ふすまの向こうに


 わずかに開いた襖の中を覗き込むと、ゆるく下った坂の果てに、河が流れていた。
 柔らかくはじける日差しを浴びて、川底を清めるように飛沫が舞い魚影がひらめく。川岸では細く長い芒が亡霊のように茂り、そよそよと揺れていた。
 幼かった私は、小さな手の平で襖が命綱であるかのように握り締めたまま、ただその幻想的な光景に見とれるしかなかった。
 仰天する知恵や常識も持ち得なかった当時の私は、だから赤い屋根のお隣さんちにも、学校の裏手にあるお寺にも、開ければ河の流れる襖があるのだと信じていた。一家に一台ならぬ一川というわけだ。
 まず間違いなくそんなものが流れていればうるさいだろうし薮蚊には悩まされるだろうしロクなことはないところだが、不思議なことにうちの河は襖を閉じればそこからは河のせせらぎも草木のそよぎも届かないのだった。
 襖を開けてからしばらく経ってから、二つ年上の姉に尋ねた。
「ねぇ、どうしてうちには河が流れているの」
 姉は納豆を箸でグリグリしながら、年齢にそぐわない怪訝そうな顔で私を見た。
「河なんて流れてるわけないじゃん。家の中に」
「でも流れているんだもの。仕方ないじゃない」
 私が頬を膨らませて反論しても、姉は取り合ってくれず、おかーさーんしょうゆどこーと台所に叫んでいた。
 姉に否定されて、ひょっとしたらと襖を開けてみたがやっぱりそこには河が流れているばかりで、ぴちゃんと小魚が元気に跳ねているのだった。


 その幼馴染は、陸という名前だった。
 おかではなく、りくと読む。
 隣の赤い屋根の家におじいさんと住んでいて、幼稚園に通っている頃から私とは砂場の使用権をめぐって対立したり、共に先生という名のショッカーに蹴りをぶちかましたりする仲だった。
 その陸に河の話をすると、彼はおかっぱ頭を左右に振って、
「よし、じゃあいってみようぜ」と言った。私がはてなと首を傾げていると、
「その襖の向こう側にだよ」
「でも――」
 確かに行ってみようというのは自然な反応ではあったが、なぜか私はそんなこと考えたこともなかった。
 陸はところどころ真っ黒になった歯を見せて笑う。
「心配すんなよ。へいきへいき――魚取って焼いて食おうぜ」
 陸が言うなら、そうなのだろうと思った。



 二時ごろだったろうか。私と陸はランドセルを玄関にぶちまけ、靴を後方に発射して玄関から和室の中へと駆け込んだ。
 両親は仕事でいない。姉は習い事のせいで帰ってくるのはいつも夕方遅くだ。
 問題の襖の前に、なぜか神妙にかしこまって私と陸は正座した。膝頭を押さえつけるようにしながら、
「ここか」と陸が襖を指差した。私はこくんと頷いた。
「よし――」と陸が膝で畳をすり歩き、襖に手をかけ、一息に開いた。
 風が吹いた。
 河が流れている。
「ホントだ――」
 陸は目を見開いて、襖の向こうの川辺を眺め回した。扇風機のように首が左右を行き来する。
「河だな」
「河でしょ」
「うん――」
 私たちはしばらく肩を並べて押し黙っていたが、やがて手を取り合って、襖の向こう側へと一歩を踏み出した。
 裸足で踏む砂利は、冷たかったけれど、痛くはなかった。



 太陽に薄い雲がかかっている。
 膜のように薄く広いそれは、ヴェールのように天空を白く覆っていた。
 どこまでも続く川辺に、ぽつんと私たちが入ってきた襖が開いていた。どこでもドアみたいだな、と陸が笑ったので、それまで続いていた私の緊張がふっと緩んだのを覚えている。
 体を折り曲げて川底を見下ろすと、底はそれほど深くない――と私が思うやいなや、陸がそろそろと爪先を水につけた。
 ぴちょん、ぴちょん、と何度か水面を突っつくと、スッとくるぶしまで入れた。
「冷たっ」
「なんもない?」と私が聞くと、しばらく考え込んでいたが、最後には頷いた。
 私たちは手を繋いだまま河に入り、すねから下を綺麗に洗われるがままになった。
 陸はぼうっとしている。
「ここってさあ、もしかして、天国なのかな」
「天国? でも天使いないよ」
「きっとまだ学校なんだよ。ブカツだ」
 ブカツとは苦しくて遅くまで学校に残っていなければならない苦行のことを指すのだと、そのころの私たちは信じていた。
「天使も大変なんだね。でもさ、陸、ここが天国だったら」
 陸は真正面を見据えて、微動だにしていなかった。
「かあさん」
 向こう岸に――それまで誰もいなかった岸辺に、知らない女の人が立っていた。
 白い着物を着て、同じ色の肌は、つやつやしている。
 遠目に見ても目立つ赤い唇が、弓を引いていた。
「りく――」
 呟いたのは私だったか、その女の人だったか。
 陸がふらっ――と歩き始めた。
「だめだよ、そっちは、陸、ちょっと、陸ったら」
 私が引っ張っても、陸はこちらを向こうとさえしない。重たいものを引きずるようにして私を連れて行く。
「かあさんがいる――」
「そ、そんなわけない。だって陸のお母さんは――」
 陸は、おじいさんと二人暮らしだった。私は自分のお母さんから、陸くんとは仲良くしてあげなさい、と事あるごとに言われていた。
 もう私たちは、腰のあたりまで水に浸かっていた。開かないドアノブのように、いくら引いても陸は進んでいってしまう。
 私は声を枯らして叫んだ。
「陸、陸、陸!
 そっちいったら、死んじゃうよ!」
「いいよ」
 陸が楽しげに笑った途端、私の背骨に寒気が走った。
 ぱっと手を離してしまった。
 暖かかった手の平の感触と支えを失って、私は川底の砂利を踏み外し、水中へ没した。
 水が一気に口の中に入ってくる。必死にもがいて水中から這い上がろうとするが、そうすればそうするほどにかえって沈んでいく。
 陸の細い足が見えた。どんどん遠ざかっていく。思わず手を伸ばしたが、やはりすんでのところでかわされてしまう。
 掴まれたのは私の足だった。
 水よりも何倍も冷たい感触に、足元を振り返ると、無数の手が私の足にたかっていた。
 肺に水がたまるのも省みず、私は悲鳴を上げた――なんの音にもなりはしなかったが。
 陸の姿はもうどこにもなかった。



「――! ――ったら! いい加減に起きなさい!」
 ぱんぱん、と頬を打たれて、私は飛び起きた。全身、ぐっしょりと寝汗をかいていた。
 畳に敷かれた布団の上に私はいた。
 跳ねた瞬間に額に乗っていたらしい濡れた手ぬぐいが母の顔面に吹っ飛んでいた。べちゃり。こめかみに青筋を立てて母は手ぬぐいを握り締めた。
「元気そうね」
「えへへ」
 平手で頭をパァンと叩かれた。あうーと私は情けない声を出して上目に母を見やったが、怖い微笑みが返ってくるだけだった。
「まったく、あんた、いつまで寝てんのよ。昼寝してるだけかと思ったら熱出してるし」
「だったら寝かせておいてよぉ」
「寝るにしても何か食べなさい。いまおかゆ作ってきてあげるから」
 まったくやれやれとぶつくさ言いながら、母は台所に立った。
 私は木目の天井を見上げながら、さっきの出来事は夢だったのだろうか、と思った。そして陸は――。
 こんなにも明日が待ち遠しいと思ったことはない。早く学校にいって、のんきそうな陸の顔が見たかった。
 しばらくして、電話が鳴り、母が出た気配がした。ええ、ええ、ええ? とだんだん声高になっていき、私は得体の知れない不安に身をすくませた。
 おかゆの乗ったお盆を持ってきた母の顔は、蒼白になっていた。
 布団から鼻を出して、私は、さぞ心細げな顔をしていたのだろう。
「――なにかあったの?」
 なんでもないのよ、と母は引きつった笑いを浮かべた。

 陸が死んだというのを知ったのは、翌日になってからだった。
 熱はすっかり下がっていたが、雪のように色をなくした私の肌は、少々下がりすぎなくらいだった。


 今では、やはりあれは、三途の河だったのだろうと思う。
 あの河は死者が渡るべきもので、生きていた私たちは決して近づいてはならなかったのだ。
 もし、あのとき、私も陸と同じように誰か親しい人を失ったことがあったなら、きっと私も引きずられていただろう。
 今のように。

 閉じられた襖の向こうから、かり、かり、と襖を爪でかくような音がする。
 それもひとりのものではない。何十人も、何百人も、その向こうで私を呼んでいる。
 あれから八十年が過ぎ、親しい人も、そうでない人もたくさん失った。
 この家にはもう、私しか住んでいない。
 陸が死んでから、ずっと私はこの部屋で、あの爪の音を聞きながら過ごしてきた。
 あっという間に精神を病んだし、心休まる時はなかった。
 夜な夜な死者が襖の向こうから、私の名を呼ぶのだ。
 おいでよ、おいでよ、と。
 誰がいくものか、死んでたまるか、とっとと消えろと思い続けてきたその呼び声も――死の際とあっては、心地よくさえある。

 ああ、今、逝ってあげるよ。

 皺を傷のように帯びた顔に、うっすらと微笑みを浮かべた私は、あの世への入り口である襖に顔を向けた。
 すると、その隙間から、ちろっ、と水が零れた。
 水? 水って、
「あ」
 疑問に思う暇もなく、襖を吹っ飛ばして流れ込んできた津波が私の身体を飲み込んで、私は一瞬で肺を水で満たし呼吸ができず脳が餓えて、意識が凍って。

 まさかの溺死だった。




 了