小悪魔短編





 姉貴の部屋を開けたら黒魔術の儀式が行われていた。
「…………」
 解き放たれた暗黒の世界に、俺はリビングの淵から困惑した。黒い遮光カーテンに真紅の高級蝋燭、そしてジョイントマットに蛍光チョークの粉で描かれた幾何学模様の魔法陣。鼻をくすぐるこの匂いはアロマキャンドルか何かだろうか。
 姉貴は、三高の制服を脱ぎもせずに俺に背中を向けたまま、しゃがみこんで何かをいじっている。首だけで振り向く。
「おお、愛彦か。ちょうどよかった。おまえちょっと全裸になれ」
 俺は姉貴の首を絞めた。おもむろにやった。
 ジタバタともがき苦しむノンフレームメガネっ子(17)。
「ぐっ、ぐるじい……なにをずるんだ」
「姉ちゃん、家の中で未知の液体を爆発させたり、怪しげな黒魔術の儀式しないって約束したよね? なにやってんの?」
「我が知的好奇心を取り締まることなど誰にも出来ぬわ!!」
 姉ちゃんは三回転半スピンして俺の拘束から逃れた。俺はちょっと掌を火傷した。元気すぎるコイツ。
 ずびしっ、と姉ちゃんは俺に指紋を放つかのように人差し指を突きつけてきた。
「いいか愛彦。この世界には不思議なことが沢山あるんだ」
「そうか」
「それを見ずして何が人生? どこがライフ? 私はたとえ二階の山下さんに何回怒られようとも、崇高なる科学の探求をやめはしない!」
 その山下さん(パチンコ屋の店長、二十七歳)に廊下で壁ドンされて半べそかいていたのはどこの誰だ。
「まァ、こないだみたいにハードロックを大音量で流したり、窓から紋章つきのブーメランぶん投げて山下さんのガンプラ壊したりしないだけマシだけどね」
「でしょ?」
 姉貴が艶っぽい笑顔を浮かべた。メガネをかけても外しても美少女なのは俺も認めるが、顔がちょっと綺麗だと何やっても許されるみたいに勘違いするのがよくない。
 俺はとりあえず、散らかりまくった姉貴の部屋の中に居場所を作って、適当に腰を下ろした。
「で、今日は何をやってんの」
「聞いて驚け見て笑え」
「俺は悲しい」
「――ふっ、馬鹿が、これはな、第三十八回悪魔召喚の科学実験なのだ!」
 えっへん、と胸を張るJK二歳。俺はそばに捨て置かれていたグリモワールをぺらぺらめくった。俺にはただのエロ本にしか思えない。
 俺は枯葉色の古びたエロ本を放り投げた。
「で、悪魔を呼び出してどーすんだ」
「えっちなことをする」
「うわあ」
 俺はかなり気の毒そうな顔をしていたのだろう。姉貴の頬がじわじわと赤くなった。
「ば、馬鹿野郎。そんなわけがあるか!」
「自分で言ったんじゃねえか」
「ジョークだ、ジョーク。それぐらいわかれ!」
 んな無茶な。妖精を降臨させようとしたり悪魔を召喚しようと本気でホームセンターに資材を買いに行くヤツの気持ちかわかりませんがな。
 姉貴はそこだけ生活感まるだしな自分の机に腰かけて、足を組んだ。薄暗い中、ほのかな火明りしか光がない部屋で、漆黒の制服を身に着けた姉貴こそ悪魔に見える。
「いいか愛彦。お前もな、夢を持たないとダメだぞ」
「姉ちゃん単位たりそうにないってホント?」
「その話はいまはいい」
 いや、ダメでしょ。家族会議でしょ。
「夢を追いかけて単位足りなくなるなら、俺はべつにいいや」
「そんな大学生みたいなことを言うんじゃない!」姉ちゃんに叱られた。
「愛彦、確かに私は――」
 姉ちゃんは人影色の髪をさっとかきあげた。
「学校ではちょっとシャシャった不良よりお前みたいに頭の使い方を間違えた変人の方がタチが悪いと、生活指導にたびたび呼び出されている程度の女だ」
「巻き添えで俺まで厳重注意されてるの知ってる?」
「知らんし気遣いとかしない」
 ただひたすらに最低。
「だがな、そんな私にも夢がある。いつかきっと、みんなが喜んでくれるような発明がしたい……そのためならどんな汚名も浴びよう。恥も受けよう。だが、諦めることだけはしたくない。わかるな……?」
「うん……まァ……いい話なんじゃん?」
「そうだろう、いいぞ。いい感じだ」
 何がだ。
「だからな愛彦。私は『やろう』と思ったことは最後までやるし、絶対に途中で投げ出したりはしない。そしていずれはお前にも、私の助手としてその信念を共有してほしいと考えている」
「いやです」
「特許はいいぞ~働かなくても食べていけるぞ~」
 両手をワキワキさせながら姉貴が下卑た笑みを浮かべて悪の道に勧誘してくるのどかな午後。
「ゴホン。ま、それはそれとして。今日は悪魔実験をやろうと思いました」
「そんな夕飯はハンバーグにしましたみたいに言われても……」
 ていうかさ、と俺は言った。
「姉ちゃんってやるやるって言って中途半端だよね」
「え?」
「さっきもなんか俺を全裸にするとか言って全然全裸にする気配ないし……」
「いや、それはだな……」
「本当にやりたいことやりたいんだったらやればいいんじゃね?」
「うっ……」
 俯く姉ちゃん。ちょっと言い過ぎたかな……でも聞いてくれよ。俺だってこんなこと姉ちゃんに言いたくないけど、かといってこのまま姉ちゃんがただのアホとして生きていくのも弟としては忍びないわけよ。あれでも子供の頃は神童といえば美崎紅蓮っていうくらいにチヤホヤされて、アメリカの有名大学から飛び級の誘いがあったり、プロジェクトXでその独創的なお絵かきが全国放送に乗ったりもした、まァ簡潔に言ってもウチの姉貴はちょっとデキが違うのだ。どこで道を踏み外したのかわからんが。
 もっとちゃんとしたとこでちゃんとした生き方をすれば、俺の姉ちゃんはスゲェ才能を発揮すると思うんだよな。それがいきなり帰宅した弟に脱げとかいう変態ですよ今は。弟としてはそれが悲しい。凄く悲しいのよ。
「だからさ、姉ちゃん。今からまじめに授業に出て大学いってさ、普通に生きていけって。それが一番いいよ」
「…………ナルのばか。死ね」
 そっぽを向いた姉ちゃんの口調が、出会った頃のそれに戻る。俺は組んだ足をもみもみしながらそれを聞いた。
「私は私のやり方でやってるの。ナルにはそれがわからないんだ」
「そうだね」 
 だって俺、べつに天才じゃねーし。
 あんたの気持ちなんてわかんねーよ。
 姉ちゃんはしばらく黙っていたが、やがて、
「ふっ…………ふふふふふふ」
 と笑い始めた。こわい。
「どうした姉ちゃん」
「ふふふふ……あーっはっはっはっは!! 愚かなり美崎愛彦! 貴様のようなボンクラに絆されるほど私は俗物ではないわ!」
「そうですか」
「やると言ったらやれと言ったな? いいだろう、お望み通りにしてやる!!」
「えっ? あ、ちょっとやめて、そんなん聞いてない!」
 暗闇の中で自棄になった姉ちゃんが俺に掴みかかって来た。やべえ、ちょっと泣いてる。叩きすぎたか。これだから豆腐メンタルはめんどくせえんだよ。
「おいやめろ! これは俺の一張羅だぞ!」
「お前みたいに要領のいいやつは全裸でも授業に出て単位取れバーカ!」
「落ち着いて姉ちゃん落ち着いて、あっ」
 ビリビリと俺のワイシャツを破き始める姉ちゃん。その様はほとんどバーゲンセールを戦い抜こうとする専業主婦のそれだ。
「いてえ! 爪を立てるんじゃねえ!」
「うるさいうるさいうるさい! お前なんかなあっ! お前なんかなあっ!!」
 その時、姉ちゃんの足がクッションを踏んで空転した。
「あっ」
 びりっ
 姉ちゃんの爪が俺の皮膚を結構ザックリと切り裂いた。
 あー。
 これ姉ちゃんが気にするくらい深くイッたなあ。
 などと俺はぼんやり考えていたのだが……そのすぐ後で起こったことを予想することは、当たり前だが出来なかった。
 暗闇の中で、そこだけ赤く色濃い血の滴がゆっくりと床の魔法陣の上に落ちた。なんとも安っぽい幾何学模様だったが、神秘な何かだけはしっかり宿していたらしい。
 耳を劈く音がして、姉ちゃんの部屋が爆発した。

 ○

 ケホンケホン。
 破れたブラウス一枚になった姉ちゃんが、顔を煤だらけにして茫然としていた。が、すぐに笑い出した。
「あはははははは。なにこれ」
「事故じゃないですかね」
 俺は姉ちゃんから見えないように、腕の傷を隠しながら答えた。いってぇー。あとでマキロン塗っとこ。
「いったい何があったらインチキ魔法陣が爆発したりするんだ」
 見上げれば、三階建てマンションの屋根が吹っ飛び、夕焼け空が広がっていた。
 爆風により半裸になった姉ちゃんは腕を組みながら考えこんだ。
「ふーむ。暴魔の精を呼んだ覚えはないのだが……」
「何? なんて?」
「魔物にも色々いるんだ。ネットに書いてあった」
「スタンドアローンで生きていってくんねえかなあ」
 俺がボヤいていると、外の道路から人のざわめきが立ち昇って来た。消防車のサイレンも聞こえる。ご近所迷惑もいいとこだ。申し訳ねぇ。
 姉ちゃんは壁があったところから顔を出して下界を見下ろし、またケタケタと笑った。
「なにこれ。おもしろい」
「明日から住むとこなくなるんだけどどこが面白いのかな」
「ふええ。ひゃへろ」
 俺が頬を引っ張ると姉ちゃんの顔が餅のように伸びた。
「――しかし、おかしいな」姉ちゃんは赤くなった頬をさすりながら言う。
「私の理論は完璧だったはずなのに……本来ならなんでも願いを叶えてくれる魔物が現れるところなのだが」
「気のせいだったんじゃん?」
「いや、そんなはずはない。私の理論は絶対だ。失敗しても何かが起こるはず」
「爆発したけど」
「何かが来るはず!」
 うちの姉は頑固だ。
 煤を払い落として、ため息をつく。
「なんてことしてくれたんだ姉貴。いまの衝撃で山下さんのガンプラ五体は壊れたぞ」
 姉貴はビビっている。
「こないだ壁ドンされてずるずるへたりこんだのに、性懲りもなくこんなことしやがって。これはもう売られるな。ばいばい姉ちゃん」
「やめろ!! なんとかして私を助けろ」
 言い草がひどい。
「ああ、もうだめだよ姉ちゃん。ドアが蹴破られる音が聞こえた。じきにここも腐海の底に沈む」
 襖が蹴破られた。
 山下さんは子供の頃にいじめられていて、トンカツを一緒に揚げようと誘われてノコノコ行ったら油をぶっかけられて顔面の半分に火傷を負った。しかしそのすぐあとでいじめっ子の鼻の穴にアツアツのトンカツをぶちこんで泣きながら自分で保険証を握りしめて病院いった猛者なので、簡単に言うと怒ると怖い。
 姉ちゃんはチビりかけている。
「や、山下殿。お怒りをお沈めくだされ」
「俺、夜勤明けなんだよね」
 こりゃ駄目だわ。目ぇ血走りすぎて涙出そうになってるもん。
「違うんです。これは違くて、全部愛彦がやれって」
「あっはっは、姉ちゃん人間として最低だなー」
 俺はすっと山下さんの影に隠れる。強いものは強い。小学生並みの戦略だぜ。
「紅蓮。お前ちょっとほんといい加減にしろよ」
「はい」
 正座する姉ちゃん。恐怖で超震えてるし、外から「火事かー!?」という叫びと共に消火活動が開始されて白っぽい消火液が姉ちゃんをべっとべとにしている。なんかもう本当に白濁液にまみれたただの下着姿の痴女なので、見ていてもののあはれを覚える。とりあえず写メった。
「山下さん、どうします。ここはしばらく足腰立たないようにしたほうがいいかと」
「ナル、お前は危険人物監督不行届で後でボコボコにする」
 ひどいや。俺はボコボコにされても生き残れるように準備運動を始めた。
「紅蓮」
「ふぁい」
 姉ちゃんはもう雪ダルマみたいになってる。自重で身体がすっげぇ斜めに傾いでいる姉ちゃんの肩を山下さんは優しくポンと叩いた。悲しい過去を背負ってはいても、山下さんはイケメンである。
「あのな、お前も女の子なんだから、ご近所に迷惑ばっかりかけてたらお嫁にいけねーぞ」
「……ふぁい」
「俺はいいよ。たとえ部屋が吹っ飛んでもガンプラ壊れるくらいだからな。ボコボコにはするけど、お前のことそれで許すよ」
 パンケーキを顔面に喰らったみたいになってる姉ちゃんの顔面でその目が悲しそうに瞬く。ボコボコは決定みたいだからね。仕方ないね。
「とりあえず、今日のことは水に流してやるよ。その代わりちゃんと学校いけよ。単位出そうにねえってコープで噂になってんぞ」
「……コープ潰す」
「やめろ。お前こんな田舎のどこで肉買うつもりだ」
「生協で買う」
「生協がコープだ」
 俺の姉ちゃんはIQ高い割にちっとも論理的ではない。
 山下さんは「お仕置きだぞ」とでも言うかのようにさりげない仕草で姉ちゃんの顎をデコピンで弾き昏倒させ、俺に振り返った。沈みかけた夕陽を滝のように浴びた色男にうかつにも俺はウホりかける。
「ナル、おめーが姉ちゃんを守ってやれって言ってんだろ」
 そう言って山下さんはぶっ倒れている俺の姉ちゃんを親指で指し示し、
「血が繋がってなくても、二人きりの姉弟じゃねーか。仲良くしろよ」
「……はい」
 正論すぎて冗談も言えそうにない。
 山下さんは「明日、友達の大工呼んで応急処置してやる」と言い残し、俺たちの家を去って行った。家といっても天井が吹っ飛んでいるので気分はもはやちょっとした居心地のいい公園みたいなもんだが。俺は姉ちゃんを引きずってリビングに移し、壁の穴には「火事じゃないでーす」と叫んで消防車に帰ってもらった。
 ソファに横たわる白濁液まみれの姉ちゃんを雑巾でぬぐいながら、その顔を見やる。
 かわいいよなー。
 美崎紅蓮。
 かの有名な美崎財閥の一人娘だったが、スキャンダルを暴かれた財閥が解体され、世間からバッシングを受け、都会では暮らせなくなった天才少女を俺の親父が引き取ったのが十年前。同い年の姉ちゃんが出来てどういう気持ちが自分に芽生えたのかまったく覚えていないが、いつの間にか、俺にはガキの頃から全然似ていない女姉弟があった。親父はいま「出稼ぎにいく」と称して失踪し、毎月キチンとお金が振り込まれる口座だけを残して、もう三年くらい会ってない。だからぶっちゃけ下の階の山下さんがだいぶ長いこと、俺らの兄貴分みたいなところがあって、そんな人からまで「守ってやれ」なんて言われると、守ってやらなきゃなーとは思う。
 思うんだけどなァ。
 寝言で「ボコボコはいやだあ。ひきずらないでえ」とうなされる紅蓮の額に濡れ雑巾を置いてやって、俺は壁の穴にブルーシートを張り巡らせることにした。
 凡人の俺には、天才との暮らしはちょっと荷が重いのだ。