最後のトロ




 『老舗・熊三郎』といえば、知る人ぞ知るN街の名店だった。私は以前勤めていた会社の上司に連れて行ってもらい、そのトロの美味さに撃たれたような衝撃を受けた。以来、転職して恩師と縁が切れても、熊三郎との縁だけは切れなかった。
 その熊三郎が、潰れた。
 正しくは、これから潰れる。地元のグルメ雑誌記者の友人から聞かされた話では、のれん分けやチェーン展開などもせずに、本当にひっそりと、熊三郎は六十年の歴史に幕を閉じるのだという。主の源吉氏はもう八十七歳。二十七歳で独立してから、たったひとりで寿司を握り続けてきて、子供もいなかったから代替わりもないという。私はその話を聞いた時、呑んでいた安い酒を手元から落として若いウェイターに罵声を喰らったが、何も耳に入ってこなかった。ただ、震える声で友人に尋ねた。
「なんで――熊三郎が?」
「営業不振だろ。バブルの頃と違って、いまは勤め人の財布の紐も固いからな。わざわざ寿司喰うなら、もっと他に楽しいことなんていくらでもある。課金ガチャとかな」
 友人は冷めたものだ。こいつ、と私は思った。本当に熊三郎にいったことがあるのか? あそこのトロを味わったことがあるのか? あるんだったら、こんなところでのうのうとしてられるものか――普段、温厚などと評される私だったが、このときばかりは頭に血が上りかけた。が、なんとか堪えた。
「いつ、潰れるんだ」
「月末だとさ。もう今日が二十七日だから――ああ、本当にあと数日だ。明日が最後の定休日だな」
 私は今年一年の営業暮らしで使い古した高橋の手帳を取り出した。私の手垢でわずかにぬめるそのページを繰り、明日の予定を調べる。
 仮病を使えば、休みは作れた。

 ○

 その店は、薄汚いガードレールの下にある。だから、夏場は涼しく冬場は暖かい。店にエアコンが導入されたのは五年前とつい最近だったが、ネタが風で傷むという理由から形だけのお飾りになっていた。いくら蒸しても、あるいは底冷えしても、源吉老の厳つい顔を前にして「エアコンを」と言う元気のある客はいなかった。まさかそれが、とも思ったが、きっとそういうわけでもないのだろう。いろんなこまごまとしたことが重なって、『熊三郎』は潰れるのだ。私は再び、あの店の前に立った。いつもはかかっている藍染めののれんが、無かった。
 事前に連絡は入れていた。源吉老は、私のことを覚えていてくれた。いつもトロばかり食べている、金のなさそうな客なんですが――という私の怪しげな電話に源吉老はカラカラと笑って「おぼえてる」と言ってくれた。そして私の、本職でもなんでもないインタービューを受けてくれると承諾してくれもした。戸を開けると、いつもはカウンターの中にいる源吉老が、客席に座って、冷酒を静かに呑んでいた。その灰色の肌は、とても酔っているようには見えなかった。
「入んなよ、そんなところで突っ立ってないで」
「あ、はい――」
「そんな葬式みたいな顔はしなくていい。――ま、悲しんでくれるのは、嬉しいさ」
「すみません」
「謝ることないさ。――ほれ」
 私はぽんぽんと軽く叩かれた席に、おずおずと座った。源吉老は白っぽい液体が満ちたグラスをゆらゆらと振りながら、呟いた。
「売れなくてね――」
「そんな。だって、ここは昔からの老舗で――街のみんなから愛されてたのに」
「表面上はね。たまに、グルメ記者なんかも来てくれたりはしたが、だめさ。バブルがはじけたのがもう三十年前だろ。あの頃から傾き始めて、ようやく沈没なんだから、ま、持ったほうだわな」
「――なんとかならないんですか。僕、トロの値段があがっても食べにきます」
 はっはっは、と源吉老は快活に笑った。とても不幸に見舞われた男とは見えない。
「申し出は嬉しいし、そう言ってくれる人もあんただけじゃなかった。けど、だめさね。ネタの値段が上がって、客日照りってんじゃ、続けてはいけない。借金もしてるしね――ま、それは店を処分すれば採算がつくし、それに俺も老い先短い人生だ。踏み倒して出るとこ出られたって痛くもかゆくもねぇ」
「そんなこと言わないでください」
「すまんね。ふむ、俺が愚痴とはな。ヤキが回ったぜ――ま、いずれにせよ、この店を続けるには、ちょっとひとつまみって客にも満漢全席みたいなフルコースを食べていってもらわなきゃならない。女や子供にもだ。――現実的には無理だろう。このご時勢、一回の食事にそんな大金、誰も出せんさ」
「昔みたいに、お金持ちのセレブの人たちを集めれば――僕、記者の友達がいるんです。そういう人たち向けに、特集とか組んでもらえないか聞いてみます」
「無理だろうな」
 源吉老は、素早く言った。そんなこと、とっくに彼自身が考え抜いているだろうという当たり前の事実に、私はようやく気がついた。
「一度、客を殴っちまったことがある。銀行の頭取でね。俺っちとは関係ねえや――と思ったんだが、やっぱり、響いたよ。セレブっても客層は地層みたいに色分かれしてるんだが、いちばん上のおいしいところがスパッ――といなくなった。圧力ってわけじゃないが、殴られた、なんて話を聞く店に来るやつはいないだろう。昔と違って、若いのも血気があるわけじゃないからね。ま、いいことなのかもしれないが」
 冷酒をすする源吉老。
「あんたみたいのが惜しんでくれるのは嬉しい――この店も喜んでると思うよ」
 数々の著名人のサインや写真が飾られた店内を、源吉老は初めて見るように見回した。
「でも、もう、寿司の時代は終わったよ。俺はずっと思ってた。あのクルクル回るやつが出来てからな」
「クルクル――回転寿司ですか」
「あんなの寿司じゃないって笑ってた。でも、最初に笑ってたやつから死んでいったよ。この業界、外からは見えないだろうが、首吊り、飛び込み、たくさんそんな話があるんだぜ。あんたが乗ってる電車だって、寿司職人を轢いたことぐらいあるはずさ。いまじゃもう、人死になんて時計を見るか見ないかの問題になっちまってるが――俺には違う。仲間の訃報が届くたびに、次は俺の番かな、と思ってた。ずっと――六十年間」
「六十年――」
 それはまだ二十七年しか生きていない私にとって、永遠よりも長く感じられる時間だった。
「それでもなんとか、店を格好がつくまま畳めることになった。それだけでも俺は幸せものだ。――家族を作らなくてよかった、と思うんだ。女房子供がいたらこんなふうに泰然自若としてられない。見苦しいざまを晒してたと思うよ」
「そんな――」
「申し訳ないのは、うちの若ぇのだ」
 源吉老は、苦虫を噛み潰したような顔になった。
「どこへも渡りをつけてやれなかった。みんな、今度の春から無職になっちまう。――せっかく腕が立つようになってきたのにな、本当に、俺が不甲斐ないばかりに、やつらを路頭に迷わせちまった。寿司が握れますなんて、なんの免状にもなりゃしねぇ。どこの会社も、寿司職人なんかに興味ねぇのさ」
 私はもう、何もいえなくなっていた。源吉老は、手元の酒に語りかけるように続ける。
「みんな、いいやつだよ。すまねぇ、店を片付けたら、再出発のための準備金くらいは用意してやるから――って言ったら、みんな黙って出ていきやがった。情け無用――映画だったらお涙ちょうだいの感動の場面なんだろうが、俺は受け取って欲しかった。俺なんかの残り少ない命より、あいつらの未来のほうが大事なのに――あいつらにそれを拒否されたら、弱いおじいちゃんの決意なんか簡単に揺らいじまうよ。――俺を、ただの爺ィにしたくて、ああいう態度を取ったのかな、なんて。そんな弱い考えまで湧いてきちまう。もう八十七年も生きてるのに――俺はガキのままだ。ガキのまんま、友達に嫌われたんじゃないかって、震えてる」
「源吉さん――」
「食べてくかい」
「え?」
「握るよ。今朝、あんたのためだけに、市場で一尾、仕入れてきた。俺とあんたで、喰っちまおうぜ」
「いいんですか」
「お礼だよ。ずっとこの店に通ってくれた、あんためのために握りたいんだ」
 源吉老は手拭をいつものように鉢巻にして、調理場に立った。その姿は凛としていて、何か神聖な祭事を司る修行者のようだった。まな板の上の魚を綺麗に分けていく包丁さばきは、まるでそれを握れば誰でも自然とそういう動きになるかのように滑らかだった。私はそれを見ているだけで、不覚にも涙が出てきてしまった。嗚咽する私を、源吉老は黙って無視してくれていた。
「おかしいですよ、こんな――なんで、こんな綺麗なことが出来る人のお店が潰れなきゃいけないんですか。もっと、もっとほかに潰れたほうがいい店なんていくらでもあるのに」
「言うな。俺だけじゃない。みんないつか、こうなるんだ」
「僕、カンパします。給料はたいて、このお店に投資します。だから――」
「無理しなくていい。そんなことしてもらっても、お互い苦しいだけだよ」
「でも」
「いっちょあがり」
 私の前に、下駄に乗せられたトロの列が並んだ。私はそれを震える手で受け取って、涙をすすって食べた。涙は、ネタの良さを台無しにしてしまっていた。ドラマのように美しい味など、少しもしなかった。私は、いつもの熊三郎のネタが食べたかった。私の汚い涙がついたトロなど、食べたくなかった。それでも、これが私の食べる最後の熊三郎なのだ。溢れる涙を噛むように、私はいつまでも出され続ける大好物のトロを食べ続けた。この時間が永遠に続けばいい、いつまでも最終電車が出なければいい。つまらない味しかしない現実が私を熊三郎のカウンターから引き剥がすまで、そして源吉老がもう二度と巻かないだろう手拭を額から外すまで、私はひたすらに食べ続けた。
 食べるほかに、この悲しみを伝えられる手段がひとつも無かったから。















                                 了