『片端の男』




 俺には奇妙な悪癖があって、友達と遊んだりなんかすると、次の日に物凄い体調不良に襲われる。今なんかがそうで、ぐっすり眠ったはずなのに、何もしようという気にならない。以前から不思議と小説が読めなくなる時がって、不思議に思っていたのだけれど、ちょっと考えてみてその原因が少しだけ分かった気がする。だからそれを書き留めておこうと思う。
 べつに友達と遊ぶのが嫌なわけじゃない。喋って、笑って、突きあうだけなんだから疲れようもないし、会うのも嫌なやつがいるわけでもない。なのに家に帰ってきて一晩眠るとドッと疲れて、もう愛も情けもないような気持ちになる。なんだかまるで友達に会ったから疲弊したような気持ちになって、無駄に罪悪感も覚えるし、向こうに申し訳がない気がする。それはとても嫌な気持ちだったし、もうこんな気分にはなりたくないな、と思う。で、結局、なぜ疲れるのか。
 友達というのは「外」の人間だからだ、と結論が出た。家族じゃない。家の外にいる人たちで、俺はみんなに会うためには家から出なきゃならない。誰かが俺の家に帰ってきたりすることはないわけだからね。だから必然的に、俺は家の外に出て、「外」の人と会う。ちょっと喋って、家に帰る。そして疲れる。なぜかというと、戦果報告が出来てないんだな、と思った。
 たとえばこれが狩りだとする。俺は狩人だ。家の外に出て、獲物を見つけて仕留める。べつに好きだとか嫌いだとか、殺しだとかそういうことは今は考えない。「外」に出て、欲しいものを獲る。これが「外に出る」ということの目的だ。食い物を見つけるにしても、好きな誰かに会うにしても。
 そして家に帰る。俺は家族に「今日はこんな獲物をとった」という証拠を見せる。家族はそれで納得し、感想を言うだろう。これだけ肉があれば二週間は生きていられる、とか、こんなに大きな獲物をとるなんてお前は狩りが好きなんだね、とか。いずれにせよ、戦果報告だ。
 俺にはそれがない。
 俺の家族は、今、あまり会話が無い。妹は結婚して出て行った。親父は朝から晩まで働きづめで、帰ってきたら酒を飲んで寝るだけだ。だから今、俺は学校にも仕事にも勤めていないから、「内」の人間で会話するのは母親だけなんだが、これがちょっと長い話になるんだが、あまり会話にならない。
 俺の母親は、簡単に言えば「ジャッジ」をする人だ。たとえば俺が何かを言ったとして、すぐに俺の母は目まぐるしく俺の意見を「ジャッジ」する。そしてたいていの場合は「こどもがなにか言っている」ということで、俺の意見は無視されたり、否定されたり、とにかくネガティブな結論へとたどり着く。そんなわけないだろう、理路整然と話せば分かってもらえるはずだと思われるかもしれないが、少なくとも俺は母親に2Lの大鍋に一個半のルーをぶちこんで、ほとんどお湯のカレーを作るのは余ってしまうし美味しくないからよせ、と何度も言い続けてきて、分かってもらうために自分で実践して見せてやらなければならなかった。悲しいなあ、たぶん、このあたりの「言っても無視される」というくだりは、どれだけ書いても伝わらない気がするんだ。自分の筆力に限界を感じるね。
 細かなことを言ってもその都度、読者の人にまた再度ジャッジされてしまいそうだし、簡単に書こう。俺は赤ん坊の頃、夜泣きがひどかったらしく、そのたびに俺のお袋は寝床から出て俺をあやしていたらしい。これにはまあ感謝と申し訳なさもあるんだが、肝心なのはいまだに俺の母親は俺が何を言っても「夜泣きしている」としか感じていないんだな。だから俺が何を言っても、俺が喋っている間は形だけの反応はあるんだが、それも若い母親が赤ん坊に「はいはいねんねしましょうね」と言っているのとさほど変わらないんだ。よく見てみると分かるんだが、俺がピタッと喋るのをやめると、俺の母は俺が何を言っていたのか忘れてるんだな。さっきのカレーでいえば、大鍋なんかで作って次の日には大量に余らせて捨てるだけだと指摘した次の瞬間に、また大鍋で作り始めるんだね。反省というか、反応というか、修正がない。本人は否定してくるんだが、これはどう考えても俺の意見を無視している。こちらとしてはそう受け取らざるを得ない。まァ、子離れできていないだけ、と笑って済ませられる話ならよかったんだが、しかしお袋のこの悪癖は、少なくとも俺から「戦果報告」の権利を奪ってはいるね。
 たとえばあなたが狩人だったとして、「今日はこんな獲物をとった」と自信満々に肉を掲げたとしよう。誰がどう見たって自慢できる立派な獲物だ。しかしあなたの家族はそれを見ようともせず、「はいはいねんねしましょうね」とだけ言って、あなたの肉を当たり前のように獲っていく。まるでそれは神の恵みで自然にどこかから生えてきたもので、あなたが泥まみれになって獲ってきたものなんかじゃないと言うかのように。
 どんな気持ちがしますか。
 これだな、と俺は思ってる。俺はこの「戦果報告」が出来る環境にいないから、友達と会って喋っても、疲れが残る。要するに俺は「今日はこんなことがあった、あいつはこんなことを言った」という一日のまとめを家族に話したいんだけれども、俺には家族がいないんだ。そう結論づけざるを得ない。
 もちろん、これがべつに苦じゃない、という人もいるだろうし、俺がマザコン気質なのかもしれない。しかし俺は別にこの「戦果報告」を母親だけにしたいわけじゃなくって、父親にしたっていい。俺がいまだにあの父親を複雑に思いながらも眺めているのは、まだ少しは家族だという気持ちが残っているからで、それはつまり「戦果報告」を親父にしたっていい、と思ってるからなんだな。だけど俺の親父はああいう人だから、戦果報告は出来ない。何を言っても「俺の正しさ」が優先してしまう人で、「そうか」とか「へぇ」とか「いいね」とか、そんな普通の反応が出来ない男なんだ。俺が何を言っても「俺(親父)が許されるための自己顕示欲」が最優先に来てしまう、つまり、俺の親父は俺と一緒で自分に自信がない人なんだな。他人を信じられない人だとも言える。常に話の方向性が「自分を許してもらうこと」へ目指していく人だから、俺が何を言っても、俺の親父は俺をジャッジして俺を支配しようとするだけだろう。だから、親父にも「戦果報告」は出来ない。妹も、今は結婚してしまって家にはいないんだけれども、うちにいた頃に「戦果報告」が出来たかと言えば無理だったろうな。あいつも大概、人をジャッジし、軽蔑する思想の強いやつで、弱い人や間違ってる人に親切にする、なんてことのできないやつだったからね。美少女だったもんだから、常に他人を小馬鹿にしていて、そのくせ反撃されるんじゃないかとビクビクしている。まァ妹がヒネた原因は、両親以外でも兄が不具同然だったというのも大きいから俺はでかいことは言えないね。「しっかりしてるお姉ちゃんが欲しかった」とぼそっと言われた時にはさすがに返す言葉が無かった。俺は、片端だからね。
 俺の親父は、お袋のことを「片端」と昔から呼んでいた。障害者、って意味だけどね。「お前はグズでのろまでなんにもできない。俺が養ってやってるんだ。この片端、片端」と親父が楽しそうにお袋に言っていたのが今でも目に浮かぶ。その頃、俺はたぶん小学生だったと思うんだけど、親父をよく殺そうと思っていた。まさかその頃は、それがお袋と親父の一種のプレイ、遊びだなんて子供の俺にはそれこそ分からなかったから。憎しみだけが増えていったね。
 で、親父はお袋を片端と呼ぶ。なにかにつけて難癖をつけてジャッジしていくんだな。お前なんかいても仕方ないとか、離婚したら生きていけないぞ、とか。親父はねぇ、いまだに分かっていないみたいなんだけど、俺とお袋はよく似てるんだ。馬鹿だからね。だから親父がお袋を「馬鹿」と呼ぶごとに、それは俺が持っている形質のことも軽蔑していることになるんだな。身体が弱いとか頭の回転が鈍いとか、俺とお袋には共通項が多い。それでも親父は女を罵ることでしか自分を安心させられない、自慰できない男だったから、俺がやめろと言っても聞かない。お袋を罵り続ける。中学生の頃なんか悲しくってね、壁を蹴破ったりした。後にも先にも親父に「出て行け」といわれたのはあの時だけだが、親父はいまだに自分が悪かったとは思っていないし、俺に謝罪をしようという気もないんだろうな。俺も自分が悪いとは思っていないし、親父に謝ろうなんて気持ちにはならない。謝っても、向こうは決して謝罪を返してくれないだろうからね。親父も俺に対してそう思っている。俺と親父は他人を信じられない男同士で、だから決して自分から謝罪しない。だから永遠に和解もしない。
 なんの話だっけ。ああ、そう、だから俺の家族は、といっても普通の家庭でもよくあることなのか、それともやっぱりうちは特異なのか、俺には判断ベースがないから読者の人たち各自でそれぞれに気持ちを育てていってほしいんだけれど、俺の家族はこういう人たちだ。だから、「戦果報告」が出来ない。どれだけ大きい獲物をとっても、それを自慢する相手が俺にはいない。
 普通の男は、酒や女、あるいは凝った趣味なんかで誤魔化せるんだろうな。残念ながら俺はどうも遊びが下手で、自分を誤魔化す手段を持たない。「戦果報告」というテーマが自分にあるうちは、「戦果報告」が出来なきゃ具合が悪くなるって性質なんだ。だから結局、俺は友達と遊んで、「今日はこんなことがあったよ」っていう軽い会話が出来ないために、いまだに吐き気が止まらないなんていう馬鹿げた状態にあるんだね。どうなんだろう。どこの家庭でもこんなものなのかな。だとしたら大変で気の毒だと思うし、あるいは親離れしろ、と責められても確かに返す言葉はないな。まァでも、愛情に餓えるというのは自然なことだと思うし、お金と一緒である人にはない人の気持ちはよく分からんだろう。愛をほかのもので埋められる、というのも一種の性質、才能と言ってもいい個性だと思うが、それが誰にでも備わっているわけではないからね。
 ここまで書いてみて、なぜ「戦果報告」じゃなければ駄目なのか、それは何か特別なことなのか、ちょっと考えざるを得ない。狩人の話でいえば、なんだかんだ言って肉は獲ってきたんだから、それでいいじゃないか、と考えられなくもない。けれど俺はどうしても「戦果報告」がしたい。なぜなのか。
 俺は嘘をつきたいんだね。
 虚言癖がなければ六年も小説を書き続けてなんかいないから、俺には嘘をつきたがる習性がある。まァ悪癖かもしれないが奇癖ぐらいで済ませておきたいな。これがなくなっちゃあ小説はもう作れそうにないからね。でもま、ここでは生活のことを話しているから、悪癖ということにしておこう。
 たとえば友達と遊んで帰ってきて、俺が何をしたいのか、そこから考える必要がある。今日こんなことがあった、と俺の話に耳を傾けてくれる人がいたとして、その人に言うだろう。その時に俺は何をするか。
 たぶん嘘をつくね。
 話を盛ると言ってもいい。完全な嘘じゃないが、たとえばべつにそんなこともないのに「俺がいなきゃ場が盛り上がらないな」とか、「だれだれの悩みを聞いてやった」とか。これはまァ自尊心を満たすためにちょっと脚色を加える、ということだ。
 これが「内」と「外」の区別がついていないと出来ない「戦果報告」なんだな、と思った。「外」の人間に「外」のことで嘘をつくと、バレるでしょう。俺もやったことがあるんだが、Aが言ってもいないことをBに言ったと嘘をつく。そういうのは普段親しい人間同士で会うんだからひょんなことでバレるね。そしてAに「俺はそんなこと言ってねぇ!」とものすごく怒られる。俺としては話が面白くなるように、と思って脚色したつもりだったりして、まァ確かに俺が悪いんだが不満な部分もある。でもまァこれは俺が悪いね。だから「外」の人間に「外」のことで嘘は言えない。
「外」のことで嘘がつけるのは「内」の人間だけなんだな。つまり、家族。
 家族と話が出来ないというのは、嘘がつけないということでもあるんだ。それの何が悪いんだ、なんて思われるかもしれないが、俺のように自尊心に極めて傷がつきやすい、また人を信じられない人間は、自分で作った話を他人が信じてくれることほど癒されることはないんだ。俺の親父なんかもそうだね、テレビなんか見ていて「こいつ死んだよ」なんておふくろに言ってびっくりさせる。べつに死んじゃいないんだ。で、お袋は当然(形だけは)怒るんだが、親父は悪びれずにまた「こいつ死んだよ」とテレビを見て言う。また嘘だろう、とお袋が言うと本当に死亡ニュースが流れたり。で、親父は「ほらな、俺が言ってたことは正しいだろう。疑ったりしやがって、今度から俺のことは無条件で信じろ!」と無茶なことを言い出す。言わなくても、そう言いたいから嘘をつくんだね。
 俺もこれと一緒だ。
 ただ、俺の場合は言い訳じゃないが、もっと罪のないことで嘘をつきたい。親父のは悪趣味だが、たとえば俺なんかは「戦果報告」で「自分はみんなに好かれてるんだ」と思ってもらえるような脚色を加えたい。もちろんべつに嫌われてる相手と会ってるわけじゃないから、多少は好んでもらえてると思うので完璧に嘘ってわけでもないんだろうが、俺みたいな人間は自分で味つけした話じゃないと安心できないところがあってね。
 だから結局、俺は「外」のことを「内」の人間に脚色した話にして披露して、自分をよりよく演出したいんだな。また、それは当然の権利というか、罪のない欲求でもあると思うんだ。少なくとも誰かが死んだなんてタチの悪い嘘を話の中に織り交ぜて、馬鹿な女を自分の言いなりにしようなんてことを五十にもなって続けている男よりはね。俺は親父の気持ちはわかるんだけれども、結果のために手段を選ばないという一点において極めてひどく軽蔑している。親父の生き方はけだもの同然で、俺から見ると美しい生き方じゃない。何かを美しく思えるという一点で、俺は親父よりも自分がいい人間だという自信はある。親父は、何かを美しいと思ったことがない人間だから。整っているとか、思い通りになる、なんていうことはただ満足しているだけであって、美しさとは関係ないからね。
 ここまで書いてみると、俺のお袋が馬鹿だということは分かってもらえると思う。あれで可哀想な人で、親父さんを早くに亡くして働きに出たところで、学生だった親父に捕まってしまったんだね。なんだか親父の話ばかりで恐縮だが、二十歳の頃の親父は若かったお袋に相当タカったらしい。
「欲しいものは、なんでも買ってあげた……」と、こないだ言ってたけどね。
 身体もくれてやったんだろうね。親父があの甘ったるい猫なで声で、頭の鈍い愚かな女を言いなりにしたざまが目に浮かぶ。そういう時代でもあったんだろうとは思うんだが、やはり俺はそういう若かった頃の悪習を聞くと、自分の父親を尊敬できない。車を買う時にもお袋に三百万円出させて、自分の母親から二百万、それで結局ただでパジェロ買ったような男だからね。パジェロなんてルーレットの景品だよなあ、と、これは俺が友達によく言う笑い話。でも、親父は笑い話ではなく本当に手に入れたね。どうしても欲しいものは他人を犠牲にしてでも手に入れるという点は、俺にそっくりではあるよ。これは、怖いことだと思う。
 で、何が言いたいかというと、俺のお袋は馬鹿だ。頭が鈍くってカレールゥの箱の裏も読めないんだから、男に騙される。一度騙されたらこれに懲りてもうあんな人のいうことを信じるのはやめよう、と決意すればいいのに、頭が鈍いものだから「自分に命令してくれる人」と一緒にいるのはラクなんだな。「どうしたらいいと思う?」なんてすまし顔で聞き返されるのが一番いやだ、と俺にしかめっつらで語ってきたことがある。そういう点では確かに俺の親父は命令しかしない、つまらん男だが一緒にいてラクだったんだろう。夫婦関係にとやかく言うつもりはないから本人同士が納得しているなら結構だが、子供は迷惑したよ。俺の妹も妊娠して結婚して家を出たけど、うらやましいな、とたまに思う。俺は妊娠して男にすがるわけにはいかないからね。
 頭が悪いなら、息子の話も真に受けて唯々諾々と従うか、といえば、これがそうはならないんだな。べつに俺はお袋を支配したいわけじゃないんだけれどね。俺が支配したいのは自分の能力であって、他人なんか正直どうでもいい。自分の能力に絶対的な自信があるかどうかが、俺と親父を分けた差だろうな。俺は少なくとも相手の話を聞く。聞きたいと思う。年に何度かはね。親父には、一生そういう時は来ないんだろう。だから、あの人の葬式は挙げない。誰も来ないからね。
 で、ここから先はよくある話なんだけれど、母親にとって息子というのはいつまでも子供らしいですね。それはまァ納得も出来るんだ。ひとつの事実だからね。ただ世のお母さん方に言いたいのは、息子だって一人の人間で、いつまでも夜泣きしているわけじゃなく、正しいことだって言うんですよ、ということです。ものすごく正論を振りかざして分かりやすく言えば、もうすぐ選挙があるけれど、俺が家族に「選挙にいこう。なんの結果も出なくても、大切なことだと思う」なんて言ったら、鼻で笑って一蹴されます。俺んち誰も選挙いかないんだよね。これから子供を生む人は、子供が自分より正しい瞬間がどうやら逃れられずに存在するということを知っておくと、少しは違う未来があるかもしれません。お節介な話ですが。
 そういうわけで、俺は母親に無視されます。少なくともどんな発言をしても、心に留めておいてもらえはしない。忙しい現代社会、ニートの息子になんて構ってられないという意見もまァ確かに分かりますが、俺はそういうのもあって家事やってるんだよね。あの人はそこまでしないと、息子がそこにいるということを認識できないんだと思うから。
 そして話は堂々めぐって、「戦果報告」できない、という結論へたどり着く。「外」の話を「外」でしか出来ないというのは危険すぎて下手な嘘がつけない。だからどんどんストレスが溜まるし、楽しいはずのことも楽しくなくなる。「外」の世界でのことを「内」の世界へ持ち込みたい。人間は二つの世界を行き来する生物で、一個の世界でだけ生きていくのは窮屈だ。少なくとも俺はそう思う。だからどんどんどんどん溜まっていく「外」でのこと、それが愉快なことであれ不愉快なことであれ、それを水に溶かすように薄めるための「内」、俺にはそれが必要なんだ。違う自分になれる瞬間、脚色してでも自分はいい「狩人」なんだと自慢できる相手、帰る場所、つらいと言ったら哀れんでもらえる最後の故郷、俺にはそれがない。実家にいるのに。

 だから俺は今、家族が欲しいな、と切実に思う。生みの親より育ての親なんていうけど、俺がいつも「兄貴が欲しい」と考え続けているのは、やっぱり親父に育ててもらえなかった点が大きい。ちょっとガタイがよくて笑顔が素敵な人なんか見かけるときゅんっと来ちゃって、高校の頃なんか夜その人の顔が浮かんで眠れない。ホモかと本気で心配したね。でも性欲は感じなくって、そういう人に認めて欲しいという気持ちが強いんだ。親父もひょっとしたらそうなのかもしれないな。愛情というのは遺伝性で、それがどこかで断ち切られた家庭で育つと、子供にそれを渡せない。だからどこまでいっても不幸の連続、悲しみばかりが流れていって、いいことなんてやっぱりない。だから俺は本気で自分が不稔同然だということに安心してもいるし、それが男として普通に悲しくもある。不思議な気持ちがするんだ。
 ここまで書いてみて、やっぱり自分は親父に似ているんだな、と思う。美しさがどうとか言ってたが、俺だって手段は選ばないからね。それでも自分はこれだけはしたくないと思っている、という最低限のルールが俺にはあって、それは正義感とか常識倫理に則ってとか、そういうことだけじゃなく、ルールがルールであるために必要な要素だからって点が多いんだが、これはまたべつの機会に書いた方がいいんだろうな。
 さて、カレーでも作ります。