VS.三角コーナー





 三角コーナーである。



 ご存知だろうか? 料理をするとはつまりゴミを出すという意味であり(決して我が母の料理が味見をせずに出される上にニンジンが生であるなどと言っているわけではない)、その果てにはいろいろなゴミが出される。野菜の皮、食い残し、汁物の汁などなど。我が家の常識は世間の非常識なので考えたくもないが世間様では違った体系が育まれているのかもしれない。が、私は私の世界で生きていく他なく、文句を言おうが帰ってくるのは「よそんちの子になっちゃいなさい」で、敗退は必至である。
 そんな私にも家事を手伝わねばならない時代がやってきた。そう、夢が出来た。私の夢とはつまり主婦だ。おなかが痛くなってもすぐトイレに駆け込むことができ、誰とも接さずに済む職業。私は主婦になりたい。
 その足がかりとして、三角コーナーの手入れを買って出た。無論、皿洗いを済ませた後である。長くなるので省くが、この皿洗い、私にとっては至福であった。お皿は喋らないのだ。なんと芸術的なことだろう。無口とは美徳である。



 で。
 我が家の三角コーナーはおそらく三日か四日置きに変えられているはずである。はず、というのは私の推測によるものだからだ。ひょっとすると一週間は変えないかもしれない。神も仏もなければ二週間そのままということもあるかもしれない。一ヶ月はたぶんない。そんなところだ。
 私がそいつと戦うことを一人決意した時、まず戦わねばならなかったのは異臭であった。
 くさい。
 冗談抜きでゲロをプリンにしようとして失敗したみたいになっている惨状だけでも目を覆う。それに加えて、このにおいは、まさにうんこ。コ・リズムに出て来るようなほんわかした概念のうんこではない。ガチのうんこであった。殺す気でかかってきてるうんこであった。そのにおいを嗅ぎ、バイト先のトイレで便器裏に張り付いていた下痢の塊を顔色ひとつ変えずに掃除し(人と話すよりマシだ)と思っていた私はとうとう自分の弱さに気がついた。
 勝てない。
 私はこいつに勝てない。
 気が萎えかける。なぜ私がこんなことをしなければならない? 放っておいたらお母さんがやってくれるじゃないか。見てみろ触っただけで指が溶けそうな按配じゃないか。一度ついたら三来世まで取れなさそうなにおいだぞ。
 それでも、私は勇気を奮い起こした。
 変えるだけ、変えるだけ。そう呟きながら三角コーナーを覆っている紙をつまみ、息を止めて燃えるゴミ箱深くへ葬り去った。
 地獄はそこからだった。
 汝が深遠を見るとき、深遠もまた汝を見ているという話は本当であった。
 三角コーナーを覆う紙とそこに捨てられた生ゴミは、地質学的に比較的新しい層であった。
 そう、本当の敵はその『下』にいたのだ。
 私は自らの手でそれを解き放ってしまった。
 におい。
 痛烈な、においであった。
 私はもう、アクエリオンEVOLの赤髪くんがくさいくさい言っても動じることはないだろうと思う。それこそ鼻で笑ってしまうだろう。おまえはほんとうのくささを知らない。ほんとうのくささとは、貴様の想像を絶し、二次元にあってはならない臭気を放ち、そして本気で吐くかもしれないと思わされるものだ。
 冗談抜きで顔を背けた。



 ラーメン、だったと思う。
 おそらくインスタントラーメンの残り汁および残り麺を捨てたからであろう。ラーメンが下にこびりついていた。いったいどんな魔術を使って紙を突破したのかはしらないが、ラーメンたちはあらゆる生ゴミの臭気を身にまとって、三角コーナーの素肌に張り付いていた。
 どろっとしてた。
 泣きたくなった。
 もういやだった。帰りたかった。自宅だった。どこへいけばいいのかわからなかった。お母さんは寝てた。妹も寝てた。起きていたのは私一人で、台所のムスペルヘイムを放置することもままならず、丸々一分間はそこで深遠を覗きこんでいたと思う。
 私は、それを銀色の柔らかいたわしみたいので掃除しようと思っていた。
 怠け者として名高い我が母に(お味噌汁をつくってくれない!)、我が主婦への願望、我が大学への絶望を知らしめるべく(ともだちがいない!)、私は銀の綿を手に立ち上がった。革命を起こさなければならない。私は家庭ニートへならなくてはならないのだ。働いたら負け、なのではない。働いたら私は死ぬ。トイレにいけなくて死ぬのだ。うんこをもらして死ぬのだ。それはいやだった。
 だから私はこれを掃除する。
 元々は銀色だったはずの三角コーナー、それが真っ黒に染まっている不思議について考えようとする脳味噌を黙らせ、銀色の柔らかいたわしみたいのに洗剤を垂らす。この洗剤、我が家の七つ道具のひとつでゴキブリだってぶっ殺したことがあるスゲー洗剤である。
 ぎゅぎゅっとたわしみたいのを揉んで、左手で三角コーナーをつかんだ。


 ぬるり、と。
 来た。


 このまま手を洗わないでパンとか食べたら絶対死んじゃう、そういう汚れが手についた。
 だが、その時、私は覚悟を決めた。
 冷静になり、指の一本二本腐っても構わないと腹がすわった。
 やり場を無くして一周した悲しみが怒りとなって私をいつも突き動かす。

 ジャジャジャジャジャジャジャジャジャジャジャ!!

 銀色の柔らかいたわしみたいので三角コーナーの底をこする。においがひどい。ほとんど顔をそむけながら、息継ぎをするように合間を縫って敵を見据えて攻撃を繰り返す。
 掃討作戦であった。
 電撃作戦でもあった。
 底の次は壁。ここも真っ黒だ。擦る。そこで私は光明を見出した。
 汚れが取れる。
 ひょっとすると運命のごとくその汚れは三角コーナーの金属質に融合を果たしているのではないか、という不安もあったがそれが解消された瞬間だった。我が家の洗剤はやはりスゲー洗剤であった。
 ただ厄介なことに、左手で掴んでいた縁がすべるすべる。そこをまず洗おうとすると持つところが外壁になり、未開の野蛮菌どもがウヨウヨしている。余計すべりそうだ。私は一計を凝らした。ひとたび雀荘に行けば鉄壁のオリで上家のオッサンに怒られるほど慎重派かつ策謀家の私にかかればちょちょいのちょいよ。
 掴んだ縁をしっかりと押さえ、流しの壁に三角コーナーを当て、固定。そのままごっしごっしとやってみた。
 安定。
 勝ったと思った。その好機を逃がす手はない。私はジャジャジャジャジャジャとあらゆる角度、あらゆる方位から三角コーナーを辱めた。彼女が鎧うあらゆる雑菌、あらゆる漆黒を剥ぎ取り蛇口さまの前にさらけ出させてやった。
「ひい! ば、ばかあんたなにやってるかわかってんの!? こんなことしてタダじゃ済まさないんだから……!!」
 そんなこと言ったって許さないのである。
 私の鼻はとうにお陀仏だ。冗談抜きで三角コーナーの底は犬のうんこの五倍は臭った。吐き気と気分不調で、ちょっとした二日酔い状態である。
 それでも私は諦められなかった。
 私は、主婦になりたいのだ。
 そのためならば、ああそうだとも、三角コーナーごときに負けてなんかいられない。こんな、(お母さんが)毎日ちゃんと変えていれば、(お母さんが)せめてゴミが溜まり次第変えてさえいれば、銀色のただの台所用品に過ぎなかったものに遅れを取っていてはいつまでも大学で単位(とお母さん)に怯えながら暮らさなければならない。
 そうともまだまだ道は遠く、ベランダの蜂も、水周りにきっといるであろうゴキブリも、依然として我が家に巣を作っており、こんなところで倒れてなんていられない。
 いつか、炊事洗濯、掃除に料理をこなせる人間になって、いい旦那さんを見つけてその人のお嫁さんにいくんだ。
 だから、
 またな。
 三角コーナー。






 私はお湯で三角コーナーを滝行の刑に処した。水の切れるような断末魔を残し、三角コーナーは銀色に戻った。
 万感の思いと共に手を洗って振り返ると、妹がこっちを見てにやにやしていた。
「お姉ちゃんさあ、うちの彼氏の友達が会ってみたいって言ってんだけど、家事できるようになったら紹介してあげるよ。金持ちだよ。主婦になれるよ。B専だよ。玉の輿なのだよ」

 な、
 な、
 なんですと?

 落下速度シータで舞い降りてきた幸運に畏怖を抱き、私は銀色になった三角コーナーに、静かに祈りを捧げた。







 古くから不浄は厄を呼ぶという。
 みなさんも、一度三角コーナーを掃除してみてはいかがだろうか。










 了