まって間もなく、いつものように立ち寄った立花家で慈乃を相手に持ち時間一時間で指していた時のこと。普段なら研究の間は決して入ってこない立花の母が突然顔を見せ、呼び出されるままに大きな鏡台の置かれた部屋に着いていくと、部屋一杯に強烈な樟脳の匂いが立ちこめていた。
 箪笥の整理でもしていたのだろうかと考えていると、服を脱いで頂戴、と言われドキリとする。
 慌てて振り返ると、立花の母は平然とした表情で、
「ああ、パンツは履いたままで良いからね」
「何……どういうこと?」
「響くん、タイトル戦の和服持ってないでしょう」
 言われてハッとした。タイトル戦は一般的に羽織袴で臨むものだが、響はきちんとした和服という物を用意していない。
「今から仕立てたんじゃ間に合わないから、鑑連さんのお古になっちゃうけど」
 狼狽し動きのぎこちない響から学生服をパッパと剥ぎ取ると、箪笥から出したばかりなのだろう、部屋中に漂う匂いの元となっているらしい、深い紺色の長着を肩に掛け、丈を測っていく。
「うん、直せば大丈夫そうね。鑑連さんの身体が大きくて良かったわ……初めてタイトルに挑戦した時に着ていたのよ」
 縁起が良いことを伝えたいのだろう。嬉しそうな声色で言いながら、余りの部分を軽く針で仕付けると、早業師のように回した帯をギュッと絞り、流れる手つきで袴を取り出す。
「おじさんに悪いし、いいよ。安物なら今からでもどうにかなるでしょ」
 想定していなかった事態だけに響も戸惑いを隠せなかった。量販店のジーンズならともかく、鑑連の和服など、目玉が飛び出るような額であることは間違いない。
「適当に買った着物なんて一目で解っちゃうんだからダメよ、恥ずかしいでしょう」
 しかし立花の母はそんな断りの言葉などまるで耳に入らぬ風に、響の片足を膝に乗せるようにして抱えると、袴まですっかり履かされてしまう。せかせかと動き回っている割に息切れ一つ見せず、涼しい顔で作業をこなしていくその様は、まるで着付けを極めているかのような、見事な手際だった。
「それに、これを直してやれって言ったの、鑑連さん本人なんだから。着てあげて頂戴」
 袖を通した、長着よりも一段と濃く、さながら深海の深みがある留紺の羽織に桐箱から取り出した紐を掛ければ、
「本当に喜んでたのよ。挑戦が決まった時なんて、千代の前だって言うのに、慈乃と二人で大はしゃぎして」
眼前の鏡には、羽織袴をすっかり着こなした青年の姿が映っている。
「うん、似合ってる。和服の似合わない将棋指しは一流になれないって言うけれど、これなら古今無双にだってなれるくらいよ」
 藍より出でて藍より深い紺という色。鑑連がそこに込められたものまで意図しているのかとは定かでなくとも、果てない深みを有する色合いを更に突き詰め、染め屋をして留めと言わせた羽織の色は、盤上に広がる無限の宇宙をどこまでも潜り行きその果てを見んと欲する棋士の宿業を暗示するかの如く、求道者の身を包むにはこの上なく相応しい。
 響自身、着ているだけで勝負師としての精神が研ぎ澄まされていくような感覚を確かに感じていた。身体に張り付くような洋服とは異なり、肉体の自由がしっかりと確保された緩い構造。しかし精神は反対に、腹に締めた帯の堅い感触で自然と引き締められる。どうして今までの対局で和服を着ていなかったのだろうと感じるまでに、和服は将棋に必要な道具かも知れなかった。
 少年が新たな武器を手に入れたような心地で、響は内心の興奮を抑えきれずにいる。
「鑑連さん、内弟子を取ったことがないから、響くんをそういう風に見ているのかもね」
 立花の母の呟きを聞いて、
「将棋はド下手クソの癖に、勝手に弟子扱いされたんじゃたまらないよ」
頬を赤らめながら溢れた言葉は、鏡に映る自身を見つめる少年のような瞳を知れば、喜び余ってのものであると明らかである。
 珍しく子どものような照れ隠しを見せた響に、立花の母も笑いを堪えるのに必死だ。


 夕食の頃になると呼ばれた訳でもないのに当然の如く銀乃助が現れ、六人で食卓を囲む。慣れた光景のはずが、今日は響の様子がおかしかった。始終そわそわとして落ち着かない風で、生娘のように口をもごもごとさせたかと思えば、結局何も言わずに終わるのだ。
 そんなことを何度も繰り返しているうちに、とうとう銀乃介がキレた。
「タマでも落としたのかこのカマ野郎は。言いたいことあるならはっきり言え」
「ご飯食べてるときに汚いこと言わないでよ、変態」
 慈乃が脇から入り込むと、
「うるせえ、コイツがタマ落として困るのはお前だろうが」
「ほら、そうやってすぐセクハラする。そんなんだから響ちゃんに先超されるんだよ」
「バーカ、その気になりゃいつでも獲れるから弟分に先譲ってやったんだっつーの」
「王竜は本戦にも出られなかった癖に何言ってんの。バーカ、セクハラオヤジ」
「うるせえチビ。そんなにセクハラして欲しきゃ乳でかくなってから出直せっつーのガキ」
「信じらんない、何言ってんのバカ、バカバカバカバーカ、ハゲろ!」
泥仕合が始まり、
「二人とも、それ以上煩くするなら外行ってやりなさいね」
味噌汁をすすっていた千代が一度目の釘を刺す。これが三度目になると容赦のない平手が飛んでくるので大抵の場合はそれより前に治まる。
 今回も、銀乃介は面白く無さそうな舌打ちを一つ鳴らしたが、泥仕合は切り上げて矛先を響に戻した。
「おい響、お前のせいでこうなってんだ、いい加減しゃんとしろ」
「そうだよ響ちゃん、なんか今日はおかしいよ」
「確かに。響も言いたいことがあるならちゃんと言いなさい、でないとまた煩くなるから」
 そうして三人に追い立てられて漸く、
「着物、有難く頂くよ。助かった」
ぼそりとそれだけ、誰に向けたのかも解らないような言い方だった。
 事情を理解している立花の母が、肩を震わせて笑いを堪えていると、
「ん、そうか……気に入ったなら何よりだ」
鑑連もぼそりと言う。
 高二男子と四十代の中年親父が繰り広げる、思春期真っ盛りできたてホヤホヤカップル的な初々しい会話は、周りで見ている者の背筋を泡立てるのに十分な破壊力を有していた。
「後で扇子もくれてやろう……同じ時に使った物だからな、使えという訳では無い」
「貰えるもんは貰うよ」
 短いやりとりを終えると、二人はまたぎこちなく食事に戻った。銀乃介などはあまりの気色悪さに鼻筋がひきつっている。
「実はね――」
 堪えきれないといった風に語り出した、立花の母からの説明を聞いて、慈乃はいつもの調子で和服姿を見せろと響にまとわりつき始め、銀乃介は俺の時は一番高い物をよこせと騒ぎ出す。
 静かに箸を置いた千代が二度目の警告を発したのはそれから間もなくのことだ。


 夜も更け、響は済し崩しに泊まっていくことになった。
 縁側で月を眺めながら鑑連と二人杯を交わす。
「畑違いの人間にくれて良いのかなって気がしてさ。おじさんのなら、碁打ちで欲しがる人もいるだろ、お弟子さんとか」
 響の手には譲り受けた扇子がずしりと重い。決して開くことはなく、掌に感触を馴染ませるように何度も握りなおすだけ、何が描かれているのかも知らされていない。鑑連曰く『勝負所で開いて見ろ。まじないがかかっている』とのことで、その言に従うつもりだ。
「碁はなあ……扇子はともかく、今はタイトル戦でもスーツの方が一般的だ。和服なんて私と他に二、三人しかいない」
 その点では娘二人が将棋に行ったことも悪くなかったな、と続けたのは普段から和服党の人間としてなのだろう。
 近いようで知らない世界、響にとっては意外な事実だった。
「知らなかったのか」
「だって、碁打ちって言ったらおじさんのイメージだったし」
「私の場合、わざわざスーツを着て対局する方がおかしいからな」
 愚痴という風ではなく、単純に合わないからスーツを着ないという口ぶり。鑑連は普段から和服党の人間なので、碁を打つ為にわざわざスーツを着る必要も無いということだ。
「とにかく着物のことは気にするな、お前より他に託せる人間が思いつかなかっただけだ。私ほどに強くなりそうな若手というと、今の碁界には見当たらん」
「よく言うよ」
 本気か洒落か、響には判断がつきかねたが、仮に本気であったとしてもその発言を許される人物である。
「響の才が碁打ちとしてのものであったら、こうして酒を交わすことすら無かったろうが」
「誉め言葉として、有難く」
 互いに注いだ杯を、月に掲げてから一息で。
 今、酒を交わすこの二人の姿を知らぬ誰かが眺めたならば、それはどのように映るだろうか。親子のようであり、年の離れた兄弟のようでもあり、戦場で馬を並べる唯一無二の友のようでもある。盤も年も違えども、棋士というものの、勝負師同士の奇妙な絆が二人の間には確かに存在していた。
「おじさんは、何の為に打つ?」
 響がそれを尋ねたのは、明確な意志を持ってのことだった。鑑連ならば、この偉大なる棋士であれば、自らの抱える矮小な悩みなど即座に看破して笑い飛ばしてくれるだろうと信じていた。
 一呼吸置くように、ずいと杯を出して要求した鑑連の、注がれた酒を一つ舐めてからの答えは、
「タイトル挑戦が決まってからふて腐れるのは、大抵、うまく行き過ぎている若造だ」
盤外の慧眼冴え渡り全て見抜いたことを示している。
「確かに下らなく思える事もあるだろうが、騒ぎたい連中には騒がせておけば良い。そのお陰で金が転がり込むのだから、私たちは碁を打てる、将棋を指せる」
 その通りだ。生きて行く為には、金が、社会の存在が必要なのだ。
 ――自らの為だけに将棋を指していると気が付けば口座に貯まっているもの、それが響にとっての金である。金という問題を意識したことのない青年が社会との折り合いに悩むのは、むしろ当然のことだろう。究極、自らの道を歩むだけで自然と金が入ってくるような環境で若くから育ってきた響には、社会という存在の重要性が根本の部分で実感出来ずにいるのだ。故に、プロ制度が成立する前提となる条件、即ち出資者の存在を、ただただ疎ましいものとしてしか受け止められず、事によっては将棋という物を食い物にする巨悪でしかないと考えることまである。
 ――自身が抱えるこのような精神構造、それ自体は、響もとうに理解はしている。理解した上で、それでもなお必要性の実感を得られないことが、響にとって処理出来ない問題となって表れているのである。
 無言のまま応じない響に、鑑連は言葉の方向性を変えた。
「安吾を知っているか」
「作家のことなら、名前だけはね。読んだことはないよ」
 昭和の無頼派と呼ばれる文豪だったか。将棋に関する作品を幾つか残していると聞いているが、響は小説というものが嫌いなのである。
 文章を一々目で追うのは、なんというか面倒臭い。
「私があれを読んだのは中学生の頃だったか、将棋に関する文章でな……やつめ、名人戦を物書きの玩具だとぬかしやがった」
 膝を立てるようにして、杯に残った酒をぐいと煽りながら、普段の鑑連からは少々思い浮かばないような、豪快な作法になっていた。
「私は、当時から碁打ちだったが、身内を馬鹿にされたようで腹が立った。こっちが必死にやっているものを玩具とは何事かと、物書き風情が偉そうに何を言うかと、はらわたが煮えくりかえる思いだった……しかし、少し置いてから考えてみると、立派だった。安吾は立派だった、全くの正論だった。やつは正直に白状した。少なくとも今時の連中のように、偽善がましい恩着せがましい顔をしなかった」
「棋士が、それを認めても良いのかよ」
「認めるも何も、結局そうだ。それが現実だ。外の人間からすれば、碁打ちも、将棋指しも、玩具だ、見せ物だ。
 しかし同時に、奴らが盤に触れない限り、どう騒ごうと思っていようと私たちには何の意味も成さない――そうだな?」
 響はようやく、鑑連の言わんとしていることを理解した。
「たかが碁、たかが将棋。棋士なんてものは、世間からすれば高級乞食だ。乞食をさせて頂いているのに、この上理解されようだなんて、烏滸がましい話だろう」
 乞食という言葉をここまで洒落た言い回しだと感じるのは初めての体験だった。言葉の意味が反転していく爽快感が全身を駆け抜けていく。
「藝術宗教そして棋士、どれもこれも勿体ぶって語られはするが、その実は乞食の行いでしかない……真に生を悟れるのは古今東西に乞食のみというのも、全く不思議な話だな」
 ここまで世の中を食った乞食では、最早乞食とは呼べまい。
 そして響は、世間というものを捨てきれずにいた自分を悟った。
 結局、世間に理解されようとしている自身こそ全ての苛立ちの根源だった。だから連中の騒ぎぶりに心を乱されるし面倒臭く感じもする、連中の低俗な言葉にも正しいものが混じっているような気がしてしまうから、取るに足らない一々に耳を傾けてしまう。
 しかしどうだ、『どうせ連中は盤に触れられない』と、それさえ気付いてしまえば、一切は風前の塵!
 鑑連のこの教えは、響の抱えていた青さを全て吹き飛ばした。これまで通りに一つ一つを勝っていけば、自分自身の棋道を歩いて行けば、それだけで社会はさながら猿山の猿に餌を与える観光客の如くめぐんでくれるのである。
 棋士とは乞食なのである、見せ物なのである。そしてそこに何の問題があるだろう。
 ――そうして響は躊躇うことなく鑑連の言葉を受け容れた。その言葉を平然と受け容れられる存在をこそ、世間は狂人と呼ぶことなど、欠片も意識しないままに。
「いやあ、スッキリした。よくもまあ、聞きたいところを的確に答えてくれるもんだね」
 腹の底からこみ上げるどこまでも愉快な感情を隠すことなく、手酌で注いだ杯をぐいと飲み干して、声を上げて笑う。気付いてしまえばどうして今までそこに目をつけなかったのかと思ってしまう程に単純なこと。たとえば、切らなければならない大駒を切った時の心境とでも言うのか、切るまでは内心ビクビクしているものだがいざぶった切ってしまえば本当にスッキリするもので、そういう後の酒は本当に美味かった。
 二つ目をまたも手酌で注ごうとすると、鑑連に徳利を奪い取られ、
「お前によく似た若造が、一昔前にいたんだよ」
という言葉と共に、両手を添えて受ける。
「そしてその若造が年を重ねて知ったことを、もう一つ教えてやろう」
「何さ」
「確かに、自分の棋道とは何の関係も無い存在には違いないが、自分の結果で喜んでいる身内の姿というものは、案外と悪くないものだ……とまあ、その程度に考えれば良い」
 まだ若い棋士の髪に手を置いて、そっと撫でるようにしながら、その様はどの師弟にも負けぬ情が溢れている。
「乞食でも、全てを捨てる必要など無いのだ。私たちの道を心から理解し応援してくれる人種も世の中にはいる。そうした人たちには、ただ道を行くことこそが恩返しになる」
「めぐんで貰って、その上善人ヅラ出来るなんて、棋士ってのは良い身分だなあ」
「だろう。俺もお前も、全く良い遊びを見つけたものだよ」
 と、苦労を知らぬ訳では決して無い、血に濡れながら修羅の道を歩んできた二人の天才は、自らの業を堂々と背負った上で威勢良く笑い合った。
「おじさんの才能が将棋に向いてりゃよかったのにな」
「こうして酒が呑めなくなるぞ?」
「その分指せりゃ釣りがくる」
「負け通しになってしまうぞ?」
「冗談きついね、酔ってるんじゃないの」
「どうも……私はもう少し謙虚だった気がするんだがな」
 響はぼやきを聞きながら、浮かべた月を呑み干した。






      八の三

 十月中日。
 奥州は松島瑞巌寺の協力を受けて行われる王竜戦第一局、前夜祭は同所から徒歩十分の距離に位置するホテルの大広間を借り切って目下華やかに行われている最中であり、響は多くの愛棋家や報道陣に囲まれながら、ある時はインタビュアーにマイクを向けられまたある時は記念写真をねだられ、その騒々しい催しは、以前であれば苛立ちの元となっていたのだろうが、鑑連の教えを知った今となっては取るに足らない。一つ一つ、ほどほどに頭を下げておくばかりである。
 ――既に終えた対局室検分では、今回の挑戦による昇段を完全に失念しており、盤への揮毫の際に『六段浅井響』としてしまう大失態を犯したが、それにもまして響の字の汚さが話題となってしまった。立会人以下関係者が揃って絶句する小学生レベルのミミズ文字が当人にとっては会心の出来なのだからどうしようもない。高校生挑戦者という話題性だけでやってきたスポーツ新聞の記者などは、良い見出しが出来たとこの珍事を喜んでいたが、響が関係者一同から大目玉を食らったことも自然な流れである。この対局が終わったら鑑連辺りに巧い字の書き方を教えて貰わなければならなくなったと、精神的に落ち込みながら、白扇への毫は開き直った荒々しい字で『真』の一字、対する竹中現名人は如常から『如』の一字を取って応じてみせ、こちらは見事な合作となった。――
 フラッシュ責めが一段落ついてから会場の隅に逃げ、他の参加者が持っているグラスの中身を羨ましく眺めながらも礼装の学生服はごまかしようがなく、未成年らしくオレンジジュースを舐めていた時のこと、
「大丈夫ですか?」
優しく気遣われ振り返れば、声の主は竹中現名人であった。
「あ……はい。有難うございます」
 気配無く背後に立たれていた驚きよりも、竹中重治から話しかけられたという事実の方が響には大きい。
「今をときめく棋界の新星が挑戦者ですから、世間の注目も一際ですね」
「そんな、名人の人徳でしょう」
 竹中は棋界における有数の人格者としても有名であり、多忙なスケジュールを縫うようにして積極的に普及活動に尽力している点や、一般メディアからの取材も棋界の宣伝の為にと積極的に受け入れるその姿勢は、正に棋界の良心そのものである。
 謙遜という訳でもなく返した響に、
「どうやら、小寺さんから聞いていた通りのようだ」
突然出てきた小寺の名前。竹中と小寺は同い年であり、小学生名人戦などでも何度も顔を合わせた、言わば幼馴染みの関係でもあることは有名な話である。それほど昔から関わりがあったのにどうしてこれほどの差が出来たのだろうか、目の前の竹中の整然とした振る舞いを見ていると小寺のおっさん具合が悩ましく思い出される。
「ちなみに、何と?」
「とにかくかわいくないガキだと……随分気に入られているようですね」
 にこやかに頬笑まれるが、響としては有り難く受け止めるべきか憤るべきなのか、苦笑しか返せない。
「私はもう失礼するつもりです。浅井七段も、明日に疲れを残さないようにして下さい」
 去り際に残した一言は流石というべきか、内に秘めた昂ぶりを言外に伝える静かな殺気が滲んでいた。

 会場を後にした竹中を見送って一分と経たないうちに、
『おまんこ! おまんこ!』
廊下からとんでもない奇声が上がり、和やかだった会場の雰囲気が一転した。
『おいねえちゃん、おまんこ何色だ、見せてくれんか。ワシとおまんこしよう!』
 なおも叫び続ける声に、事情を察知した関係者が慌ただしく大広間から飛び出していく。
『老い先短いじいさんがこんなに頼んでいるんだ、おまんこくらい良いじゃないか』
 良いわけが無いでしょう、と止めに入った先輩棋士たちの怒声。
『やかましい、ワシはおまんこ舐めたいんだ。お前の女房連れて来い、おまんこ見せろ』
 徐々に激しくなっていく言動に反比例するかのように、会場のざわめきは、気が付けば収まっていた。元より関係者と愛棋家しか参加していない場であるから、この騒ぎの大元が誰であるかを察したのだろう。滅多に表に出るような沙汰ではないが、その実、棋界の内側では恒例行事なのである。心得た客などは『秀行先生の生おまんこが聞けた』という感動の呟きさえちらほら、めでたいめでたいと手を叩いてはしゃぐような人間まで居る。
 すったもんだの大捕物さながらに大広間に引きずられて来たのは、
「重治はどこにいった。アイツが言えば大抵の女はおまんこ見せるだろう、連れて来い」
二一世名人にして竹中重治現名人の師匠、二階堂秀行その人である。一体どれほど呑んだというのか、年相応にしわくしゃの顔は茹で蛸のように赤く染まり足下は絵に描いたような千鳥足、力の無い白髪はひどく乱れており、さながら浮浪者のような風体である。
「おいこら、おまんこ見せろ。おまんこおまんこ」
「お子様連れの方もいらっしゃるんです、いい加減にして下さい!」
「うるせえ! 馬鹿野郎! おまんこ見せろ!」
 叫んではいるがその先に特定の女性が居る訳ではない。どうやら本当に女性器が見たい為に叫んでいるというよりも、ただ淫語を連呼することが楽しいだけの、そういう言葉を辞書で見つけると赤線を引いてみたくなるような、小学生的発想であるらしい。
「重治はどこにいる。しげはるー、おまんこ見せろー!」
「もうお休みになられました。大体あの方がそんな馬鹿なことを手伝う訳が無いでしょう」
「畜生おまんこ、おまんこ弟子め。破門だおまんこ、おまんこで破門だ、おまんこ破門だ」
 聞いているだけでおまんこがゲシュタルト崩壊を起こしそうだ。
 今にしてみれば、竹中は絶好のタイミングで場を離れた形となっていた。神速の寄せと謳われフツと音を立てるが如く相手玉を断ち斬る終盤はかの香取の御神体にも喩えられる現名人のこと、盤外でもこの展開を読み切っていたのではないかとすら思われる。
 初めて実物を間近に見た衝撃で呆気に取られていた響に、
「浅井七段も早くお休みになられた方が……絡まれたら厄介ですから」
いつの間にか脇に寄ってきていた連盟の職員が忠告した。職員から腫れ物扱いされている名誉理事というのも無茶苦茶な構図だが、響としても全く同感である。
 それじゃあ失礼します、と人混みに紛れるように広間を立ち去ろうとすると、現役時代は異常感覚とまで評されていた二一世名人その人、妖刀の切れ味は未だ衰えず会場に漂う僅かな気の変化まで読み切ってみせたというのか、
「待てい、そこのおまんこ!」
正に逃げださんとしていた響の背中に突き刺さった。
「シュウコー先生、彼はダメです。挑戦者なんです、どうか勘弁してあげて下さい」
「知るかおまんこめ、すっこんでろ」
 懇願するように制止する先輩棋士たちの抵抗も虚しく、どかどかと近付いて響の眼前に立ち塞がるように仁王立ちすると、その人柄からは意外に感じられる、昭和の人間らしい小柄な体躯で、
「幸子さん元気か」
それが第一声――浅井幸子、祖母の名である。
「最初に会ったのは五、六十年も前だが、そりゃあ美人でなあ。今でもワシは幸子さんのおまんこを舐め損ねたことが心底悔しい」
「え……はあ……元気です」
「おまんこ賭けてやるって言われたから気合い入れて指したんだがなあ、ああ畜生」
「は……え……誰が?」
「お前のじいさんに決まっているだろう。それ以外に誰が賭けられる、このおまんこ野郎」
 何という賭けをしていたんだと一点、件の蔵将棋は思っていたよりも緩い雰囲気だったのだろうかと二点、そして、在野の真剣師に負けた事を屈辱に思っていないのだろうかという、特に大きな三点目。秀行はあまりに平然と語り過ぎている。
「おまんこ十兵衛のおまんこ孫がおまんこ源太のおまんこ弟子か」
 ギョロリと老いに窪んだ瞳で覗き込まれると、現状の振る舞いからは想像出来ないほどの、若造一人ひねる程度であれば往年の残滓で十分と語っているかのような、堅く太い芯を感じさせる眼力である。
「精々おまんこ共に恥を掻かせるなよ、おまんこめ」
 重く低い声で呟かれたのは、最早何もかもがおまんこ一色になっている、訳の解らない言葉だったが、しかし、伝えんとする内容だけは理解できた――尤も、祖父や六角に恥を掻かせないようにという心懸け、それ自体は共感するはずもないのだが。
 秀行は響から離れると、制止する関係者を引きずるようにして、再びおまんこおまんこと叫び散らしながら大広間を出て行った。
「秀行先生がこんなにあっさり引き下がるなんて、珍しいですね。何の話だったんです?」
 近付いてきた新聞社の将棋担当は、面白いネタを見つけたとでも言いたげな表情だ。
「師匠のことで、少し」
「なるほど……今回はお互いの弟子による新時代の代理戦でもある訳だ」
「そんなに大袈裟なことでは――」
 そもそも六角は現役なのだから勝手に新時代を始められても不愉快だろう。あまり過激に書かれては困ると釘を刺そうとした響だったが、
「――そう言わないで下さいよ、外野はこういうので盛り上がるんです。六角先生と秀行先生が争っていた頃は棋界の黄金期ですからね。新世代による黄金期代理戦、頂きました」
新聞ヤクザとはよく言ったもので、記者という存在はベテランになるほどこちらの言い分を聞き流す術にも長けている。軽くいなされ逃げられてしまった。
 困ったものだが気にした所で疲れるだけと割り切って、響は広間を後にした。








      八の四

 付き添いに来て貰った立花の母に着付けて貰い、監視するかの如く張り付いている取材カメラと共に本堂へ向かうと、そこにも既にカメラを構えた記者が溢れており、対局直前になっても軽く二桁はあるだろうカメラのレンズを一斉に向けられる気味悪さには、覚悟を固めたはずの精神でも、流石に少なからず動揺を覚えそうになる。
「笑顔は要らん、適当に礼だけしておけ」
 ぼそりと耳打ちしてくれた立会人はA級八期在籍・王竜一期の経歴を持つ伊達重村九段、現在は響と同じく順位戦B級二組の棋士である。
 大先輩からのアドバイスに従い、一度頭を下げてからは眩いフラッシュの存在まで意識から消し去った。
 遅れて現れた竹中と駒を並べ、伊達九段の取り仕切りで行われた振り駒の結果は後手を引き、そして迎えた午前九時丁度、礼をしてから一分ほど目をつむって間を整えた竹中が初手7六歩と指す頃には、盤前はいつも通りの静謐を取り戻していた。

 竹中からしてみればこちらはタイトル初挑戦の若手、場に慣れないうちは急戦含みの手など指してこないとくくっているはず。ならば、後手番では小寺にやられた例の中飛車で揺さぶってみようと決めていた響の手は、
 ――先7六歩、後3四歩、先2六歩、後5四歩、先2五歩、後5二飛、先7八金――
こともなげに7八金型と堅さを選ばれ、どうやら流れは穏やかになりそうだった。
 響としてもまさか本気で動揺させる意図があった訳ではなく、自身がどの程度舐められているか計っておこうという程度のもの。ならば落ち着いた流れも望むところ、こちらを舐めている様子は全く無いらしいと知れただけで十分である。
 妙な緊張もなく体調も悪くない。普段通りの調子で臨めているはずであったが、しかし違和感は盤外から表れた。
 二日制・持ち時間は互いに八時間という長丁場においては、初日は駒組みのみで終わるということも一般的であるが、実際に指してみると、読みの量が増え過ぎてしまう、手が見え過ぎてしまうような感覚があり、変化の少ない序盤の局面に何十分と向き合っていると、今まで経験したことのないような勢いで肉体と精神の双方が削られていく。
 普段のリズムを崩すことの方が良くないと、極力無駄な読みは省くように心がけて手を進めたが、竹中はさすがに棋界の第一線で争う風格か、少なくとも表情は、一日制棋戦のそれとまるで変わった様子もなく、余裕すら感じさせる時間の使い方で淡々と指していく。
 ――後6二玉、先6九玉、後7二玉、先4八銀、後5五歩、先2四歩、後同歩、先同飛、後3二金、先6八銀、後8二玉、先2八飛、後2三歩、先4六歩、後3五歩、先4七銀、後7二銀、先6六歩、後5四飛、先6七金、後4二銀――
 まで二八手、竹中の手番で封じ手時刻を迎え初日は終了。
 持ち時間に関しては響が一時間ほど多く残しているが、それはむしろ経験不足の表れとするべきだった。

        ○

 二日制における実質の持ち時間は『プラス一晩』とされるのが正しい。ホテルに戻ってから、夕食を取る間も、入浴の間も、部屋で布団に寝転んでからも、頭の中で半強制的に行われてしまう読みを止められないからだ。
 勝負の為には休まなければならない時間であるとは解っていても、棋士にとって、指し掛けの盤面という存在は否応なく極限の緊張状態を強要するもの。しかも明日一番の正しい局面を知っているのは唯一封じ手をした竹中のみであり、響が幾ら先を読んだところでその半数以上は確実にムダになるのだから、考えれば考えるだけ消耗する一方だ。
 ――封じ手を相手に渡してしまったことが良くなかったのか。こちらの封じ手であれば、明日一番の局面さえ解っていれば、もう少し楽であったかも知れない。
 そんなつまらない盤外戦略を浮かべてしまうこと、それ自体が既に響の若さを浮き彫りにしている。
 このままではいけない。
 言いようのない不安に駆られ、気分転換用に持ち込んだ漫画本を取り出そうとトランクを開けると、見覚えのない短冊が一つ差し込まれていた。
『好手は盤前でのみ見える』
 まるで書の大家がさらりと書き捨てたような、気負いのない達筆である。いつ入れたのか定かではないが、荷造りは立花の母にも任せていたから、鑑連のものに違いない。
「エスパーかよ……ったく」
 正に今この状況を見透かしていたかのような助言に独りごちながらも、そこには松島に入ってから初めてとなる、心底からの息を吐いている自身がいた。先人からの一言が何よりも頼もしかった。相手が何を指そうともその場で答えを見出す、即ち普段通りの姿勢で臨めば良いだけなのだと勇気づけられた。
 途端、堰を切ったように眠気が溢れる。その眠気こそ環境に適応した証である。
 最早それ以上の思考を重ねることはなく、響は電気を落として布団に潜った。

        ○

 明けて二日目、立会人の伊達九段によって開封された封じ手は5六歩より。
 あけてみれば何のことはない平凡な手、やはり昨晩の選択は正しかったと、受ける手筋にも自信がつく。
 ――先5六歩、後同歩、先同金、後5一飛、先7八玉、後6四歩、先5八金、後5三銀、先6七金、後5四銀、先9六歩、後6三銀上、先3六歩、後7二金、先3五歩、後7四歩、先5七金引、後5五歩、先7七桂、後7三桂、先3四歩、後9四歩、先3七桂、後8四歩、先3八飛――
 千日手が見えているが、玉型ではやや勝るも元より後手番の響には拒否する理由がない。
 ――後4二金、先2八飛、後3二金、先3八飛、後4二金、先2八飛、後3二金、先3八飛、後4二金、先2八飛、後3二金――
竹中も躊躇う様子を見せずに淡々と千日手に合意、昼食前に六四手までで成立した。
 双方残り持ち時間に一時間を加えての即日指し直し局は先後入れ替わり響の先手となる。
 ――先7六歩、後8四歩、先2六歩、後3二金、先7八金、後8五歩、先7七角、後3四歩、先8八銀、後7七角成――
 昼食休憩に入る直前での角換わり、休憩中に午後一番の手で悩まされる必要がないことは有難い。

        ○

 境内に用意された休憩室には、宿泊しているホテルに前もって注文した食事が運び込まれているのだが、響は自分が何を注文したのか覚えていない。だから、もしかしたら注文していたのかも知れないと、その可能性は捨てきれなかったが、しかし流石にこんなものは頼まないはずだ。
 休憩室に入った瞬間から、食卓の上に鎮座するセンチ単位の分厚いステーキを見て、響は言葉を失っていた。普段であれば喜んで食すのだろうが、体力が磨り減っている現状で胃に押し込むのは相当な重労働である。
「えっと……俺が頼んだんですっけ?」
 料理を運んで来たホテルの女性職員に尋ねると、まだ二十代だろうか、学生の雰囲気が抜けきっていないその女性は、申し訳なさそうな顔で首を振った。
「こちらにお任せ頂いた形だったのですが……その、シェフが、地元の和牛を是非食べて頂きたいと。開催が決まって以来ずっと張り切っていたので」
 周りは止めたんですが、とでも言いたそうにしている瞳が辛い。
「やはり対局中の食事でステーキは……お辛い、ですよね?」
「いえ、そんなことは。若いので、平気です」
 気を取り直して、極力軽く答えた。元はと言えばハッキリ注文しなかった自分が悪いのだから、用意して貰った料理に気に食わない顔を見せるなどという態度は絶対に取りたくない。
「本当にご無理はなさらないで下さい。何でしたら、今からでも別のものを――」
「――いえ。本当においしそうなので、見たらステーキの気分になりました」
 席に着き、頂きますと手を合わせフォークとナイフを手に取る。注意を払って用意してくれたのだろう、ホテルから運ばれてきたはずなのにまだ湯気があがっている。
 肉を一口大に切り分けている最中、ふと思い浮かび尋ねると、
「あれ……昨日は何を頂いたんですっけ?」
「サンドウィッチでした。昨日はシェフも納得してくれたので」
なるほど、やはり昨日は無難な食事を取っていたらしい。昼食の記憶が無いほど消耗していたのも事実だろうが、流石にこんなステーキを食べていれば忘れることもないだろう。
「ディナーで満足して頂こうと思っていたようですが、昨日の夜は浅井七段も竹中名人も、やはり対局でお疲れだったようで、ホテルのレストランにはお見えにならなかったので。もうこんな機会は無いかも知れませんから、焦ってしまったのだと思います」
 言われてみれば、昨日の夕食は外に出たくないからと部屋でコンビニのおにぎりか何かを食べたような気がする。責任を感じる必要も無いのだろうが、話を聞いてしまうと申し訳なさのようなものを感じずにはいられない。
「本当に将棋が好きなシェフで……家でも、ずっと将棋ばかりなんです」
 切り分けたステーキを一つ口に放り込みながら――疲労のせいか舌がぼやけてしまっているが、間違いなく旨い。対局中ではなくプライベートで食べたかったと心底悔やまれる――目で問うと、父でして、という短い答えと共に、グラスに水を注いでくれた。
「私、妊娠しているんです」
「へえ、それはおめでたい」
「まだまだ先なんですけどね。今から孫に将棋教えるってはしゃいじゃってます」
 それからふと、世間話の笑顔の中に真剣な表情を覗かせて、
「将棋って、どうやったら強くなるんでしょうか?」
どうせ覚えさせるなら強くしたいのだろうか、祖父を除けば誰一人として将棋を知らない家庭で育った響にしてみれば意外な反応である。
「うーん……本人が面白いと思えるかどうかが大前提ですけど、とりあえず実力つけたいって話なら詰め将棋ですかね。一日一問でも、やればかなり違いますよ」
 普及イベントなどでも定番の質問だけに、答え慣れていた。
「浅井七段も、そうして強くなられたんですか?」
「自分の場合は、少し環境が特殊だったので……参考にならないと思います。ただ、詰め将棋は今でも、習慣ですから」
 そうして、軽い会話をしながらの食事を終えると、休憩時刻はまだ三十分も残っているだろうか。食器と共に下がろうとする彼女が、おずおずと申し訳なさそうに筆ペンと白扇を取り出して、
「あの……もしよろしければ、一筆お願いしてもよろしいでしょうか?」
こころなし震えた声だった。
「休憩中ですし、問題無いですけど……字は、本当に汚くて。良いですか?」
「そんな、是非お願いします」
「……お父さんへのプレゼントで?」
 こくりと頷く姿が、これから母親になるというのに妙にかわいらしい。昼食を懇切丁寧に世話してくれた相手の頼みを断るはずもなく、白扇と筆を受け取って、
『絶品』
と、見栄を張って形を整えようなどとは考えず、思うままに感謝の念を込めて走らせた。
「有難うございます、絶対に喜びます」
 はしゃいでいる彼女に、
「出来れば、料理のお礼に無理矢理押しつけられたってことにしておいて下さい。その方が喜んでくれる気がするので」
軽く注意を――彼女の父が本物の将棋ファンであれば、娘の純粋な行動にも責任を感じてしまうかも知れない――添えておく。
 部屋の表まで見送りに出ると、
「あの……最後に」
「はあ、何でしょう」
「子どもの名前を、是非浅井七段の名前から頂きたいのですが、よろしいでしょうか?」
とんでもない事を言われ、これはさすがに返事を躊躇う。今まで様々頼まれごとをされた経験はあるが、名前をくれと言われたのは初めてだった。響という一文字を持った名前などいくらでもあるだろうし、断る方がおかしいのかも知れないが、気軽に「はいどうぞ」と言えるものでもない。
「お話伺っていたら本当にファンになってしまって……名前の響きもとても素敵ですし」
「まあ……響ですからね」
 断じてギャグで言っている訳ではない。
「旦那さんとよく相談して、その上で決めて下さい。俺の方は構いませんから」
 響の返事を許可と受け取ったのか、
「本当に頑張って下さい、応援してます」
別れの言葉はすっかり破顔していた。
 本当は名を譲れるほど出来た人間では無い、休憩中とは言え対局の最中に非常識な人間がいたものだ――そう思わなかった訳ではない。
 しかし、妙に気合いが入ったこともまた事実。
「乞食と知って謙虚になったか」
 他者の応援を素直に受け入れられるようになった自らの精神、その成長に、小さな感動すら覚えながら、一つぼやき、残りの時間は畳の上で寝転んで休む。

        ○
 ――先同銀、後4二銀、先3八銀、後7二銀――
 後手棒銀か、
 ――先1六歩、後1四歩、先4六歩――
構わず腰掛け銀へ向かうと、
 ――後8三銀、先4七銀、後8四銀――
これではジャンケンで分が悪く、
 ――先9六歩、後3三銀、先6六歩、後4二玉、先6五歩、後7四歩、先6八飛――
対抗する形で飛車を四間へ。既に元と付けるべきだろうが、つい先日までは振り飛車党の末席に名を連ねていた身、四間に振った形は決して虚仮ではない。
 ――後7三銀、先3六歩、後5二金、先3八金――
 素直に銀を引かせたことは良し。一方で金が一枚浮いた形になってしまうが、角交換をしている以上やむを得ない。
 ――後3一玉、先5六銀、後4四歩、先4七金、後4三金右、先3七桂、後5四歩、先6九玉、後5二飛――
 5筋へ飛車を回してきた、千日手局とは打って変わって攻め気が強い。
 ――先7九玉、後5五歩、先6七銀、後2二玉、先8八玉、後9四歩、先6六銀直、後9三香、先6一角――
 銀矢倉に落ち着きここから攻めに転じようかという所だが、6六の銀を突き上げていくにも飛車が目障りである。6一の角から馬を作る流れで5筋から除く。
 ――後6二飛、先8三角成、後9二角、先同馬、後同飛――
 予定通りの流れ。こちらの方が指せているという感覚がある。
 ここで三時を迎え対局室におやつが運ばれてきた。初日に何を食べたのかはこちらも覚えていなかったが、昼食のステーキのようなとんでもない品が出てくることはなく、無難な白桃のゼリー。
 響にとっては本格的な攻めに打って出る前の最後の息継ぎとなるが、じっくりと味わうような真似をしては気まで殺げる。脳の動力さえ補給出来れば良いと、一口で、飲み干すように流し込んだ。
 ――先2五桂、後4二銀、先4五歩、後同歩、先5五銀、後2四歩、先6四歩、後同歩――
 ここですぐに6四銀と捌きに行きたい所ではあるが、6七に歩を叩かれてから5八角と打たれる両取りが痛く、また、金が5六に上がることで中央をより強固にできる。
 ――先5六金、後2五歩、先6四銀、後5五歩、先同銀、後7五歩、先4四歩、後3三金寄、先5四角――
 7六の守りに効かせながら攻めを狙う角。
 形勢は悪くないのだが、7五に突かれた歩から、喉に刺さった魚の小骨のような気分の悪さを感じてしまう。
 ――後7六歩、先同銀、後7五歩――
 この歩は取れない、痛い手だ。
 しかし確かに厳しいが、8一角成なら一手先に飛車取りをかけられ五分と読む。二時間近くの持ち時間を残している響に対して竹中は一時間を切っている点からも、総合すれば形勢はやや有利といった所だろう。
 ――先8一角成、後6二飛、先6三馬、後5九角、先6九飛――
 ふと、竹中の手が止まり、残り時間の大半をつぎ込んだ、三十分を超える長考から指されたのは、
 ――後7七桂――
瞬間、盤に打ち付けられた桂馬がフツと透明な音を鳴らした。
 響の背筋に冷たい物が走った。棋士としての読みではなく、動物としての本能・直感が危険を訴えてくる。
 同桂と跳ねては7五の歩を自ら招き入れるようなもの、同金と取ることは5九の角が当たっており却って危険が増すだけ、であれば角を払う以外に無いが、こちらの飛車が6筋を離れれば同時に馬が殺され相手の飛車を自由にしてしまう。
 どう受けても局面は圧倒的不利を免れない。
 ――先5九飛、後6三飛、先5四角――
 とにかく7六に歩を行かせてはならないと飛車取りを兼ねて受けるも、
 ――後6八角――
絶妙の角。ここで飛車を取り合えばこちらは角が守りから外れてしまいどうにもならなくなる。飛車を上げて逃がすしか無いが、
 ――先5八飛、後8九桂成――
桂を跳ねられ玉を下段に落とすより他に無くなり、7六の歩を止める術がない。
 全てが竹中の掌の上の出来事だった。首を落とされたことにも気付けない、八丁念仏の如き斬られ方で寄せられている。そのあまりの斬れ味は斬られた響がただ呆然とさせられ、それ以外に選択肢が無い、考える必要の無い同玉の一手を指せなくなるほどだった。
 8九に成った桂馬を駒台に拾い8八の玉を下げる、その僅かな動作ですら、震える指先は満足に動かない。震えを堪える為に左の手を添えて指そうとするも、既に首を落とされた肉体は痙攣して固まっている。
 指先に挟んでいた玉将が畳の上に滑り落ちると、二度跳ねて転げた。
 反則ではない。しかしこの時点で既に勝負は決している。
 己の醜態を恥じる余裕すら無く、響は向こうに座する竹中の顔を見た。
 震えを堪えきれない響に構う様子などまるでなく、恐るべき鬼手を指した余韻もまるでなく、ただ悠然と見返される。
 屈辱に堪える暇すら与えられない完敗。
 ――先同玉――
 転げた玉を拾い上げ、盤の上に戻す。それだけで精一杯だった。
 ――後7六歩、先6八飛、同飛成、先同金、後7七銀、先6三飛、後8八飛、先7九玉、後6八飛成、先同飛成、後同銀不成、先同玉、後3八飛、先6七玉、後7七金、先6六玉、後6八飛成、先7五玉、後6三桂――
 七時五三分、まで一〇六手を以て浅井響七段投了。終局と同時に雪崩れ込んできた取材カメラのフラッシュに気付くことすらなく、最後までただ呆然と、魂を抜かれた、人形のような表情。







sage