人殺しの素養





 目の前に竹の水筒が突き出された時、俺は何も考えずにそれを毟るように奪い取って、こくこくと喉を鳴らして水を飲んだ。錆びた篭手を嵌めた手で口を拭い、一息つき、そこでふと、自分にはもう誰も味方がいないはずだということを思い出した。だが、そいつはそこにいた。その男は、俺と向かうでもなく、逸らすでもなく、斜めに抜けていく方角へ顔を向けながら、まだ血のにおいも新しい剣を研いでいる。顔は知っている。来る者は拒まず、裏切ることは常識という俺が作った、誰が頭でもない盗賊団に一年ほど前から加わっている男だ。どこかの城主の落とし胤らしく、気品のある顔立ちだったが、今は血と汗と泥で錆色になっていた。
 よく考えてみると、俺はこいつの名前も知らない。名前など、俺たちのような盗賊には必要ないから困りはしないが。どこかの城主が戦を起こしたところで、陣借りもできない素牢人に名乗れる名などない。
 とにかく一つ言えることは、俺は先の戦場から自分一人で逃げ出したのだ。誰も追いつけない速さで走ったはずだった。だから、俺の味方だったこの男が当たり前のようにここに座っているのは、おかしいのだ。俺は物怪でも見ているような気分になった。もしそうなら、斬り殺してみたい。
「おい」
 男が、ちらっと俺を見て、また愛剣の手入れに戻った。なにやら犬が吼えた、程度の扱いに俺は腹が立った。
「こっちを見ろ」
「見ただろ」
「見るだけじゃねえ。おい、手前はなんだ。何様だ」
 男が心底嫌そうに俺を見た。どうやら嫌われているらしい。なんとか、と仲間内では呼ばれていたはずなのだが、どうしても思い出せない。俺は、人を斬り殺した後は記憶がいつも曖昧になる。自分が生きているのか死んでいるのか、それすらもよく分からない。
「どっから来たんだ、手前」
「ついに呆けたか。お前と一緒にカラス谷から逃げてきたんだろうが」
「そんなはずはない」
「あ?」
「俺は、一人で逃げたつもりだった」
 一瞬、黙って、それから男が鼻で短く笑った。
「そりゃ残念だったな」
「……?」
「お前の足が一番速い、ってわけじゃなくてよ」
 だいぶ経ってから、俺は男の言った意味を理解した。だが、言われてみれば確かにそうだ。俺と一緒の戦場にいた男がいるということは、ただ俺と一緒に逃げてきたというだけなのだろう。俺と同じ速さで。
 あっけない解に、鉄腸の中に凝り固まっていた殺意が屁のように抜けて、俺はだらっと木に深々ともたれかかった。途端にすべてが阿呆くさくなったのだ。
「くそっ。もう少しで油屋の首が取れたのに」
「護衛に武者を殿様から借りたとは聞いていたが、あんな大陣を敷いているとはな。ほとんど動く城だったぜ」
「本当にな」
「お前もお前だ。突っ走りやがって、おかげで仲間がみんな死んだ」
「仲間?」
 俺は木にへばりついていた何かのサナギを指先で引っぺがすと、それを口に含んで噛み潰した。苦いが、滋養のありそうな味が舌に広がった。
「べつにどこぞの明神の前で杯交わして誓いを立てたって仲でもなし、どいつもこいつも己の我欲のままに人物を斬り殺して回ってる畜生どもだろうが。俺はあいつらなんかみんな嫌いだったぜ。死んじまって、せいせいすらァ」
「向こうも、お前のことをそう思っていたろうな」
「ああ。それでいいんだ。たかが俺が死んだぐらいでピィピィされたら鬱陶しくておちおち三途の川も渡れねえってんだよ。あの世の渡し守に笑われちまわァ」
「言うこた、いつも一人前なんだがな」
「なんだ。俺の何かが不足してるってのか」
 俺はパン、と自分の膝を軽く叩いた。
「こうして決死の戦場からも逃げ果せてきたってのによォ」
「よく逃げたと思うよ」男はなぜか俺を褒めた。
「お前はあそこで死ぬもんだと思ってた」
「ふざけろ。五人殺されれば俺たちに勝ち目はねえ。逃げるに決まってる」
「殺されたのが四人までだったら、勝てたのか」
「どうかな。でも、俺は退かなかったぜ。最後までやった」
「じゃ、五人目が死んでくれて幸運だったな」
「ああ?」
「俺は、一人殺された時点で逃げようと思った」
 へっ、と俺は鼻で笑った。
「そりゃ随分、弱気だな」
「弱いも強いもあるか。あんな大勢に勝つとなったらツキを頼りにするしかない。誰も殺されずに勝ち切るか、さもなきゃ逃げるか。どっちかだよ、ああいう場合」
「俺は押すね。ギリギリまで」
「お前はな」
「ふん――」
 俺は、鬱蒼と茂る木々の向こうに青く輝く月刃を見上げた。
「一人殺されて退いてたら、喧嘩はできない」
「それがお前の説法か」
「おちょくるな」
「おちょくってなんかない。いつだって、感心してるよ。でも――」
 男が、自分の剣に絡みついていた誰かの髪の毛を指でぴしっと弾いた。
「お前は、いつか死ぬね」
 俺は、月から鋭さを盗んだ眼差しを男に向けた。
「誰でもいつかは死ぬさ」
「そうだな。でも俺は死にたくない。それこそギリギリまで、生きていたい」
「それでも死ぬ時は死ぬ」
「そりゃそうだが、お前が死ぬ時は別の死因で死ぬよ」
「ああ――?」
 俺は居住まいを正した。
 ことと次第によっては、殴り合いになるからだ。
「どういうことだ。唄ってみな」
 男は俺と視線を合わせずに、まるで木々の向こうに知り合いでもいるかのように、遠くを眺めていた。その口がぼそりと動いた。
「覚えてるか、ミズナシ村のこと」
「……。ああ、あれか。スリバチ山のふもとの何もねえ村だろ。確か山賊に住み着かれて、男は殺され女は犯され、ずいぶんと景気のいい村だったな」
 俺は笑った。
「あの村長の顔は笑えたぜ。山賊をブチ殺して身包み剥いでいるだけの俺たちを『英雄』ときたもんだ。へっ、どこの坊主の説教をまじめに聞いてりゃそんな言葉を拾ってくるんだかな。――で、その村がどうした」
「あの村で、山賊の頭領が最後に村の娘を人質に取ったろう」
「取ったな」
 俺は、上手く言葉にはできなかったし、理解もできていたとは言えないが、なんとなく男の話の行く末が読めてきていた。
「それで?」
「お前は、あの娘を人質に取られて、剣を抜かなかった。俺たちにも、抜くな、と一言だけ言った」
「そうだったかな」
「結局、お前は近くの木から鳥が羽ばたいて、山賊の意識が一瞬逸れた瞬間にやつの懐に飛び込み、帯に挟んでいた匕首でその首をかききって、娘を無傷で助け出した」
 俺は腹筋が痛くなるほど笑った。
「褒めるなよ」
 男も、少しだけ笑った。そして言った。
「あの時、お前はそう遠くない内に死ぬ、と俺は思った」
「――――」
「なあ。俺たちは盗賊だ。名前なんかねえんだ。それなのにお前は、あの女の子を斬り殺してでも敵を倒そうとしなかった。なぜだ? たかが娘一匹の生命なんかどうでもいいじゃねえか。そんなものを後生大事に愛でていられるような一生は、俺たちにはないんだぜ」
「べつに、なにも、理由があったわけじゃない。ただ――」
「その理由がないってのがいけないって言ってるんだ。お前はな、いいか、甘いんだよ」
「甘い――?」
 俺は何気なく自分の両手を見下ろした。
 乾いた血で、元の肌が何色なのかも分からない。
 俺はそれを笑いながら男に見せつけてやった。
「どうやら俺は、立派な人殺しのようだぜ」
「ああ、そうだな。俺もそうだ」男も両手を広げて見せた。俺と同じ手をしていた。
「確かにお前は人を斬り殺すのが上手い。どんな刃毀れした光り物を渡しても、お前は必ず相手の首を獲ってくる。お前が武士で、敵国の将の首だけ獲ってくれば殿様によしよしと頭を撫でてもらえる立場だったら、その才能は誰にも動かせない唯一無二の天賦だったろうよ。けどな、どれだけ人を斬り殺すのが上手くても、お前は人殺しには向いてない」
 草叢で鳴いている虫の声が、やけに大きく聞こえた。
「――なかなか難しいことを言うな。俺が人殺しに向いてない?」
「ああ」男はじっと俺の目を見た。
「お前は、結局、殺したくないやつは殺さないんだ。誰が死んでもいいやなんて、本当は思っちゃいないのさ。どうでもいいやつが死んでも何も思わないが、生きていて欲しいなとちらりとでも思ったら他人だろうと国賊だろうとそいつのために剣を抜く。――そんなお前が善人でなくて、いったいどこの誰が善人なんだ」
「待てよ、待て待て、言ってることが無茶苦茶だぜ、手前」
「何がだ」
「仮に、仮に俺が善人だとして、手前はなんだ。手前が、ああいう風に気に入らねえやつに他人の娘を人質に取られたら、斬り殺すっていうのか」
「ああ」
 男は間髪入れずに答えた。
「俺は殺すよ。だから言ってる。お前は絶対に甘いのだ、とな。逆に聞くぜ。いま俺の話を聞いた上で、あの場面に戻れたら、お前は確実な安全のために二人とも斬り殺す道を選べるか? 絶対に生き延びなければならないんだぜ、俺たちは。最後の頼みの神様だって、俺たちにとっちゃ敵みたいなものなんだから。どうだ? 殺るか」
 俺は、
 ……答えられなかった。
 ただ、抱き寄せた剣の柄に、掌を当てていた。
 男が、僧のような顔になった。
「悪いことは言わない。お前はもうこの稼業から足を洗えよ。どこかの村の厄介にでもなればいいんだ。最初は畜生の糞を投げつけられるかもしれない。それでも我慢して耐えていれば、いつかは家の隅っこで麦を食むぐらいのお目こぼしはしてくれるはずだ。いざとなれば、その剣の腕もあるわけだし――」
「それは手前の話だよ」
 俺は殺すつもりで男に言った。刃物ではなく、言葉で。
「手前にできることが、俺にもできると思うな」
「――そうかな」
「買いかぶるな。人殺しが向いてない? そうかもな、確かにそうだ。言われてみれば俺には弱点もあれば失策もある。神様頼みに出来るようなツキもない。手前の言うとおりだよ。俺はただの盗賊だ。けどな――俺は手前がつらつらと挙げたような生き方はできねえんだ。ただ剣で生きてきた。他は知らない」
「それが甘えだというんだ。お前なら、どんなところでも生きていける。生きていかなくちゃいけないんだ」
「ハッキリ分かったよ。お前は人殺しに向いてる。なぜなら、手前は生きたがるからだ」
「――何?」
「手前は生きたくて仕様がねえんだ。だが俺は違う。俺には生も死もない。ただ剣を抜いているか、収めているか、それだけだ。その二つだけが俺のすべてだ。他にはないんだ。ただ、その剣にまとわりついたいろんなものが、俺に剣を抜かせたり、抜かせなかったり、手前の言うようにくだらねえ娘っ子を助けた挙句に何も奪わず村から出て行くなんて高尚な坊主みてえなことを俺にさせちまう。だが、それも含めて俺の剣、俺だけの剣なんだ」
 いつの間にか、二人とも、汗をかくほど大声で話していた。なぜ、俺はこいつに向かって剣を抜いていないんだろう――そう思わず疑問に思ってしまうほどの熱気が、森の中に満ち満ちていた。まともな神経をしている小動物はすべて逃げ出してしまっていた。死のような静けさが、夜の森を覆っていた。
 男が、すっと殺気を散らした。眩しいものでも見るように、夜空を見上げた。
「やるか? そろそろ」
 と、俺に言った。
 俺はボロキレ同然の衣の裾を払って立ち上がった。草鞋は逃げている間に片方が脱げて、どこかへいってしまっていた。
 そうだな、と俺は男に言った。
「もうすぐ、夜も終わる」
 その時、すっ……と音が聞こえるような素早さで、森の端から光が走り抜けてきた。東の淵で燃えながら競り上がってくる熱球を見て、俺は目を細めた。剣を抜き払った鞘を、梢に捨てた。男も、鏡合わせのように、剣を抜いた。解き放たれた双刃が黄金色の光で濡れ輝いた。八双に構える。柄を命綱のように握り締め、そして赤子の手を揉むように力を抜く。踏み込んだ足が風を潰した。二条の剣閃が虚空を走った。勝負はほんの一瞬で着いた。
 太陽よりも赤々とした体液が、生き残った男の剣の先から滴り落ちた。
 いつまでも、滴っていた。
sage