改竄:『シャーロック・ホームズの思い出』



『注意書き』

 以下の短編は『シャーロック・ホームズの思い出』を元に書かれたものです。
 ちょっと前に『ファウスト』のパロディを書きましたが、あんな感じです。
 ネタバレがあるというか、ネタバレしかないので、気にしないよっていう人以外は、原作を読んでからこっちを読むのをオススメします。
 それではどうぞ。(あご)














『断章;最後の事件』


 僕のねぐらに一人の男がやってきた。無断でだ。ハドスン夫人はどうしたのだろう、と僕は疑問にさえ思わなかった。悪とは、木漏れ日から滴る陽光のように、隙間を縫って降ってくる。太陽と違うのは、それが夥しい汚辱に塗れていることだけだ。
 僕がお気に入りの肘掛け椅子に腰かけたまま、パイプをふかし、じっと見つめていると、侵入者はステッキをコツ、コツ、と鳴らしながら、暖炉のそばの明るみにその姿を現した。
 僕も骨相学にそれほど詳しいわけではないが、大きく突き出た額、広く深く神のような厳格さに満ちた顔、落ち窪んだ眼窩から覗くナイフのように切れ味のある眼光などを見れば、彼が知恵と知識を授かって生まれた一つの奇種、天才児であることはすぐに感じ取った。書棚から紳士名鑑を引っ張り出すまでもない。伝統あるイギリスの数学史にその名と栄光を刻んだ男――ジェームズ・モリアティ教授だ。
 そして同時に、このロンドンに蔓延っているあらゆる悪の元締め……僕の宿敵。
 だが、実際に会うのは初めてだった。
「君かね」
 モリアティはしゃがれた声で言った。
「ロンドン市街にその名を馳せた名探偵――シャーロック・ホームズというのは」
「自ら名乗った覚えはないんですが、そういうことになっていますね」
「その銃はしまえ」
 僕はコートのポケットの中で握っていたピストルから手を離した。ゆっくりと、素の両手を引っ張り出す。モリアティは不機嫌そうに僕の所作を見ていた。
「手癖の悪いやつだ。紳士とは言えんな」
「あんたには言われたくないですね……特にこの二週間で八人もの罪なき夫人を事故死・病死・自殺に見せかけて殺し、その倍の数の子供を切り裂いた男にはね」
「君が邪魔をしなければ、その数はもっと増えるはずだった」
 モリアティが、暖炉の火を見ながら、煙と消えた己の計画を追想するかのように言った。
「勘違いしないで欲しいが、私はべつに殺人鬼ではない。これは私の仕事なのだよ。必要な時に、求められた量の死を、武器や毒薬や殺人者として送り込む。その報酬として、金をいただく。……何か間違っているかね?」
「数学の学術書には、正義が記載されていないようですね」
「では君の脳髄には正義の定義がインプットされているのかね。確実に?」
 僕は微笑んだまま、何も言わなかった。
 モリアティは興味なさそうに僕の部屋を見渡した。他人から見れば、ブンゼン灯や実験用のレトルトや様々な薬品が散らばっている僕の部屋は、化学者の部屋にしか見えまい。
「用件は一つだけだ」
 モリアティは、僕の部屋が黒板に見えているかのように、己の悪を読み上げた。
「これ以上、私の仕事の邪魔をするな」
 僕は微笑みながら、生唾を飲み込んだ。苦い味がした。
「……嫌だと言ったら?」
 モリアティが僕を見た。
「殺す」
 僕は笑った。
「犯人が犯行前に自白するようになっては、僕もいよいよ失業だな」
「このロンドンに私立探偵など必要ない。私は悪かもしれないが、悪には悪の流儀がある。同じ穴の狢になる勇気がない者は、自分の部屋に引きこもってコカインでも打っているといい」
 モリアティが、じっと僕を見つめてくる。
「あくまでやる気かね」
「……もちろん」
「そうか」
 モリアティは急にそれまで放っていた殺気を消して、背中を向けた。僕はドアを開けて出て行こうとするモリアティを、彼が今まさにこの僕を撃とうとしているかのように細心の注意を向けながら、見守った。神経の削られる時間だった。
 ドアから半身を滑り込ませながら、思い出したように、モリアティが言った。
「私にはわからないな」
「何がです?」
「もっとも優秀な悪党になれる男が、こんなところで燻っている理由がだ」
 それだけ言って、モリアティ教授は去っていった。
 後には、暖炉が爆ぜる音が小さな拍手のように残っただけだった。室内を赤く照らし炎の揺らめきを、肘掛椅子から見下ろしながら、僕はしばらく、本当に久々に、長く考え込んだ。

 モリアティの言っていることは正しい。
 彼は、恐らく僕を殺すだろう。僕が練りに練ってこのロンドンに張り巡らされた、やつら一派を根絶やしにする知恵の網は、明後日――月曜日までには、彼らを捕縛するだろう。
 だが、その前にモリアティは僕を殺す。
 いま立ち去っていったのは、まだ僕の包囲網が自力で切り抜けられる程度のものだとタカをくくったからだ。いまここで僕を不用意に殺せば、その瞬間にモリアティ専用の網がこのロンドンに即刻展開する可能性もある――だからやつは、あくまでこの奇妙な会談だけで終わらせたのだ。僕とやつにしか聞こえない囁き声で。
 そして、この夜が明ければ、モリアティは自分が絶対にもう逃げられないことを悟り、復讐と逆転を狙って僕を殺しに来るだろう。その追走劇がどれほど長く続くのか、僕にもわからないが、終わり方はもう知っている。
 僕か、やつか、どちらかが死ぬのだ。
 ……僕は、両手の指先を突き合わせて、目を閉じた。
 たったひとつだけ、冴えたやり方がある。そのやり方を取れば、僕も、やつも、死なずに済み、この霧深いロンドンの町は、昨日までと何も変わらない日々を取り戻すだろう。簡単だ。
 このシャーロック・ホームズが、モリアティ教授の軍門に下ればいい。
 たったそれだけのことで、何もなかったことになる。ロンドンはこれからも『犯罪都市』の汚名を恥じもせずに、栄光と発展と罪業の日々を送るのだろう。
 突き合わせている、僕の手は震えていた。
 英国紳士としてあるまじきことだとは分かっているが、僕は、正義のために殉死するのが怖かった。たとえ今のこの生活が、迷い込んでくる謎を撃ち落とし、それを依頼人や警察に解決して手渡すほかは、せいぜいコカインを打つぐらいが楽しみの、味気ないものだとしても……僕は死ぬのが怖かった。
 この恐怖に苛まれて、この夜を過ごすくらいなら、正義を裏切った方がいい。
 そんな弱音が、悪魔のように僕の耳元で囁き続けた。その声は僕のそれにそっくりだった。知らずと呟いていたのかもしれない。
 僕はワトスン君のことを考えた。
 僕の元同居人であり、助手であり、そして親友。彼は僕の解決した事件がきっかけで結婚し、いまはロンドン市街に開業医として暮らしている。
 モリアティがこのままのさばり続ければ、いつかその毒牙はワトスン夫妻にも及ぶかもしれない。悪が充満すれば、この世界から追放されていくのは善良な人々ばかりだ。
 僕の指先の震えは、次第に収まっていった。
 いまの君の動機は正義かと聞かれれば、僕は違うと答えるだろう。それもあるが、それだけでは僕はあの男に屈服していただろう。では友情か。ほとんどそれと言ってもいいが、それだって正確じゃない。
 不思議な気持ちだった。
 ただ脳裏をよぎるのは、これから待ち受ける冷たい運命のことではなく、いままで過ごしてきた日々だった。僕がいて、ワトスン君がいて、いまは空になっているあの椅子に腰かけて、僕からすれば明瞭な問題をいつまでもウンウン唸って考え続けていた、あの時間……
 おかしな話だ。
 結果から過程を推理してみせるのが、本物の推理家だと標榜していたこの僕が、自分自身の行動の動機すら解き明かせないとは。
 くすくす笑って、僕は立ち上がった。
 懐中時計を胸元から取り出す。時刻は遅いが、まだやるべきことは残っている。無駄な足掻きかもしれないが、諦めるにはまだ早い。僕とあの男の無言の闘争が本当に始まるのはこれからなのだ。
 ポケットからピストルを取り出し、以前に僕が壁に弾痕で記した『V.R.』の文字の下に、景気づけに一発ぶっ放した。硝煙たなびく銃口を軽く振って消してから、マントルピースの木枠に突き刺しておいたナイフを引き抜き、そこからひらりと舞い落ちた、レストレード君から引き受けていた個人的な依頼が記されていたメモを足で払って燃え盛る暖炉に送り込んだ。毎週末に彼がカードで負け続けるのはなぜかなんていう謎をわざわざ口で解決してやるほど僕はお人好しではない。
 住み慣れた、ベーカー街221Bを通りから見上げる。あまりにもロンドンの霧は深くて、僕がさっきまで部屋はうっすらと灯明が見えるほかは、暗闇に飲み込まれていた。暖炉の火が消えれば、それは完全なものになるだろう。
 僕は帽子のつばを目深に下げた。
 動機、動機か。

 こう書けばよかったのかもしれない。
 僕の動機は、これから始まる対決に臨んだ理由は、
『思い出』だと。
sage