屍天交響曲





 世界の終焉は、予報もされずに訪れた。
 ブザーひとつ、鳴らなかった。




 テーブルのコーヒーは、あまりに苦すぎて冷めたまま放置されていた。ミルクと砂糖を取り忘れたせいだ。セルフサービスだったので、何も考えていなかった。ただ揺れる湯気が、いまの俺を示しているような気がする。
 誰でも入れる二十四時間営業のファミリーレストラン。店の表には四車線の道路が長く伸びている。車は俺がこのボックス席に座ってから、一台も通っていない。黄色く塗られた軽乗用車がアスファルトに黒い線を引いてコケていた。フロントガラスが砕け散って春の日差しをきらきらと照り返している。血の色は見えない。
 桃井がトイレからハンカチで手を拭き拭き戻ってきた。俺の対面に座ってニコニコ笑う。
「お待たせ。トイレ静かでちょっとビビっちゃった」
「……なんで?」
「なんの音もしないからさ。なんか、不安にならない? そういうの」
 俺は頬杖を突いて窓の外を眺めながら、ちょっと考えてみた。
「ならない、かな」
「そう? やっぱり君って、一人の方が好きなタイプ?」
「やっぱりってなんだよ」
「だって、なんか暗いし」
 桃井はなぜか嬉しそうに言って、すっかりぬるくなった自分のミルクを両手で挟んで、ずびずびと飲む。雲の隙間から日が差して、桃井の横顔を斜めに照らした。
 俺は、ぶすっとして言った。
「……世界が終わった日に元気があったら、ヘンだろ」
 そうだねー、などと桃井は適当な相槌を打ってくる。俺はその邪気のない表情を見ていると、初対面の相手に対して肩肘張って警戒しているのが馬鹿馬鹿しくなる。視線を逸らして、桃井が隣に置いているスクールバッグを見る。名札に「桃井美樹」とバランスの悪い字で書いてあった。嘘つきめ。
 名前なんてものは、人間の持ち物のはずだ。
 神様からの御使いに、そんなものはいらない。
「出よっか?」
「え?」
「ここ。もう飲まないでしょ、それ」
 桃井に指差されて、俺は改めて手元のコーヒーが自分のものだと思い出した。苦いだけの真っ黒な汁。俺はカップを手に取って、窓と座席の間にある植え込みにコーヒーをぶちまけた。
「わっ! いけないんだ、環境破壊」
「うるせえ。どうせ模造品じゃねえか、これ」
「そうだけどー。見栄えってあるじゃん。うわあ、なんか、ボートク的」
「どうでもいいだろ。いまさら」
 俺は立ち上がって、誰もいないレジの前を素通りして、外に出た。
 風が吹いている。
 桃井が後からついてきた。うーん、と背伸びをして、腕時計を見た。
「一時半かァ。これからどうする?」
「これから……?」
 俺は半ば魂を抜かれたような気分で、桃井のあどけない顔を見返した。これから? これからだと? そんなものは、神様の下っ端が考えればいいことだ。俺はもう何も考えたくないんだ。何も感じたくないんだ。
 世界が終わるなら、せめて静かに終わって欲しいと願うばかりだ。


 ○


 朝、目が覚めた時は、なんとも思わなかった。ただ、いつもより静かだなと思っただけだ。ベッドから出て、毎朝味わう眩暈と頭痛に五分近く耐えてから、部屋を出て居間に向かった。
 誰もいなかった。いつもなら、母がコタツに座ってテレビを見ているはずだったが、電気は消されたまま。俺の朝飯はどうなるんだろう。冷蔵庫には何も入っていない。さすがにちょっとムカついて、母を起こしにいった。もう少しで学校へいかなければならないというのに、朝飯も作ってくれないとはどういうことだ。
 だが、母の部屋はもぬけの殻だった。時計を見る。午前七時四十分。
 どこかへいく用事があるとも思えない。買い物にいったのだろうか? こんな朝から?
「くそ……なんなんだよ」
 俺はイライラしながら、結局カップめんを自分で作って食べることにした。大量に買い置きしてある、もう食べ飽きた、かといって他の種類に鞍替えする気にもなれない安牌のインスタント食品。薬缶に水を入れてコンロに火を入れた。そのままの流れで台所テーブルの上にあるリモコンを手に取り、ちょっと身を捻ってテレビを点けた。
「……は?」
 画面には、極彩色の映像が映し出されていた。ピ――ッ、という耳障りな音。放送休止状態だった。いったいどこのチャンネルだと思ったら、12チャンネルだった。時計を見る。
 嫌な気分がした。
 なんだか、自分が知らないところで、何かとんでもないことが進行しているような、そんな気分。何か致命的なミスをしでかしてしまったのに、それがなんなのか自分にだけ分からない時の、あの孤独な気分。
 ふと気づけば。
 月曜日の朝だというのに、外からはなんの音もしなかった。朝というのは、こんな静かなものだったろうか? 車の音、人の話し声もしないほどに?
 その後に喰ったカップめんは、人生で一番不味い朝飯だった。
 だが、べつに、その時は具体的に何が起こっているという考えはなかった。ただ嫌な気分だった。
 制服に着替えて、学校へいくことにした。
「……いってきます」
 返事がないことを知りながら、家を出た。制服のポケットに手を突っ込んで、アイポッドのイヤホンを耳に差し、俯き加減に歩き出す。
 見慣れた通り、汚らしいアスファルト。勝手に赤青点滅を繰り返す信号の下を誰も通らず、二十四時間営業のはずのコンビニエンスストアには店員の姿はなく、自動ドアは俺が前を通っても開かなかった。電源が落とされているらしい。
 通りに車の影は少なく、あっても路上駐車が目立った。運転手の姿はない。鍵がかかっているのかどうか、誰が見ているかわからないので開けてみる勇気はなかった。が、恐らくかかっていなかったと思う。学校が見えてくる辺りの十字路で、トラックが一台、横転して色とりどりの果物をぶちまけていた。果物は転落の衝撃を浴びたまま、放射上にアスファルトに転がり、拾われるのを健気に待っている。が、誰も拾わない。当たり前だ。誰もいないのだから。
 何かがあったのだ、ということは俺にもすぐにわかった。だが、どうすればいいのかわからなかった。携帯電話は圏外。ネットもメールも繋がらない。もっとも、俺がメールする相手なんて最初からいなかったが。
 歩きながら、この事態について考える。
 たとえば、関東全域に新種のウイルスがばら撒かれて、一般市民はみんな避難してしまった。だが、間の悪いことに実の母親からさえ忘れ去られる程度の価値の俺は取り残されて、残り数時間の寿命ということにも気づかずに一人この死の街をさ迷い歩いている。
 それならそれでいいと思った。寿命が残り数時間? だからどうした。どうせ生きていたって死んでいるのと大差ない。俺に希望があるとしたら、そのなんとかというウイルスがコロっと死ねる優しい病気であることだけだ。
 いつもなら生徒たちでごった返している校庭を突っ切って、俺は教室を目指した。時計を見る。八時十分。
 いつもなら絶対にありえない光景の中を歩いていく。時間が止まったような、静寂の中を。
 二年B組の教室には、案の定、誰もいなかった。
「誰もいない……」
 呟いてみる。今朝から何度同じ感想を持ったか分からない。だが、逆に言えば、人の姿がないだけで、世界はいつも通りだった。試しに電気を点けてみるとカーテンの閉められた教室の中がぽうっと光に満たされた。電気ガス水道、ライフラインはまだ生きているらしい。
 俺は自分の座席に座ってみた。カバンを置いて、机の中を見てみると昨日最後に使ったままだ。置き勉している教科書もノートも参考書も、すべて定位置。空前絶後の大災害があったにしては、変化がなさすぎる。
 俺は両手をつやつやした机の上に放り出して、ぼうっと中空を見上げた。カーテンが薄く開いている。そこからちょうど俺の座っている位置に一条の光が差し込んできて、俺の目を眩ませた。
「静かだな……」
 不思議と、俺は癒された。いつも学校へ来ては、一時間目が始まるまで寝たフリをしていた俺だが、今はそんなことをする必要はない。自由だ。両手両足をどう動かしても誰も奇異の目やくすくす笑いを向けてこないし、どんな顔をしていようと、百面相していたって自由だ。俺は、まるで何日もジャングルを彷徨い歩いた末に湯治場に辿り着いた陸軍兵士のような心地になった。このまま誰も教室に入ってこなければいい。永遠に。
 どれだけそうしていただろう。顔に刺さっていた光の槍が頬からすり抜けていってしばらく経ってからだろう。俺は屋上へいってみようと思った。普段は立ち入り禁止になっているが、誰もいない今なら、止めてくる者はいない。色気もへったくれもないセコムが作動しないのは廊下を堂々と歩いている俺自身で確認済み。職員室へいって鍵置き場から屋上のそれをひょいと取り上げた。もちろん、職員室もしわぶき一つしない沈黙が保たれていた。ただ、現国の小野の机の上に飲みかけのお茶だけが置いてあった。
「セント……何号だっけ」
 いまさら、どうでもよかった。
 俺はゆっくりと噛み締めるように階段を上って、屋上へ出た。鍵はまるでそう望んでいたかのようにするりと開いた。がちゃり、とペントハウスの扉を開けて、青空を目の当たりにした。
 屋上から見る空は、広かった。
 消しゴムで雑に消したような雲が、幾条も幾条も青空に線を引いている。耳元を優しくすり抜けていく風の音が、血流のそれにどこか似ていた。俺は目では捉えられない霊魂に手を引かれるように、一歩二歩と足を踏み出した。
 空が、深かった。
 手を伸ばせば、浮かび上がっていけそうな気がした。
 精神病院にいく必要なんてない。
 人間の心が病んでいるかどうか確かめたければ、素晴らしいものに触れればいいのだ。
 感動とは、狂気の発露に他ならない。
 俺は空の青にグッと来てしまって、泣きこそしなかったが、目が潤んだ。ああ、畜生。こんなに綺麗なのに。こんなに綺麗なものがあるのに、ここには今まで鍵がかけられていたのか。いったい誰がこの場所に鍵をかけようなんて言い出したのだ。死ねばいいと思った。この青さを今まで俺から奪っていた連中なんざみんな死ねばいいのだ。俺にとってこの青さは、ここから何人飛び降りて死のうが守らなければならないものだった。たかが人間の命一個二個より素晴らしいものが、あの青と白の縞模様の中にはあった。
「畜生……」
 口に出して呟いていた。まさか返事があるとは思わなかった。
「――今日、晴れてよかったね」
 俺は、心臓を握りつぶされたような気がした。そして同時に、猛烈な怒りに駆られた。今の俺は、誰とも接さない俺だったのだ。その俺に事前の断りもなく接触してくるやつは、敵だ。俺は睨み殺しかねない勢いで、声の主を振り返った。
 そいつは、ペントハウスの上に座っていた。
 少女だった。
 ぶらぶらと、足を振っている。ブレザーとスカートの色はダークブラウン。うちの高校のすぐそばにある、名門女子高の制服だった。あるのかないのかわからない胸のふくらみの上にある顔は、ニコニコと笑っている。作り物みたいに整ったショートカットヘアーに、銀色のヘアピンが一つ差し込まれていた。
「……誰だお前? ここで何してんだ」
 俺が言うと、その少女は「よっ」と掛け声ひとつで下りてきた。
「あたしは、空を見てたの」
 格好つけんじゃねえ、と思った。俺が見つけた空だ。お前が気に入っていい空じゃない。
 少女は身体のどこかにかゆいところがあるような顔をした。
「……うーん、物凄い剣呑な目つきをされている気がする」
「してんだよ」
「そんな敵視しないでよ。ま、パニックっていうか、神経過敏になるのもわかるけど。なにせ世界が終わっちゃったんだし?」
「……あ?」
 世界が終わった? 何言ってんだこいつ。
 ミサイル一発、落ちてきてねえってのに。
「だから、終わったの。全部ね。ここに来るまで、誰とも会わなかったでしょ? それが証拠」
「ふざけんな、そんなの……」
「じゃ、他の人たちはどこへいったっていうの? テレビはなんで何も放送してないの? 倒れてた車は? 放り出されたお店は? みんなどこいっちゃったの? まだ寝てるのかな? 確かめにいく?」
 少女は俺に詰め寄ってきた。
「君は、本当はもう分かってるはず」
「…………」
「感じてるでしょ? 本当は目が覚めて、その瞬間に分かったでしょ? 生き物だもん、人間だって。土壇場の直感は大抵が真実を突いてる。……君は、感じたはず。この世界が終わったっていうことを、あの静けさの中で」
「…………」
「ま、安心して? べつに君も死ぬってわけじゃないし。むしろ君は長生きすると思うし」
「……まだ信じるとは言ってないぞ」
「え、そうなの?」
 少女は「めんどくさいなあ」という顔をして、
「じゃ、これなら信じてくれるかな」
 そう言って。
 背中から、純白の翼を生やしたのだった。
「――――」
 俺は、驚くよりも、綺麗だと思ってしまった。
 ハトのよう、などとはとても言えない。
 白く、淡く、優しく、軽やかな羽毛に包まれた羽は雲を神の指先で整えたように精緻。手で触れようとすれば、溶けて消えてしまうのではないかと思える清廉さ。それは、生き物が触れられる清らかさではなかった。あらゆるものから隔絶された白い浄闇。それが少女の意思で、青い大気の中をばさり、ばさりとはためいている。
 俺は、自分がしりもちをついていることにもすぐには気づかなかった。
「お前……ホントに、天使、なのか?」
 少女は笑った。
「君が信じていてくれる限りはね。……あのね、あたし、君に手伝ってもらいたいことがあって、ここで君を待っていたの」
「お、俺を……?」
「そう。そのために、あなたは百億の人間の中から選ばれた。あなたはこの世界に残された、たった一人の人間なの」
「俺が……たった一人の……」
「そう」
 少女は俺の前にしゃがみ込む。翼がはためき、羽毛が雪のように降る。
「あなたは神様に選ばれた。あたしのパートナーとして」
「でも……俺はなにも……ただの高校生だし……な、なんで俺が……?」
「それは、神様の思し召しってやつ?」ウインクして、
「下級天使のあたしにも、もちろんただの人間の君にも、それはきっとどれだけ考えたって分からない。でもね、神様はいつだって何かお考えがあって、あたしたちに試練や任務を与えてくださる。あたしたちはただ、自分のつとめを一生懸命に果たしていればいいのよ。だから、君も何も考えないで? ただ、あたしの言うことを聞いてみて? 心を解き放って、何も考えず、気にせず、迷わず、ただ流されてみて……」
「…………」
 俺は、生唾を飲み込んだ。
「何を、すればいいんだ?」
 俺の言葉に、少女はパアッと顔を輝かせた。
「手伝ってくれるの!?」
「ま、まだ手伝うとは言ってねーだろ。とりあえず、あんたの仕事がなんなのかとか聞かないことには……」
「簡単だよ?」少女は小首を傾げた。
「あたしはね、記録をしに来たの」
「記録?」
「そう。世界は今日、終わった。その世界の終わりをあたしは記録する。このカメラで」
 いつの間にか、少女の手には一台のカメラが握られていた。ポラロイドの、インスタントカメラ。
「このカメラのフィルムは365枚。一日に、一度しか撮影できない。あたしは、あたしの心に従って、『あ、いいな。これ、神様に見せたいな』と思った風景を、撮るの。神様に、この世界の終焉の意味を教えるために。……ぶっちゃけると、それだけ」
「……それだけ?」
「そ。簡単でしょ? でもね、あたしが独りぼっちでこの世界を彷徨うのは可哀想だって、神様が言ってくれて。それで急遽、君だけは破滅を免れた。神様の元に帰るのを、猶予してもらったの。あたしのために」
 俺は鼻を鳴らした。
「……神様も俺のツラなんか見たくねえってことか」
「ちがうよー。なんでそんな穿った見方をするのかなー。普通に考えて、気に入らないやつを愛娘のパートナーになんかしないでしょ? 君は気に入られてたんだよ、神様に」
「……そうなのかな」
「絶対そうだよ」
 少女の使徒は、俺の手を取った。俺は、びくっと震えた。他人に触れられたことなんて、ほとんど初めてに近いほど、記憶にないことだったから。
「いこ? この滅んだ世界を。あたしと一緒にさ、何も考えず、何も気にせず、『いいな』と思えるところを探しに。……ね?」
 俺の拳を握る小さな両手が、ぎゅっと縮む。
「独りぼっちは、寂しいよ」
 俺の口が、何度も何度も反論しようと、開閉した。が、結局、何も言えなかった。
 天国まで続いてそうな青空の下で、純白の翼を生やした少女に手を握られて、その言葉に対して俺は、どうすることもできなかった。
 俺も、そう思っていたから。
 手を取り合って、立ち上がる。
「わかった。手伝うよ、あんたのこと」
「ほんと? ……よかった」
 はにかむように笑う少女から、視線を逸らす。
「……まァ、こんなところで独りでいたって、どうしようもないからな」
「うんうん」
「……チッ」
 なんだか、上手く乗せられたような気がしないでもない。
「そうと決まれば!」
 少女は、ペントハウスのそばに置いてあった自分のスクールバッグを肩に引っかけた。もう真っ白な翼は引っ込んでいる。
「いくとしますか。時間はたっぷりあるし? 君と十七年分の積もる話もしないといけないし」
「なんでだよ。俺の話なんてどうでもいいだろ」
「そんなことないよー! これからずっと一緒なんだし、君のこと知りたいし。パートナーなんだよ? もっと楽しんでいこうよ。旅行かなにかだと思ってさ」
「旅行ね……」
 まァ、ただ写真を撮るためだけに終わった世界を彷徨うなんていうのは、観光気分でも出来る仕事ではありそうだ。
 風に背中を押されるようにして、俺たちは死んだ世界の旅路へと、その第一歩を踏み出した。薄暗い校舎の階段を少女と二人、ゆっくりと噛み締めるように降りながら、俺はぼんやりと背後を振り返った。
 昨日までの俺に教えてやりたい。
 この世界には神も天使も、いるのだと。
 少しだけ、馴れ馴れしいやつだったけど。





                           to be continued...