それゆけ天馬くん!



 十歳になるまでは漫画を読んではいけない。
 そんな呪いじみたルールが馬場家にはあって、長男である馬場天馬も当然ながらその戒めを守らざるを得なかった。いま振り返ってみれば、これも天馬の人格を修正不能なまでにねじくれさせた原因のひとつだったろう。
 昭和の貧乏な学校だったら、悪ガキの誰かがジャンプ買ってそれを回し読みして、天馬もおとなしくしていればそのおこぼれに預かれたかもしれない。
 しかし世は平成、戦争が終わって垢まみれの手でイモ食ってた時代はとっくに終わっており、ジャンプは買ってもらえて当たり前、コミックスは揃えて当たり前、昔と変わっていない当たり前は、クラスの話題が漫画で持ちきりなことだけ。
 コンビニで立ち読みすればよかったのだが、天馬にはその勇気はまだなかった。しかしそれでも一念発起してセブンイレブンの自動ドアを潜ったこともあったが、ツイてないことにパートのババアがカネにもならん無益な義務感をもってして、ジャンプを立ち読みせんとした天馬をハタキで追い出してしまった。それが尾を引き、天馬はのちのちまでコンビニ店員に対して深い不信感を抱く羽目になる。



 学校の休み時間は地獄だった。
 天馬はぽつんと角側の席で次の授業の教科書をぱらぱらめくりながら、教室中央にできた人の島を羨ましそうに盗み見る。みんな知らない言葉で喋っている。やれナントカカントカが覚醒しただの、二巻ですでにコレコレシカシカの伏線はあったの、みんなとても楽しそうだ。天馬の知らない世界をみんな見ているのだ。
 諦めて不貞寝するほどにまだ人生に絶望しきってなかった天馬少年は、せめてもの突破口を見つけ出すべく、書店にいった。
 合法なのかどうか知らないが、書店では連載漫画の一巻だけを「試し読み」で読ませてくれるところがある。そこから先は買ってね、ということなので、無論天馬は二巻から先は読めないのだが、それでも一巻だけ知っていればしったかぶって話を合わせられるかもしれない。そうすれば、もう声の出し方を忘れなくても済むのだ。それは抗いがたい希望だった。
 試し読みコミックスを立ち読みしているときは、店員たちは天馬を睨むだけでなにも言ってこなかった。
 べつに試し読みが悪いわけではないのだが、どうも天馬のおどおどした卑屈な態度が店員たちの機嫌を損ねるらしく、店員どもは狭い本棚の隙間を動くときに決まって天馬に肩やケツをぶつけて歩いた。そのたびに天馬はつんのめって本棚に手をつかなければならなかった。まだその頃は、悔しさに目が潤むこともあった。



 どうにも天馬は妙なことに気がかかるタチであり、それが往々にしてトラブルの種になるのだが、それはこのときすでに萌芽しつつあった。
 ふっと見た実用書の棚の本が綺麗に背表紙を並べていた。それに手を伸ばし、つっと指で一冊の本の背を押すと背表紙がボタンみたいにへこむ。
 サイズが違う本をとりやすく、また見栄えがするように本棚の縁に揃えておいてあったのだ。
 だが、どうも天馬には、それが不自然に思えた。思えたのだから仕方もない。だから手の平で本を押して、小さな本を棚の奥まで押し込んだ。
 当然、棚はでこぼこになった。天馬は満足して頷く。
 天馬の感性からいえば、まだ押し込めるスペースがあるのなら埋めるべき、というのは誰にとっても自明の理であるのは間違いないし、自分は「いいこと」をしている、これは立ち読みしていることへのお詫び、くらいの気持ちだった。
 これがまずかった。
 そのおせっかいを初めてから七度目の入店で、漫画を読み終えた天馬はぐるっと店内のすべての棚をでこぼこにし終える前にバイトの紺エプロンに捕まった。
 バカにもほどがあるが天馬は腕をつかまれたときに、とっさに感謝されることを期待した。飴のひとつでももらうのが筋だと誤解した。
 七歳だった馬場天馬は、バイトの大学生に事務所の裏に連れていかれて乳歯が折れるほどぶん殴られた。
 顔の真ん中に血の花を咲かせて、呆然と巨人のような大人を尻餅をついて天馬は見上げた。
 大学生は涙目だった。
「おまえが……おまえがあんなことするから……おれのシフトのときばっかにやるから……おれのここでの評価はズタボロだっ! どうしておれの邪魔をするっ! おれはまじめに働いているのに……ボンボンのリア充どもよりずっと偉いのにっ! おまえがっ! おまえみたいなクズがいるからっ! 遊び半分で人の仕事の邪魔をするなァッ!!」

 手伝っているつもりだった。
 邪魔なんてしているつもりなかった。

 天馬は一言も弁明させてもらえずに、誰も通りかからない裏路地で雨が降り始めるまで殴られ続けた。
 打たれた肉が膨れ上がって熱を持っていた。
 誰も助けにはきてくれず、天馬は犬のウンコのカスを服にまとわりつかせて、這いずって家に帰った。
 父親に「めんどうだから雨で綺麗になるまでうちに入るな」と言われ、その通りにした。
 それから、十年の時が経った。




 天馬の前にフードを被った男が立っている。
 いくらかヒゲが伸びているが、あのときのバイトだ。目は血走り、手にはナイフを握っている。天馬はそれをじっと見ていた。
 二人は、いつかとはべつの裏路地にいた。汚い場所だ、灰色の地面にねずみの死骸とビール瓶が転がっている。
 男はひっひっと浅く息をつきながら、ぶるぶる震える手でナイフを握り締めている。
「てめえのせいだ……あのとき、てめえがあんなことをして、おれのバイト先での評価を落としたから……おれはカッとなって店長殴ってバイトやめて……十年経ってこのざまだ、おれはどこにいけばいい? 誰もおれを雇おうとはしない。誰もおれを求めていない。愛してもくれない。どうすればいい?」
「死ねばいいんじゃない?」
 天馬は下ろした右手をぎりぎりと蠢かせた。その唇はめくれあがって、目は男を透かしてその先にある濁ったものを睨んでいる。
 その剣幕に男が怯んだ。
 天馬は言う。
「誰にも求められていないなんてラクでいいな。いつでも死ねるし、誰でも殺せる。あんたは自由だ。正真正銘の自由人だ。でも、あんたにはそれを扱いきれない。だからいらつく、腹が立つ」
「か、勝手なことを……ぬかすなあっ!!!!」
 男がナイフを振りかぶって突進してくる。天馬は腰を低く構える。
 殺してやりたいと思われるのには慣れている。
 マラソン上等のスニーカーの底でビール瓶を蹴った。ごろごろと転がったビール瓶を男が踏みつけて体を泳がせる。天馬は慌てずに、ゆっくりとしかし力強く踏み込んで、男の鼻っ柱をぶん殴った。
 パッと血が暗い路地に飛び散る。男の鼻血と、殴った天馬の拳の血だ。
 男はよろめき、ナイフを落とす。
 天馬はやめない。
 そのまま前蹴りを男の腹に食らわせる。十年の怠惰が培った脂肪を貫いた衝撃が、男に反吐を戻させる。
 前かがみになった男の後頭部に容赦なくエルボー。
 男は自分の反吐のなかに突っ伏した。身体を起こそうとする手が痙攣している。
 天馬はやめない。
 短い悲鳴をあげる男にまだ抵抗の意志があることを目ざとく見抜く。勝つためなら人は負け犬にだってなる。よく知っていることだ。
 敵の髪の毛を掴んで壁に叩きつける。ぶちぶちと毛が根っこから抜け、男は泣く。そのまま男の横顔を壁に沿ってざッと擦らせた。
 皮膚の破れる嫌な音がして、男は地面に丸まった。亀になったまま動かない。
 天馬は後ずさる。
「殺されてたまるか……誰にだろうと……」
 くるっと背中を男に向けて、路地裏から駆け出す。脇目も振らずに光の中に飛び出す。
 眩しい光が目を焼いたが、その赤緑がかった強い光線の向こう側に、天馬はいつも、惹かれている。
 生き延びなければ、光だって浴びられないんだ。




                                      了
sage