みんなの椅子





 椅子があった。
 なんの変哲もない木製の椅子だ。
 四つの脚が磨かれたオークのビスで留められている。
 それが四つ、潤沢でもなければ枯渇もしていない、広大な土地に突き刺すように置かれている。
 風が吹き、背の低い草がそよぎ、その周囲に人がいた。
 十三人いる。老いたものもいれば若いものもあり、男もいれば女もいた。
 彼らは一様に崩れた泥を見るような目で、椅子とお互いを視界に入れたまま、妙な方向に首を固めていた。
 この椅子に座れば、全てを得る。
 この何もない、作ることもできない、無限の荒地の中で祝福される権利を手にするのだ。
 だが、椅子は四つしかない。
 だから彼らは、お互いを牽制し合い、絶えず目を走らせ、喉を鳴らし、無駄な力を肉体に溜めている。
 誰かが座ろうとすれば、必ず誰かがそれを阻もうとし、一度それが始まってしまえば、後はもう土砂崩れのように一気呵成に全てが破綻し、野蛮さがその空間に充満することは目に見えていた。
 誰もが椅子に座りたがり、そして誰もが座れない。
 カシムも、その中の一人だった。

 カシムは、木目の多い椅子の背もたれに手をついて、立っていた。
 その手首をくるっと返すだけで椅子はカシムに座ってもらうために振り向くだろうが、そうすればすぐ背後にいる二人の男と女がカシムの首を曲げてはいけない方向へ振り向かせるだろう。
 祝福に触れながらも、そこで終わりのカシムは、ずっと考え続けていた。
 なんでこんなことになってしまったんだろうか、と。
 そこに椅子があるのに、誰も座ることができない。祝福を受けて絶対感を得ることができない。
 しかし、それはそのまま座れない他の誰かに対する優越性になってしまう。
 椅子が十三あれば何もかも解決するのに、荒地に建材などはなく、ここには四つしかない……
 いくらカシムがその問いを口にしても、誰も聞かなかったことにするか、肩をすくめるか、急に怒り出すかのどれかだった。
 椅子が十三あればいい。
 答えはすでに、分かっているのに。

 いくつもの朝と昼と夜が流れた。
 いくつもの星と闇と光が過ぎ去った。

 そうしてカシムは一つの決断に達した。手をかけた背もたれにぐっと力を込めた。
 周りに気を配ってみたが、誰もカシムを見ていなかった。
 どう頑張っても破滅なしには手をかけられない椅子に座れる可能性、そのあまりにも稀薄な希望を捨てきれない彼らの気配が網のように痛かった。
 カシムは言った。
「やっと分かったんだ」
 すぐそばにいた、飴色の椅子のそばにいた男だけがカシムの方を見た。
「何が分かったんだ?」
 カシムは迷った。だが、やった。
「こうすればいいんだ」
 そうして、カシムは手をかけていた椅子の脚に、蹴りを叩き込んだ。
 椅子の脚はあっけなく折れ、ビスが砕けて弾け飛んだ。
 カシムはずっと考え続けていた。
 だから、いきなり椅子を壊したカシムに周りがどう動くかは読んでいた。
 一つ一つ、石を積み重ねていくように、それは確かな読みだった。
 高くなるたびに、アンバランスになるけれど、しかしカシムはそれをやった。
 踊るように平地を跳ね回り、ついに全ての椅子を誰にも触れられることなく破壊した。
 あとにはただ、壊れた椅子だけが残った。

 周囲の中で、一番歳を取った髭面の男がその場にへたりこんだ。
「なんてことをしてくれたんだ。これでもう誰も椅子には座れない」
 カシムは思った。
 最初から、誰も椅子になんて座っていなかった。
 だったら、椅子が壊れたところで、なんだというんだ?
 何も変わってなどいないのだ。
 何も……
 ただ座れるかもしれないという淡い欲望、それだけが永遠に砕け散っただけだ。
 おかげでもう、誰もお互いを牽制しない。
 ねっとりとした重苦しい絶望がのしかかってきたが、しかし、
「足があるじゃないか」
 カシムは言った。
「ぼくたちには足がある。自分の足が。椅子に座ることはできなくなったけど、その代わりに何の惜しげもなく、ここを歩いて立ち去れる」
「なんでそんなことをしなければならない。椅子に座れさえすれば歩かなくて済んだんだ」
「誰も椅子になんて座っていなかった。いまとさっきは同じだ。分からないのか?」
「……分からないのか? それはおれの言葉だ。おまえはひどいやつだ。あんまりだ。顔も見たくない。消えてくれ」
「椅子に座ることはできないんだ。その椅子の数が座りたい人間と均等でない限り、絶対に座ることなんてできないんだ。ぼくたちはもっと早く、それに気がつくべきだったんだ」
「おまえが何を言っているのかわからない」
「椅子なんてなかったんだ。ちがうか? 悪魔と呼んでくれてもいいよ、でもぼくは行く。歩いてここから出て行く」
 そう言い残して、カシムは歩き出した。
 しばらく経って振り返ると、まだ壊れた椅子にしがみついているのは数人だけで、もうほかの皆はカシムと同じように、あてもなく歩き出したらしかった。
 誰もカシムの方へはついて来なかった。
 自然と湿った吐息が漏れた。仕方ない。カシムは椅子を壊したのだ。
 みんなの椅子を……

 しばらくカシムは元気を失っていたが、大地を踏みしめるごとに返ってくる反動を糧にして、リズムとテンポを取り戻してその顔をあげた。
 眼前には、荒漠とした無限の地平が、どこまでも続いていて、
 そして、
 歩き続けない限りは、何もないのだった。