『兄ちゃんのちんちん』




 一人暮らしを始めた時、料理をしない俺を見て友達が残念そうだった。なんだ、一人暮らしというのはもっと自立していて、ちゃんとしていて、しっかりしたものだと思っていたと。だが現実は真逆で、俺は何を喰っていれば死なないのか覚え始めた。だからアクエリアスを6Lも買い込み、ひたすらに完全栄養食をボクサーのように補給し続ける。味も献立もどうでもよかった。死なないことが今の俺の最優先事項であり、最初から俺には酒飯女、すべて享しむ心のクリアランスが存在しなかった。俺の心は膨れ上がった内圧でパンパンだ。何をやっても楽しくない。30分で飽きてしまう。どこかべつのところにさまよいだしたくなる――帆船のように。
 だから俺はその夜も近所のスーパーに死なないための買い出しをしに来ていた。当たり前のように使い始めたクレジットカードで支払い、6Lのアクエリアスをレジ袋に突っ込んでは残りの品物をパズルのように組み合わせる。きっちり収まると気持ちがいい。そこにまったく生活の彩りがないことはわかっていたが、俺の人生に彩りがあった試しなどない。どこまでいっても空漠とした記憶しか思い出せない。充実や感動など底なしの砂に飲み込まれてどこかへいってしまう。俺は深夜のスーパーに出現するブラックホールだ。何も産み出さず、何も残さない。そんな鬱々とした気分の俺の隣で、若い男と中年ババァの店員が何かやりあっていた。俺は2パック200円のひじきをレジ袋に突っ込んでいる途中だった。
「あんたね、いい加減にして。ね、本当にいい加減にして」
 ババァがそう言うと何か若い男の方が何かもぞもぞと言い返したのが聞こえた。声は荒げていないが、不服そうな、自分には言い分があることをほのめかしている口調。聞き覚えのある弱者の喋り方だった。案の定、ババァは鼻で笑うと追撃に入った。
「わかってる? これ客商売なの。お客さんあってのあたしたちなの。どうするの、お客さんがみんなこんなだらしない店もう来ないってなったら。あんた責任取れるの?」
 男が言いよどむ。俺は味噌汁の12袋パックの詰め方に苦心している。
「本当にね、あたしもいい加減に我慢の限界だから。いい加減にして。ねぇちゃんと目合わせたらどう? こっちを見て仕事してくれます?」
 若い男――俺はようやくそっちをチラ見した。坊主頭で、がっしりとした体格(デブと巨漢の中間だ。俺とは違ってしっかりとした芯のあるオタクになれそう)の、20代前半らしき目の小さな男が、しゃがみこんで眼鏡で弱体化された表情を、虚脱したような能面にしてババァの話にうつむいていた
 もう勝負はついていた。この若い兄ちゃんはババァに何を言っても無駄だと悟っていた。あるいは自分はどう言葉を重ねても、この異物に自分の本心を伝えることは不可能だと無力さを学習してしまっていたとも言える。急に威勢よく、「はい、そうですね! 申し訳ありませんでした!」とハキハキと喋り始めた兄ちゃんを見て、俺は自分の顔が引きつるのがわかった。ババァはそんな兄ちゃんの謝罪などどうでもいいかのように聞き流し、仕事の指示を嘲笑まじりにばらまき始める。兄ちゃんがどんな気持ちで謝罪の言葉を吐いたのかなんて、この生きている価値もない生き物には永遠にわからないだろう。この閉経した旦那と子供の言いなりになるしかないクソみたいなパートで人生最期の時間を小銭に費やしている生まれてきた価値のない女もどきは、今、確かにメガネでデブの兄ちゃんの心を完膚なきまでに粉砕したのだ。なぜってこの兄ちゃんは、こんなゴミみたいなババァに罵倒されるために生まれてきたわけじゃないからだ。この兄ちゃんは少なくとも生まれた瞬間はとりあげた医者におめでとうと言われてこのバカげた世界に産み落とされてきたのだ。ちんちんつけて立派に生まれてきたのであり、こんな死に損ないの女に罵倒されて、気の遠くなるような失望と幻滅の中でこみあげてくる涙と格闘しながらレジ袋の整頓だかなんだか知らないがくだらん仕事をやるために生まれてきたわけじゃないのだ。いい女を抱いて気持ちよくなるために、自分の仕事に満足するために男は生まれてくるのだ。それをこんなカスみたいな仕事で傷つけられていいはずがない。誇りはそんなに安っぽくもなければセメダインでくっつけられるような便利な素材でもない。このババァはこの兄ちゃんがインポになったらどうするつもりなのだ? この兄ちゃんがオナニーしてぶちまける精子はこんなクソババァよりもよっぽど価値がある。なぜって誰も傷つけないからだ。相手の存在も、心も、無いも同然に扱うやつが生きていていいわけがあるか? この女はいますぐに指先一本ずつ切断され泣き叫びながら死ななければならない。この女は生まれてきたことを後悔しなければならない。この女は兄ちゃんのちんちんにごめんなさいをしなければならない。兄ちゃんは傷つけられるために生まれてきたわけじゃない。兄ちゃんは涙をこらえなければならないようなことを何ひとつしていない。くだらん仕事ができないからなんだというんだ? こんなくだらん仕事があるほうが間違っている。誰もがてめぇのケツはてめぇで拭けば世のコトはすべて済む。こんな閉経した女が長生きする世界は間違っている。少なくともこの兄ちゃんには負けるとわかっていても正々堂々とフェアな男の世界で戦ったり殺されたりする権利がある。こんな社会の底で窒息死させられていいちんちんなどどこにもない。この女は自分が何を破壊したのかわかっているのか? こんな生まれ損ないの女にいったい何がわかるというんだ? 俺は握りしめた拳で6Lアクエリアスの詰め込んだレジ袋を破りそうになりながら、防犯カメラに映っているであろう不自然に動きを止めて何かをこらえるように肩を震わせている自分を想像した。それは罪になるんだろうか? 息を止めて怒りを押し殺し、心の気を減圧しなければ今すぐ手の中にある6Lでクソババァを殴り殺してしまいそうな気分がした。メガネのデブの兄ちゃんは一心不乱にレジ袋となにやら格闘している。そしてその手つきが少し乱暴であることに俺は気づいていて、それが兄ちゃんの必死のSOSだということも俺はわかっている。俺は感じている。それはかつての俺であり、世界からはじき出された弱者の姿だった。女ごときが偉そうにいっぱしの男に指図する世界なんて絶対確実に間違っていて、それは俺たちをインポにしかねない重大な害悪だった。男が勃起しなくなる苦しさを閉経した女なんかにわかられてたまるか。
 今すぐ兄ちゃんにおまえは間違っていないと言いたかった。だが兄ちゃんはクソババァに呼ばれて小走りに店の奥へいき、そして俺には冷蔵庫に入れるべき明日の自分の身体の元がたくさんあった。よろよろとよろめきながらスーパーを出る。いったい自分が何に怒っていたのか、夏の湿気は教えてくれない。だがそれでも俺は叫ぶ。ふがいない俺は兄ちゃんを背中で見捨てながら、それでも叫ぶ。兄ちゃんは何も悪いことなんてしていない。おまえらこそ死ぬべきなのだと。なんの未練もなく、おまえらごとき、死ねばいいのだと。