宿屋



 魔王から逃げ出してずいぶん経った。俺はやつの城のそばにある街、そこの宿屋で暮らしている。血まみれで逃げ帰ってきた俺を宿屋のおやじと看板娘はあたたかく迎え入れてくれた。仲間はみんな死んだことにした。リュセルとカインドは俺を置いて逃げ出したし、俺だってミカを見殺しにしてきた。そのミカだってヒューイを助けに戻ったとは思えないし、ヒューイはきっと作戦なんてかなぐり捨てて最初に逃げ出したに決まっている。間違ってたんだ、魔王を倒そうなんてこと。この世界で一番強いやつをぶん殴ろうなんて気勢を吐いて、俺達は気持ちよく酒を飲んだに過ぎない。一過性の思い出を正義感として覆い包んでいただけだ。俺はきっと本当に魔王を倒して世界を救おうなんて思ったことは一度だってなかったんだ。そうに違いない。
「またヘルベスの街が焼かれたそうですよ」と看板娘は俺の洗濯物を窓から干しながら言った。外はいい天気だ。緑萌ゆる初夏の季節。小鳥が囀り、冬が終わったことを教えてくれる。もうだいぶ前に終わったはずの冬を。
「でも、仕方ありませんね。魔王がいるんですから」
「そうだなあ」
 俺はベッドの中から言った。あれだけの激戦を超えて五体満足で俺はこうして横たわっている。神に感謝だ。俺は生き延びたのだ。今でも信じることができない。
「悲しいことがあまりにも多すぎますね」娘は俺のシャツをパンパンと伸ばした。その顔には困ったような表情が浮かんでいる。
「どうして、魔王なんかがいるんでしょうね」
「さあ、どうしてだろう」
 わかること。そんなことが本当にこの世界にあるのか? 理解して分解できることが? なぜ魔王はいるのか。なぜ俺は生き延びたのか。なぜ焼かれる街とそうでない街があるのか。そんなの考えたって無駄なのだ。
 考えないこと。それが幸福なのだと俺が育った村の神父は言った。今は彼の気持ちがよくわかる。そしてきっと神の御心も。幸せになるためには何かを諦めなければならない。それが幸せの原理なのだ。そうでないものは巧妙に隠蔽された装置に過ぎない。
「きっとこれでいいんだよ」
 娘は俺を振り返った。俺は娘の方を見なかった。外がとてもいい天気だったから。
「これでいいんだ」
 そうですね、と娘が言って、俺の朝食を取りに空になったバスケットを持って一階へと降りていった。パンの焼けるおいしそうなにおいがする。とても心地のいい休息日だ。幸せはここにあるのだ。ずっと。きっと。