イズミとアルカ

 世界はバグで出来ている。
 それはちょっとした小路とか、捨てられた民家とかのなかにある。いわゆる人目につかないところ、でも一人でこっそり覗いてみたら、それっきり戻ってこれずに木枯らしだけが吹き残りそう。
 そんなところ。
 だけれども例によって、選ばれし者だけがそれを見ることができる。よくある選民思想の脳内パラリンピックというわけで、まァこの世界観でも気違いに才能があると思ってもらって構わない。実際、イズミのやつはちょっとおかしかった。ずっと自分の瞳を鏡のなかに覗きこみ何時間も動かないなんていうことがよくあった。それやったら狂うよと言われることをやって平然としているわけだから狂人として認定してやってもいいだろう。狂気を価値へと変換できるのであれば、むしろ壊れていてくれたほうが好都合というものだった。
 この世界ではバグを見えるものはバク取りの異能者として生きていく。蜘蛛の巣状に散らばったネットワークがあって、才能と変化の兆しを見せたものにはスカウトがいく。そうしてちょっと手ほどきを受ければ現実世界のモンスターと戦う勇者の出来上がりだ。でもべつにこの話では詳しく言わない。なぜってそんなことをゴチャゴチャぬかす話を読みたければ他のやつのところにいけばいいだけで、わざわざここにいるならちょっとやそっとの不都合は我慢してもらわなくっちゃならない。なぜなら結局それが幸せというものだからだ。
 ちょうどこんなふうな逆説をイズミもよく言っていたからアルカにはいつも怒られていた。アルカは子供の頃から戦士で、世界をよりよくできるとその鉄面皮の奥でひっそり考えているようなかわいいやつだった。いつもそんな期待を持っては裏切られて傷ついて、そんなアルカをイズミは気の毒に思っていたのだと思う。バグ取りはだれでも自分が世界で最優先されるべき存在だと誤解しているが、自分を英雄だと考えるやつはいなかった。誰かのために戦えば傷つくだけだし、結局それって自分のためにしか戦ってないじゃん? というコミカルな絶望に察しがついているやつが多かった。
 何度もいうが、これは戦いのお話じゃない。
 戦いなんてイズミがちょっと頑張れば終わるだけのことで、日常の一幕にすぎない。トイレのシーンを省略するようなもので、当然の始まりとそっけない結末があるだけだから、書かない。とやっていくと何も書かないまでたどり着いてしまうから、イズミについては何か書こうと思ったんだが、そんなことも忘れてしまった。結局それが幸せというものなのかもしれない。




「もう戦うのやめた」と、いつだったか、イズミが鉄棒にぶらさがりながら言った。アルカはベンチに座って読書をしながら、実はどきりとしながらそっぽを向いたままそれに答えた。
「そう、それで、どうするの? 戦うことしか知らなかったあなたが」
「どうもしない。ただ、ひたすらにウジャウジャした黒っぽいものを焼いたり突いたり蹴っ飛ばしたりするのに飽きた。それだけ」
「社会不適合者のあなたに仕事なんかないわよ」
「それはどうかなあ」とイズミはにやにや笑っている。この女、とアルカは思う。いつもむかつく、こういう態度が。
「あなたは選ばれたのよ。それを手放すなんて赦されない」
「べつに許されなくたっていいもんね。時効というものがあるわけだから」
「時効なんてない。死ぬまでない」
「怖すぎるんですけど」
 アルカはページをめくる。
「悔しいけど、あなたには力がある。それを捨ててまで、あなたにはやりたいことがあるというの?」
「あるね」
 そういうイズミのなかが空っぽだということをアルカは知っている。伊達に同じベッドで寝ていない。
「きっと戦うのをやめれば、何か変わると思うんだ。だっていまこうして毎晩毎晩暴れてたって、なんにも変わりゃしないんだから。倒しても倒しても湧いてくるバケモノどもを闇夜に隠れてひっそり退治。現れる謎の転校生、意味深な言葉を残して消えたクラスメート、増え続ける行方不明者……エトセトラエトセトラ。ライトノベルの世界は愉快じゃあるけど、でも、だからそれがなに? っていう話でもあるわけ。わかる?」
「じゃあなに、トンネル超えて温泉にでもいけば今度は文学的な世界があなたの前に拓けるとでもいうわけ? 死んだやつの世界なんて何があるっていうの」
「またそんな死人に鞭打つことばっか言って」
「信じてもいない世界を夢想しているふりをしているあなたのほうが残酷よ」
 そう、結局のところ。
 イズミは自分自身から逃げているだけだ。
 アルカにはそれがわかっている。痛いほどに感じている。
 だから許せない。
「あなたは無いものねだりをしているだけよ」
「それが生きるということではないのかなあ」
「ちがうわ」
 アルカは読んでもいなかった本をじっと見つめた。
「いまある手持ちの武器を叩き尽すこと。それしかないのよ。もしとかたらとかればとか、そんな言葉はため息一つほどの価値もない。――いまあるものがすべてなのよ。それで負ければそれまでなのよ。だからあなたは戦うべきなの。戦うことしかできないのだから」
「ほんとうに倒すべき敵もいないのに?」
 イズミは軽蔑したように笑った。
「なんのために?」
「ほんとうに倒し難い敵が欲しいというなら、私がなるわよ」
 アルカは本を閉じた。イズミが何か言いかける。もう公園のなかには誰もいなくなっていた。
 その晩、どちらかが一人死んだ。