小悪魔短編





 姉貴の部屋を開けたら黒魔術の儀式が行われていた。
「…………」
 解き放たれた暗黒の世界に、俺はリビングの淵から困惑した。黒い遮光カーテンに真紅の高級蝋燭、そしてジョイントマットに蛍光チョークの粉で描かれた幾何学模様の魔法陣。鼻をくすぐるこの匂いはアロマキャンドルか何かだろうか。
 姉貴は、三高の制服を脱ぎもせずに俺に背中を向けたまま、しゃがみこんで何かをいじっている。首だけで振り向く。
「おお、愛彦か。ちょうどよかった。おまえちょっと全裸になれ」
 俺は姉貴の首を絞めた。おもむろにやった。
 ジタバタともがき苦しむノンフレームメガネっ子(17)。
「ぐっ、ぐるじい……なにをずるんだ」
「姉ちゃん、家の中で未知の液体を爆発させたり、怪しげな黒魔術の儀式しないって約束したよね? なにやってんの?」
「我が知的好奇心を取り締まることなど誰にも出来ぬわ!!」
 姉ちゃんは三回転半スピンして俺の拘束から逃れた。俺はちょっと掌を火傷した。元気すぎるコイツ。
 ずびしっ、と姉ちゃんは俺に指紋を放つかのように人差し指を突きつけてきた。
「いいか愛彦。この世界には不思議なことが沢山あるんだ」
「そうか」
「それを見ずして何が人生? どこがライフ? 私はたとえ二階の山下さんに何回怒られようとも、崇高なる科学の探求をやめはしない!」
 その山下さん(パチンコ屋の店長、二十七歳)に廊下で壁ドンされて半べそかいていたのはどこの誰だ。
「まァ、こないだみたいにハードロックを大音量で流したり、窓から紋章つきのブーメランぶん投げて山下さんのガンプラ壊したりしないだけマシだけどね」
「でしょ?」
 姉貴が艶っぽい笑顔を浮かべた。メガネをかけても外しても美少女なのは俺も認めるが、顔がちょっと綺麗だと何やっても許されるみたいに勘違いするのがよくない。
 俺はとりあえず、散らかりまくった姉貴の部屋の中に居場所を作って、適当に腰を下ろした。
「で、今日は何をやってんの」
「聞いて驚け見て笑え」
「俺は悲しい」
「――ふっ、馬鹿が、これはな、第三十八回悪魔召喚の科学実験なのだ!」
 えっへん、と胸を張るJK二歳。俺はそばに捨て置かれていたグリモワールをぺらぺらめくった。俺にはただのエロ本にしか思えない。
 俺は枯葉色の古びたエロ本を放り投げた。
「で、悪魔を呼び出してどーすんだ」
「えっちなことをする」
「うわあ」
 俺はかなり気の毒そうな顔をしていたのだろう。姉貴の頬がじわじわと赤くなった。
「ば、馬鹿野郎。そんなわけがあるか!」
「自分で言ったんじゃねえか」
「ジョークだ、ジョーク。それぐらいわかれ!」
 んな無茶な。妖精を降臨させようとしたり悪魔を召喚しようと本気でホームセンターに資材を買いに行くヤツの気持ちかわかりませんがな。
 姉貴はそこだけ生活感まるだしな自分の机に腰かけて、足を組んだ。薄暗い中、ほのかな火明りしか光がない部屋で、漆黒の制服を身に着けた姉貴こそ悪魔に見える。
「いいか愛彦。お前もな、夢を持たないとダメだぞ」
「姉ちゃん単位たりそうにないってホント?」
「その話はいまはいい」
 いや、ダメでしょ。家族会議でしょ。
「夢を追いかけて単位足りなくなるなら、俺はべつにいいや」
「そんな大学生みたいなことを言うんじゃない!」姉ちゃんに叱られた。
「愛彦、確かに私は――」
 姉ちゃんは人影色の髪をさっとかきあげた。
「学校ではちょっとシャシャった不良よりお前みたいに頭の使い方を間違えた変人の方がタチが悪いと、生活指導にたびたび呼び出されている程度の女だ」
「巻き添えで俺まで厳重注意されてるの知ってる?」
「知らんし気遣いとかしない」
 ただひたすらに最低。
「だがな、そんな私にも夢がある。いつかきっと、みんなが喜んでくれるような発明がしたい……そのためならどんな汚名も浴びよう。恥も受けよう。だが、諦めることだけはしたくない。わかるな……?」
「うん……まァ……いい話なんじゃん?」
「そうだろう、いいぞ。いい感じだ」
 何がだ。
「だからな愛彦。私は『やろう』と思ったことは最後までやるし、絶対に途中で投げ出したりはしない。そしていずれはお前にも、私の助手としてその信念を共有してほしいと考えている」
「いやです」
「特許はいいぞ~働かなくても食べていけるぞ~」
 両手をワキワキさせながら姉貴が下卑た笑みを浮かべて悪の道に勧誘してくるのどかな午後。
「ゴホン。ま、それはそれとして。今日は悪魔実験をやろうと思いました」
「そんな夕飯はハンバーグにしましたみたいに言われても……」
 ていうかさ、と俺は言った。
「姉ちゃんってやるやるって言って中途半端だよね」
「え?」
「さっきもなんか俺を全裸にするとか言って全然全裸にする気配ないし……」
「いや、それはだな……」
「本当にやりたいことやりたいんだったらやればいいんじゃね?」
「うっ……」
 俯く姉ちゃん。ちょっと言い過ぎたかな……でも聞いてくれよ。俺だってこんなこと姉ちゃんに言いたくないけど、かといってこのまま姉ちゃんがただのアホとして生きていくのも弟としては忍びないわけよ。あれでも子供の頃は神童といえば美崎紅蓮っていうくらいにチヤホヤされて、アメリカの有名大学から飛び級の誘いがあったり、プロジェクトXでその独創的なお絵かきが全国放送に乗ったりもした、まァ簡潔に言ってもウチの姉貴はちょっとデキが違うのだ。どこで道を踏み外したのかわからんが。
 もっとちゃんとしたとこでちゃんとした生き方をすれば、俺の姉ちゃんはスゲェ才能を発揮すると思うんだよな。それがいきなり帰宅した弟に脱げとかいう変態ですよ今は。弟としてはそれが悲しい。凄く悲しいのよ。
「だからさ、姉ちゃん。今からまじめに授業に出て大学いってさ、普通に生きていけって。それが一番いいよ」
「…………ナルのばか。死ね」
 そっぽを向いた姉ちゃんの口調が、出会った頃のそれに戻る。俺は組んだ足をもみもみしながらそれを聞いた。
「私は私のやり方でやってるの。ナルにはそれがわからないんだ」
「そうだね」 
 だって俺、べつに天才じゃねーし。
 あんたの気持ちなんてわかんねーよ。
 姉ちゃんはしばらく黙っていたが、やがて、
「ふっ…………ふふふふふふ」
 と笑い始めた。こわい。
「どうした姉ちゃん」
「ふふふふ……あーっはっはっはっは!! 愚かなり美崎愛彦! 貴様のようなボンクラに絆されるほど私は俗物ではないわ!」
「そうですか」
「やると言ったらやれと言ったな? いいだろう、お望み通りにしてやる!!」
「えっ? あ、ちょっとやめて、そんなん聞いてない!」
 暗闇の中で自棄になった姉ちゃんが俺に掴みかかって来た。やべえ、ちょっと泣いてる。叩きすぎたか。これだから豆腐メンタルはめんどくせえんだよ。
「おいやめろ! これは俺の一張羅だぞ!」
「お前みたいに要領のいいやつは全裸でも授業に出て単位取れバーカ!」
「落ち着いて姉ちゃん落ち着いて、あっ」
 ビリビリと俺のワイシャツを破き始める姉ちゃん。その様はほとんどバーゲンセールを戦い抜こうとする専業主婦のそれだ。
「いてえ! 爪を立てるんじゃねえ!」
「うるさいうるさいうるさい! お前なんかなあっ! お前なんかなあっ!!」
 その時、姉ちゃんの足がクッションを踏んで空転した。
「あっ」
 びりっ
 姉ちゃんの爪が俺の皮膚を結構ザックリと切り裂いた。
 あー。
 これ姉ちゃんが気にするくらい深くイッたなあ。
 などと俺はぼんやり考えていたのだが……そのすぐ後で起こったことを予想することは、当たり前だが出来なかった。
 暗闇の中で、そこだけ赤く色濃い血の滴がゆっくりと床の魔法陣の上に落ちた。なんとも安っぽい幾何学模様だったが、神秘な何かだけはしっかり宿していたらしい。
 耳を劈く音がして、姉ちゃんの部屋が爆発した。

 ○

 ケホンケホン。
 破れたブラウス一枚になった姉ちゃんが、顔を煤だらけにして茫然としていた。が、すぐに笑い出した。
「あはははははは。なにこれ」
「事故じゃないですかね」
 俺は姉ちゃんから見えないように、腕の傷を隠しながら答えた。いってぇー。あとでマキロン塗っとこ。
「いったい何があったらインチキ魔法陣が爆発したりするんだ」
 見上げれば、三階建てマンションの屋根が吹っ飛び、夕焼け空が広がっていた。
 爆風により半裸になった姉ちゃんは腕を組みながら考えこんだ。
「ふーむ。暴魔の精を呼んだ覚えはないのだが……」
「何? なんて?」
「魔物にも色々いるんだ。ネットに書いてあった」
「スタンドアローンで生きていってくんねえかなあ」
 俺がボヤいていると、外の道路から人のざわめきが立ち昇って来た。消防車のサイレンも聞こえる。ご近所迷惑もいいとこだ。申し訳ねぇ。
 姉ちゃんは壁があったところから顔を出して下界を見下ろし、またケタケタと笑った。
「なにこれ。おもしろい」
「明日から住むとこなくなるんだけどどこが面白いのかな」
「ふええ。ひゃへろ」
 俺が頬を引っ張ると姉ちゃんの顔が餅のように伸びた。
「――しかし、おかしいな」姉ちゃんは赤くなった頬をさすりながら言う。
「私の理論は完璧だったはずなのに……本来ならなんでも願いを叶えてくれる魔物が現れるところなのだが」
「気のせいだったんじゃん?」
「いや、そんなはずはない。私の理論は絶対だ。失敗しても何かが起こるはず」
「爆発したけど」
「何かが来るはず!」
 うちの姉は頑固だ。
 煤を払い落として、ため息をつく。
「なんてことしてくれたんだ姉貴。いまの衝撃で山下さんのガンプラ五体は壊れたぞ」
 姉貴はビビっている。
「こないだ壁ドンされてずるずるへたりこんだのに、性懲りもなくこんなことしやがって。これはもう売られるな。ばいばい姉ちゃん」
「やめろ!! なんとかして私を助けろ」
 言い草がひどい。
「ああ、もうだめだよ姉ちゃん。ドアが蹴破られる音が聞こえた。じきにここも腐海の底に沈む」
 襖が蹴破られた。
 山下さんは子供の頃にいじめられていて、トンカツを一緒に揚げようと誘われてノコノコ行ったら油をぶっかけられて顔面の半分に火傷を負った。しかしそのすぐあとでいじめっ子の鼻の穴にアツアツのトンカツをぶちこんで泣きながら自分で保険証を握りしめて病院いった猛者なので、簡単に言うと怒ると怖い。
 姉ちゃんはチビりかけている。
「や、山下殿。お怒りをお沈めくだされ」
「俺、夜勤明けなんだよね」
 こりゃ駄目だわ。目ぇ血走りすぎて涙出そうになってるもん。
「違うんです。これは違くて、全部愛彦がやれって」
「あっはっは、姉ちゃん人間として最低だなー」
 俺はすっと山下さんの影に隠れる。強いものは強い。小学生並みの戦略だぜ。
「紅蓮。お前ちょっとほんといい加減にしろよ」
「はい」
 正座する姉ちゃん。恐怖で超震えてるし、外から「火事かー!?」という叫びと共に消火活動が開始されて白っぽい消火液が姉ちゃんをべっとべとにしている。なんかもう本当に白濁液にまみれたただの下着姿の痴女なので、見ていてもののあはれを覚える。とりあえず写メった。
「山下さん、どうします。ここはしばらく足腰立たないようにしたほうがいいかと」
「ナル、お前は危険人物監督不行届で後でボコボコにする」
 ひどいや。俺はボコボコにされても生き残れるように準備運動を始めた。
「紅蓮」
「ふぁい」
 姉ちゃんはもう雪ダルマみたいになってる。自重で身体がすっげぇ斜めに傾いでいる姉ちゃんの肩を山下さんは優しくポンと叩いた。悲しい過去を背負ってはいても、山下さんはイケメンである。
「あのな、お前も女の子なんだから、ご近所に迷惑ばっかりかけてたらお嫁にいけねーぞ」
「……ふぁい」
「俺はいいよ。たとえ部屋が吹っ飛んでもガンプラ壊れるくらいだからな。ボコボコにはするけど、お前のことそれで許すよ」
 パンケーキを顔面に喰らったみたいになってる姉ちゃんの顔面でその目が悲しそうに瞬く。ボコボコは決定みたいだからね。仕方ないね。
「とりあえず、今日のことは水に流してやるよ。その代わりちゃんと学校いけよ。単位出そうにねえってコープで噂になってんぞ」
「……コープ潰す」
「やめろ。お前こんな田舎のどこで肉買うつもりだ」
「生協で買う」
「生協がコープだ」
 俺の姉ちゃんはIQ高い割にちっとも論理的ではない。
 山下さんは「お仕置きだぞ」とでも言うかのようにさりげない仕草で姉ちゃんの顎をデコピンで弾き昏倒させ、俺に振り返った。沈みかけた夕陽を滝のように浴びた色男にうかつにも俺はウホりかける。
「ナル、おめーが姉ちゃんを守ってやれって言ってんだろ」
 そう言って山下さんはぶっ倒れている俺の姉ちゃんを親指で指し示し、
「血が繋がってなくても、二人きりの姉弟じゃねーか。仲良くしろよ」
「……はい」
 正論すぎて冗談も言えそうにない。
 山下さんは「明日、友達の大工呼んで応急処置してやる」と言い残し、俺たちの家を去って行った。家といっても天井が吹っ飛んでいるので気分はもはやちょっとした居心地のいい公園みたいなもんだが。俺は姉ちゃんを引きずってリビングに移し、壁の穴には「火事じゃないでーす」と叫んで消防車に帰ってもらった。
 ソファに横たわる白濁液まみれの姉ちゃんを雑巾でぬぐいながら、その顔を見やる。
 かわいいよなー。
 美崎紅蓮。
 かの有名な美崎財閥の一人娘だったが、スキャンダルを暴かれた財閥が解体され、世間からバッシングを受け、都会では暮らせなくなった天才少女を俺の親父が引き取ったのが十年前。同い年の姉ちゃんが出来てどういう気持ちが自分に芽生えたのかまったく覚えていないが、いつの間にか、俺にはガキの頃から全然似ていない女姉弟があった。親父はいま「出稼ぎにいく」と称して失踪し、毎月キチンとお金が振り込まれる口座だけを残して、もう三年くらい会ってない。だからぶっちゃけ下の階の山下さんがだいぶ長いこと、俺らの兄貴分みたいなところがあって、そんな人からまで「守ってやれ」なんて言われると、守ってやらなきゃなーとは思う。
 思うんだけどなァ。
 寝言で「ボコボコはいやだあ。ひきずらないでえ」とうなされる紅蓮の額に濡れ雑巾を置いてやって、俺は壁の穴にブルーシートを張り巡らせることにした。
 凡人の俺には、天才との暮らしはちょっと荷が重いのだ。




 自慢じゃないが、俺には割と友達はいる。といってもこんな川と田んぼとコープしかないような田舎じゃ、お互いぐらいしか娯楽がないのだ。
 1クラス十五人しかいない県立元山第三高校の二年二組で俺が誰となかよしかと言えば、まァ高梨だろう。ヤツとはだいぶ長い付き合いだ。姉ちゃんと出会うより前、幼稚園でかおり先生と相撲を取ってた頃にはもう俺の隣にいたから、かれこれ十三年くらいの付き合いかな? ちなみにかおり先生マジで強くて俺はぶっ飛ばされて田んぼに落ちた。大人って名前ほど大人げないんだ、って初めて理解した瞬間だったよ。
 そんな高梨の机の上に俺は座っていたのだが、ずいぶん遅れてやってきた机の持ち主はなんだかげっそりしているのだった。
「どうした高梨。下痢か」
「それもある」
 俺は整腸剤を渡した。高梨は神に祈りを捧げるように整腸剤を軽く振ってから水なしで飲み込んだ。
「お前、また腹出して寝たのか」
「またってなんだ。見たことねーだろ俺の寝相なんて」
 高梨の妹からたまに写メが送られてくるからヤツのプライバシーは俺には筒抜けなんだが、そのことは黙っておこう。結構迷惑。
 続々と人が増えていく朝の教室で、高梨はアンニュイなため息などをついてみせる。
「別宮……お前さ、主人公になったことある?」
「俺たちはそれぞれ一人一人が、人生と言う名の小説の主人公なんだよ」
「別宮キモイ」
 俺に罵声を浴びせてきたのは隣の席の長岡さん。ちなみに別宮は俺の姓だ。
「長岡さん、いい加減に君の机の中に賞味期限の切れたチーカマ入れてたことは許してくれよ」
「絶対に許さない。超おなか壊した」
 長岡さんはちょっと高校デビューぶって茶色く染めたセミロングの髪をかきあげながら吐き捨てた。結構かわいいのに意地汚いって残念だし無念でもある。
「あんたたちなんかね、一生この田舎で寂しく生きていくのよ。あっはっは! 都会にいってセレブな暮らしをして、毎年高給取りのダンナと元気な子供二人の写真を撮って年賀状を出してあげるわ!」
「ずいぶん俺たちと長く付き合うつもりなんだね長岡さん」
 年賀状とか今後は廃れていく文化じゃねーの?
 高梨も顔を上げた。
「大体さ、長岡さん、東京の大学いけなかったら地元で結婚させられるんでしょ?」
 長岡さんちは地元でも有力な豪農である。
「まずこのへんの誰かと縁結びされるよね。それこそ俺とか別宮とか」
「バカ言わないでよ」
 ふふん、そんなことあるわけないじゃない、と余裕ぶって腕組みしている長岡さんだったが、内心は恐怖に耐え切れていないらしくガタガタ震えている。なんて失礼なんだ。
「結婚しよう、唯」
「子供は七億人くらい作ろう」
「ばっっっっっかじゃないの!? あんたたちと結婚するくらいなら田植え機なしで背骨へし折れるまで稲植えるっての!! やめてよね、あたしの人生に介入してくるの」
 あたしはあんたたちとは違うのよ、という態度を胸を張って示してくる長岡さん。しかし長岡さんとこのじいちゃんは俺んとこの親父とマブダチなのでこっそり縁談の話が何度か持ち上がっているのを俺は知っている。俺はタナボタで結婚できたらいいなって思ってる。田舎ってちょろい。
「ったく。あーやだやだ田舎なんて! もっと都会でスマートな殿方にフレンチ作ってあげたあい」
「お前フレンチどころかサンドイッチも作れねーじゃねーか」
「俺んとこの犬がお前んちで猫まんまもらったら下痢しまくったんだけど」
 言い過ぎたらしい。俺はエルボーを延髄にもらい、高梨は股間を蹴り上げられた。高梨は数年前から学校にはファウルカップを着けてきているので難を逃れたが、そうでなければ高梨家は断絶していたことだろう。
「なんてことしやがる……」
「狂犬か、あの女……」
 俺と高梨はぷんすかしながらトイレに去った長岡さんの後ろ姿を見送った。わりと三つ編みや黒髪が多い三高の中で都会風を吹かしている長岡さんは倒れ損なったボウリングのピンのように浮いている。
 しかし、本当に長岡さんが東京に進学するなら、こんな朝の光景もあと二年で終わりになるんだろーな。

 ○

「で、お前は主人公になったのか、高梨」
「どうやらそうらしい」
 高梨が真面目腐って言った。どうやらそうらしい、じゃねーよ。なんだその深刻そうな顔、ぶち殺すぞ。
「高梨、いいか」
 俺は中学まで野球をやっていた高梨のごつめの肩をゆさゆさ揺さぶった。
「お前はこの世界におけるモブだ。わかるな?」
「ああ、俺もそう思っていた……昨日まではな……だがそれも全ては儚い夢と砕け散った!」
 うわあああ、と高梨が顔面を覆って呻き出した。コイツもう駄目かもしんない。
「おいおい高梨、昨日いったい何があったってんだってばよ」
 自分ちの壁が吹っ飛んだ俺より凄い目には遭ってねえだろう、と思ったら、とんでもない言葉が高梨の口から吐き出された。
「昨日……うちに悪魔が出たんだ」
「はあ?」
 俺、実は女なんだ、って言われたくらいにキョトンとした。
「どういうことだよ」
「わかんねえ……風呂から上がったらベッドに女の子がいてさ……俺相当疲れてるなって思って、とりあえず無視して本棚からエロ本を取ったんだけど」
「お前スゲェ勇気だな」
「ああ、それで滅茶苦茶その女の子に怒られてな……『じょ、女性の前でそんな不埒なものを手に取るなんて!』とか言われて。なんか殴られてコケたんだけど、その時にその子がなんか黒っぽいファンタジーなドレスを着ていることに気が付いてさ……生きてる蛇とかついてて……あ、これはなんかマジっぽいって思って」
「それで?」
「なんか事情を色々聞いたら、魔界から召喚された悪魔なんだと。笑っちゃうだろ? 原稿書き直せって言っちゃったよ」
「お前それいろんな意味で辛辣だな」
「でもさ……なんか手から火ぃ出したり、尻尾からビーム撃ったりするしさァ。『願い事を言ってください! それを叶えるのが私の仕事です!』とか言ってきて」
「えっちなこと要求した?」
「ぶん殴られた」
「ひでえな」俺は同情した。
「ああ。もう殴られたくないから帰ってって言ったら、願いを叶えるまでは帰れませんとか言うし。正直通報しようかと思ったよ」
 高梨はため息をついた。
 俺はちょっと考えてから聞いた。
「で、まだいるのか、その悪魔っ子ちゃんは」
「いるいる。うちでせんべえ喰いながらテレビ見てる。マジで帰ってほしい」
「そうか……」
 おそらく、うちの紅蓮が昨日起こした爆発事故、その原因となった儀式で召喚されたとかそんなオチだろう。
 紅蓮がでしゃばると話がコジれそうなので、黙っておくことにした。
「別宮……俺、どうしたらいいかな……」
「うーん……」
「正直、食費とか光熱費も倍近くかかるし、家賃だけは入れてほしいんだ」
「住み着いたのか……」
「ひでえ話だよ。あいつがトンカツ喰いまくるから俺は納豆がおかずなんだぜ。ちゃんとした夕飯が喰いてえ」
 涙声の高梨に憐憫の情を禁じ得ない。
「わかった。高梨、俺がその悪魔と話をつけてやろう」
「本当か? そうしてくれるとありがてえ」
「人んちに住んだら切るべき仁義があるってえことをカラダに刻み込んでやるぜ!」
 俺と高梨がその悪魔にボコボコにされたのはこの五時間後のことだった。



「ここか……」
「人ん家を悪の巣窟みたいな目で見ないでくれる?」
 俺は高梨が住んでいるマンションを訪れていた。子供の頃から遊びに来ているので、勝手はよく知っている。オートロックを介さずにどうやって中に入ればいいのかというと、一階の空き部屋からよじ登ればいいのだ。
「よっと」
「別宮、もう無理しなくていいっ! ……お前はもう、高校生なんだ」
「高梨……」
 渾身のボケで憐れみを受けてしまった俺はどうすればいい? ベランダの柵に足をかけながら、俺は夕焼け空を見上げた。
「お前んち何号室だっけ」
「それが毎日のようにうちの茶菓子喰いにきてたやつのセリフか。702号室だ」
「高ぇところに住みやがって、このセレブが」
「ふざけんなよエレベーター停電したら買って来た豚肉が階段上ってる間に腐るんだぞ」
 俺と高梨はもう三百回くらい繰り返しているやり取りをしながらエレベーターに乗り込んだ。ゴウンゴウン。
「ここか……」
「その悩ましげな顔やめてくんねぇ? とりあえずここだよ」
 俺たちは702号室の前に立った。周囲はやけに静かだ。どこかからバラエティ番組のものと思しきデジタル音質のざわめきだけが聞こえてくる。俺はゴクリと生唾を飲み込んだ。
「中に……いるのか」
「ああ……黒いのだ」
 俺たちは後々、この会話を本人の前で繰り返したことがあり、思い切りぶん殴られることになる。
 高梨に鍵を開けてもらって、俺はドアノブをそうっと開いた。ゆっくりとドアを開けていく。すると中には……
「いた……」
 玄関からまっすぐいった先に、部屋があり、その襖が開いている。見慣れた高梨家の居間にぺたんと、場違いな洋風少女が座り込んでいた。俺は目を凝らしてその容姿を覗いてみた。
 金髪だ。まァこれは悪魔なら当然だろう。浪漫だからな。
 服装はと言えば、映画なんかで見るような上流階級っぽい黒のナイトドレス。この時期に暑くないんだろうか。花嫁が身に着けるような長手袋をしているが、その色もやはり不幸の黒。その裾をドレスの片口と結びつけているサスペンダーは、なんと生きた蛇だった。テープのように薄いそれが少女の柔肌にぴたりと貼りついている。赤いルビーのような蛇の目が、チラチラとこちらを見ていた。
 問題は、その少女がひっそりとした部屋の中でしている行為。
 高梨がそわそわしている。
「おい……ヤツは何をしてる? 別宮」
 俺は視線を部屋の中から外さずに答えた。
「桃鉄」
「なんだと?」
「あいつ……桃鉄を一人でやってやがる……」
 俺の隣で高梨が口元を押さえ、溢れる涙をこらえきれずにいた。
「そんなっ……いくら暇だからってっ……!!」
「おい……昨日からあいつは何十時間やってんだ。すでに五十年目を突破しているぞ」
「うわあああああああ!!」
「ばかよせ高梨っ」
 俺の制止も聞かずに高梨は自宅に飛び込み、靴も脱がずに居間へと突撃した。ファミコンのコントローラを持った金髪黒装の少女は、ぽかんとして赤い目を瞬きながら高梨を見上げていた。
 高梨は叫ぶ。
「おい悪魔! そんな悲しいことはいますぐやめろ!」
「なっ……なっ……」
 悪魔は慄いている。
 高梨は「くっ」と目尻を親指で拭う。
「馬鹿野郎っ……会って二日目とはいえ……てめえにそんな思いをさせるくらいだったら学校休んだわっ!」
「…………いやああああああああ見ないでええええええええええ!!!!!」
 両眼を><にした少女の絶叫が響き渡り。
 その両手から真紅の炎が迸った。空気を吸い込みながら俺たちへと突進してきた業火は、そのままいけば俺たちを消し炭にしていただろう。しかし、こんなこともあろうかと手近にあった襖を外して即席の盾にすることくらいこの俺には朝飯前。テンパってコケた高梨を襖シールドで守った俺はニヤリと笑った。甘いぜ。
 そのあと普通に素手で二人まとめてボコられました。

 ○

「自己紹介が遅れましたね」
 頬についた煤と返り血をレースのハンカチで拭いながら、少女が澄ました顔で俺に言った。
「お初にお目にかかります、鈴木様」
「別宮です」
「別宮様。私、魔界の上級悪魔、レイシスフェレスと申します。以後、お見知りおきを」
 ニコっと微笑む金髪少女。しかしロリ声なので背伸びしてレディぶってるだけのガキっ子にしか思えない。悪魔と言うより小悪魔だ。
「これ、名刺になります」
「あ、どうも」
 悪魔――レイシスフェレスとやらに手渡されたやけにざらつく名刺には、角の生えた黒い顔のマークと、アラビア語のような文字が記されていた。おそらく名前だろう。名刺をもらっても返すものがないので、とりあえず生徒手帳でも渡そうかと思ったら高梨に「やめとけ、先生に怒られるぞ」と諭された。やろうとした俺が言うのもなんだが、そういう問題?
 おほん、とレイシスフェレスとやらが咳払いをする。畳にぺたんと子供座りしているのでちっとも威厳がない。
「昨夜も高梨様にお聞きしましたが……悪魔の仕事とはなんだと思いますか、別宮様」
「人間の望みを叶えてくれるんじゃないの?」
「その通り!」
 こいつ話わかるじゃん、みたいな顔で悪魔が笑った。
「私たち悪魔は、人間の願いを叶え、その代償として魂をもらう。アニメとか小説とかでもう知っていますね? ファウスト先生のお話は?」
「ウィキペディアで調べたことある」
「充分です」
 充分なんだ。
「昨夜、私は高梨様によって召喚されました。もちろん、あなた方の願いを叶えるためにです」
「呼んでません」と高梨がぶすっとして言った。レイシスフェレスはため息をついた。
「ね? これですよ。呼んでおいてチェンジを要求。男の人っていつもそう」
「いや、他の悪魔とかに来られても困る。俺には叶えたい願いとかないし」
 それはそれで寂しいことを、高梨は偉そうに言った。それに小さな悪魔は猛烈に反論した。
「なんてこと言うんです! それでもあなたは人間ですか? 隠居したご老人じゃあるまいし……もっとなんかこう、胸を滾らす野望とか、遠く気高い果てなき夢とか、ないんですか!」
「だからおっぱい触ってもいいかって聞いたじゃん」
 べっちんべっちんと高梨はしばらく金髪悪魔にブッ叩かれた。
 プレイが終わった後、高梨はコタツからケツだけ出ている状態で震えていた。
 ぜぇぜぇと息を切らしながら、レイシスが口の端から零れたヨダレを手の甲で拭った。
「お触りは禁止ってあれだけ言ったのに! 男って最低!」
「エキサイトしすぎだろ」
「ああん!?」
 ギロリ、と金髪少女に睨まれる俺。思わず目を逸らすが、美少女に鋭く見つめられてちょっと嬉しい。
「鈴木さん」
 少女がずずい、っと座った俺の目の前に仁王立ちになった。俺はもう半分スカートの中に頭突っ込むような姿勢で平伏する。鈴木じゃないんですけど。
「いいですか、私はどっちだっていいんですよ。高梨さんがダメならあなたの願いを叶えたっていいんです」
「いや、俺もべつに願いとかないんで」
「はあああああああ!?」
 思いっきりガンくれてくる金髪少女。
 この悪魔、なんか違う意味で怖い!
「もー! これだから! これだからダメなんです!」
 ドンドン、と金髪悪魔は床を踏み鳴らして泣き叫んだ。
「せっかく魔界からやってきたのに! なんて仕打ちですか! せめてギャルのパンティおくれぐらい言ったらどうなの!?」
「ギャルのパンティおくれ」
「駄目です!」
「なんで」
「それじゃ面白くないもん」
 面白くないって……
「ったく、なんなんですか、あなた方は!」
 レイシスは手をワキワキさせながら、ちょっとブチキレすぎて泣きそうな顔になった。
「私はもっとこう、人間の業とか、罪深さとか、そういうのが見たくて希望売りやってるんです。それなのに二人とも、毛の抜けた羊みたいな態度ばっかり取って。これじゃ日本はどんどんダメになってしまいますよ!」
「そんな演説みたいなこと言われても……」
「あああ、昔はこんなじゃなかった。お母さんの時代はそれはもう人間が元気で、願いも叶えまくり魂も貰いまくり、高度魔界成長期だったというのに、とほほ、どーしてこんなことに」
 しくしくと悪魔少女が泣き始めた。とりあえずセリフのところどころに死んでる言葉が混ざってるのが気になる。
「いったい何があなたたち男子高校生をそんなフヌケにしてしまったというんですか? 鈴木さん」
「平和かな」
「……そんなものはブッ壊す!!」
 窓から火球をブン投げようとする悪魔を俺と蘇った高梨が羽交い絞めにして止めた。
「やめろバカっ! 犬の散歩してる人がいるのが見えねーのか!!」
「ううう、だってだって」
 ぐすん、と悪魔は目尻を拭う。
「このままじゃ私、魔界に帰れないんですよぅ」
 俺と高梨は顔を見合わせた。
「どういうことやねん」
「言うてみい」
「実は……」
 小悪魔は居住まいを正した。
「細かい設定はウィキペディアに載せておくので省略しますが、簡単に言うと、悪魔が魔界から現実世界へやってくる時、かなり多くの魔力を消費するんです」
「どんくらい?」と高梨。
「それはもう街一個を吹き飛ばせるくらいの魔力です」
 ふふん、と小悪魔は得意げに鼻を鳴らした。
「そのおかげで、私は誰かの願いを叶えて魔力を頂かない限り、魔界へ帰れないんです」
「いい物件紹介するよ」
「ありがとうございます……ってバカ!!」
 レイシスのサイドイン・チョップをスウェーバックする高梨。
「帰れないと困るんです! せめて一人だけでも願いを叶えないと……このままじゃ私、高梨さんに衣食住をお世話させてしまうことに……」
「なんかさも断られることはないだろう、みたいな態度でしょんぼりしてくれてるところ悪いけど、もう泊めないよ。光熱費バカスカ使いやがって」
 高梨の目が笑っていない。
「まァまァ高梨、可哀想だろ」
「鈴木さん……!」
「メイド喫茶にでも身売りすれば金になるぜ」
「メイド喫茶ってそういう怖い所じゃねーから!!」
 顔を真っ赤にしたレイシスのパンチを俺は座布団で受け止めた。
「おいこら悪魔。タダで人にたかろうなんて虫が好すぎるんじゃねーか」
「うう、それは確かに」しょんぼりする悪魔。
 俺は提案してみた。
「じゃあこういうのはどうだ。高梨はお前をここに住まわせる。お前は代わりに高梨のお願いをなんでも聞いてあげる。そうすれば橋の下でダンボールに包まらなくて済むぞ」
「そっか、なるほど……いやダメじゃん!」
 バァン! とレイシスがテーブルをぶっ叩いた。湯飲み茶碗が落ちた。
「それじゃ私、全然帰れないじゃないですか魔界に!!」
「勝手に来たんだからそれぐらいは……ね?」
「違いますよ! 呼ばれたんです! 召喚召喚!! あっ、そうだ」
 ポンと掌を叩くレイシス。
「高梨さん、私を魔法陣で召喚したでしょ? なんでないんです?」
「だから俺はてめーを呼んだりしてねえの」
 高梨はすでにDSを始めている。
「だいたい俺が不世出の大魔法使いに見えるのかおめー。どっからどう見てもただの高校生だろ」
「その割には老けてますね」
「ぶっ飛ばすぞ!!」
 高梨は泣いている。
「人が気にしてることをズケズケ言いやがって……俺の心にお前が土足で入っていい玄関はない!!」
「誰が汚れた靴みたいな女ですか!!」
「言ってねーよそんなこと! ティッシュ箱投げてくるのやめて!」
 ぜぇぜぇ、とバカと悪魔が息を切らしている。俺は暇だったのでコーヒーを沸かして二人に振る舞った。
「まァ落ち着けよお前ら」
「助かるぜ別宮」
「ありがとうございます」
 ずびびー。
「とにかく」
 とレイシスがカップをテーブルに置いた。
「私、困りますからこのままじゃ。あなた方の願いを叶えるまで、ここに住みますからね! 知っています、この世界には『居住権』というものがあると」
 蚊に刺された跡のようにわずかに膨らんだ胸を張るレイシス。
「だから大人しく、願いを私に言うのです。魂と引き換えに叶えてあげますから」
「だから魂を取られるのが嫌なんだっつーの。なんか元気なくなったりするんでしょ?」
「別宮いいこと言った。それだそれ」高梨が乗っかってくる。
 どうどう、とレイシスが俺たちを抑える。
「落ち着きなさい、皆の衆。そんな意見もあろうかと、魔界も進んでいるのです。なんと……」
 ヒソヒソ話をするように、レイシスは身を乗り出してきた。
「魂の支払いは」
「……支払いは?」
「……分割払いが利くのです!!」
 カラカラカラ、と部屋の隅にいるハムスター(三郎 ♀)が回し車を回した。
「いやいやいや」と俺は手を振った。高梨はちょっと考え込んでいる。アホか。
「よくわかんないけど魂ってそんなチョコみたいにパキパキ割ったりできないでしょ。ちょっと持ってかれてもスゲェ元気なくなったりするんじゃないの?」
「大丈夫、大丈夫」レイシスはニコニコしている。
「なんとかなります」
「それローン組む時にみんな言うセリフじゃん。絶対アカン警察じゃん」
「その代わりになんでも願いが叶うんですよ?」
「貧しい胸にすら触らせてくれない女子の言うことなんて聞かないもん」
 レイシスはなおも言い募った。
「欲しいものがないってことはないでしょ? 可愛い女の子と付き合いたいとか、頭よくなりたいとか、大金持ちになりたいとか。いろいろあるじゃないですか。私、知ってます。人間という生き物は欲しいものを言葉にしたり絵にしたりすると。私たち悪魔はそれを平面次元から取り出してあげるお仕事なのです。ただ物凄く大変なので、報酬もお高くなっていますが、請け負った仕事は必ず完遂します」
 俺と高梨はウーンと唸った。
 小首を傾げて嫣然と微笑む様だけを見れば、悩殺されてしまいそうな美少女だ。
 これで一人桃鉄を死んだ目でやっていなければ魂なんてタダでくれてやってもいいと思えたかもしれない。
 確かに、なんの苦労もなく欲しいものが手に入るなら凄くラッキーな気がする。
 べつにそれほど欲しくなくても、今より状況が良くなれば損するってことはないわけだし。
 問題はそれが魂とかいうモノと釣り合うのかどうか。
 うーん。
 なんだかゾンビみたいに虚ろな目になって歩いてそう。未来の俺。
「さ、何も悩むことはないじゃありませんか」
 レイシスは両手を広げて囁く。
「どんなに願っても、魂すら売り渡したいと思っても、それを手に入れられない人もいる。あなたたちはそれを手にするチャンスに出会ったんです。それを掴まない理由なんてないでしょ? 欲しいものを言ってください。形があろうとなかろうと、あっという間に持ってきてあげますから」
「たとえば」と高梨が俺より早く言った。
「俺がスゲーリア充になりたいって願ったら、なんか変なトンチみたいなオチじゃなくて、ちゃんとリア充になれんの?」
「なれますなれます」小悪魔はコクンコクン頷いた。
「カエルの国の王様とかにしてドヤ顔したりしません。ちゃんとご想像通りに立派なイケメンにして差し上げますよ」
「んだコラ。俺の顔面が残念だとでも言いてぇのか」
「ハイ!」
 営業スマイルじゃどうやっても切り抜けられないことがあると、レイシスはちょっとの間思い知った。
 頬をつねりあげられて、しくしく泣く自称悪魔。
「ひどい。ひどすぎます」
 でも、と言い重ね、姿勢を正す。
「許してあげましょう。願い事さえ言ってくれるなら! ホラホラ。なんでもいいんですよ。流れ星を見かけた時みたいに気軽に言ってください! 自分勝手に好きなことを!」
「まァ俺はいいや。高梨に任せる」
 高梨はちょっと考え込んだ。DSを腹の上に置いて天井をぼんやり見上げている。
 やがて言った。
「リア充になりてぇ」
「なるほどなるほど」
 レイシスがウンウン頷いた。
「ぶっちゃけあんまり面白くない願い事ですが、いいでしょう、叶えてあげます。電車男みたいなラブストーリーを見るのも悪くはありませんし。恋はある日突然に始まるのです。離れては近づき、近づきは離れ。いいですね、最高です。では……」
 レイシスが背中に手を回したかと思うと、奇術師のようにポンと銀色の握りがついたステッキを取り出した。その握りは、竜の頭を模していた。くるくると振り回し、机の上に乱雑に置いてあったアニメのブルーレイディスクをパリンパリン割りながら(高梨は泣いた)、その先端をびしっと人間代表に向かって突きつけた。
「あなたの人生の意味は『リア充になりたい』、それでよろしいですね?」
「ひどい」
 高梨は粉々になった思い出の円盤を前にしてむせび泣いた。
「ひどすぎる」
「大丈夫、もうすぐ日常系アニメみたいな人生があなたを待っています。準備はよろしいですか?」
「やめた」
「え?」
「やっぱやめる。お前には頼らねぇ」
「ええええええええええええ」
 高梨は粉砕された記憶の欠片を少女のように胸に抱いて、レイシスをねめつけた。CMカットしたブルーレイ砕かれたら俺も怒る。
「このクソ悪魔が……頭来たわ。てめーにお願いごとなんて死んでも言わん!!」
「えっえっえっ」レイシスは半べそになっている。
「そ、そんなあ。あ、じゃあお願い事をそのブルーレイの修復にしたらどうでしょう?」
「お前自分で割っといて魂取るのか!! ぶっ飛ばすぞ!!」
「ひいいいいいいいい」
 仁王立ちになって強面の体育会系みたいな顔面になった高梨の雄叫びにレイシスがビビリあがってその場にへたり込んだ。
「わ、わざとじゃなかったんです。わざとじゃ……!」
「許さん。そもそも俺はお前の態度が最初から気に喰わねぇ」
「詳しく話せ高梨」
 俺は高梨の味方についた。高梨はイライラと足踏みしている。
「俺ァ子供の頃から悪魔とか神様とかいうのが嫌いなんだ。勝手に人様の顔面に都合のいいことぶら下げやがって。俺たちゃロバじゃねーぞ!! ニンジンなんて欲しけりゃてめーで取ってくるってんだ。それがロバだろ!!」
「高梨、よく言った! おい聞け悪魔。俺たちにお前なんか必要ない」
「えっえっえっ」
 後半は啜り泣きになっているレイシス。
「で、でもそれじゃあなたたち、永遠にこのままですよ? それでいいんですか? 毎日つまんないままですよ?」
「別にてめぇが言うほどつまらなくはねえ。それに永遠にこのままって言い方も気に入らねぇ。俺は……」
 そして高梨は俺も予想していなかった一言を言い放った。
「自分で勝手にリア充になってみせる!!」
「…………」
「…………」
「おいどーすんだ。お前がけしかけるからだぞ」
「そ、そんなこと言われても」
 俺と悪魔は、顔を見合わせて、一人で息巻いている高梨に気の毒な眼差しを送った。


「で、なんでお前が俺んちに来ることになったんだ」
「仕方ないじゃありませんか。高梨さんに追い出されてしまったんですから」
 どっからどー見てもゴスロリ丸出しの漆黒金髪少女を見て、俺はため息をついた。なんでこんなことに。
「お前なあ。なんでそう見切り発車で現世とか来ちゃうの? めんどくさいとか思わなかったの?」
「そんなこと思うわけないじゃないですか」
 レイシスは怪訝そうな顔で言った。
「だってこの世にはいろんな楽しみがあるじゃないですか。東京タワーもあるし」
「あの電波塔ってそんな価値あったっけ」
「何言ってるんです! 赤いじゃないですか!」
 力説する少女。
「赤いってことは、リーダーってことなんですよ」
「じゃあスカイツリーはサブリーダー?」
「え、青いんですか?」
「きっと青いよ」
 白かった気がする。
 なんとなく俺はどっと疲れて、自宅へ帰った。そういえば自宅の天井と壁がぶっ飛んでた気もするが、寝袋があるからいいや。
 出会いがしらに姉貴と会った。チョコレートバーを口に含みながら、ブラ1パン1でタオルを首にかけて俺を不思議そうに見ている。
「おい紅蓮、服着ろ」
「愛彦、なんだその少女は。レイヤーさんか?」
「そんな知り合いはいねぇ」
 俺はリビングのソファに腰かけて、重たいため息を吐いた。
「おいレイシス、挨拶しろ」
「こんばんは! 私、悪魔です!」
 びしっと片手を挙げて宣誓するレイシス。紅蓮はそれを聞いてフムフムと頷いていた。
「そうか。初めまして。私は美崎紅蓮という、飽くなき真実の探求者だ。よろしく!」
「こちらこそ!」
 よくわからんがウチの姉貴と悪魔が友達になったようだ。
「おい紅蓮」
 俺は姉貴のタオルを引っ張って壁際まで引き寄せた。
「なんだナル、タオル引っ張んな」
「悪魔って聞いてなんともおもわねーのか。アリャおめーが昨日読んだやつだ多分」
「そうか」
「そうか……って。お前、悪魔に会いたかったんじゃないの? だから呼んだんだよね?」
「昨日会ってたら興奮したかもな。だが今日になったらもうどうでもいい。悪魔がいたのは驚きだが、それだけだな」
 澄ました顔で言う紅蓮。おいおい。
「なんだそのいー加減な感じは。お前なあ。いくらなんでも気が変わるの早すぎだぞ」
「なぜだ?」
 紅蓮は不思議そうにしている。
「一応、驚いてはいる。なるほど、ぐらいの気持ちもある。それにあの少女がどんな存在だろうと……ふむ、願いを叶える? 分割払いで? そうか。私には関係ないな」
「おいおい……お前、科学者だろ? なんか知りたいことでも聞けばいいじゃん」
「そんなの面白くない」
 俺は遠いまなざしで、俺たちの様子を部屋の反対側で窺っている少女を見やった。
「なんか似たようなセリフをさっき聞いたなあ」
「何をわけのわからんことを。なあ悪魔。私と一緒にアイスを食べよう」
「わあい、アイス! あかりアイス大好き」
「誰があかりだよ」
 あかりと紅蓮が冷蔵庫のそばでイチャつき始めた。俺は頭痛を覚えたので寝袋に丸まって寝ることにした。
 それにしても、紅蓮からもお払い箱じゃ、本当にあの悪魔、実家に帰れそうな気配ねーな。

 ○

 さて。
 それからというもの、べつに面白おかしい騒動なんて起こらなかった。いやいや待てよお前、天才科学者に金髪悪魔、それに面白おかしいクラスの仲間たちまでいて何も起こらなかったのか、といわれれば、正直に言おう。イエスだ。
 あれから半年が過ぎた。
 驚くなかれ、もう夏休みも終わったし、海にもいったし、肝試しもやったし、文化祭もやった。おおよそ日常アニメで山場と言われるイベントは大体こなしたわけだ。夏服から冬服へ変わり、文理選択も済ませ、せいぜいこれから近づくクリスマスぐらいしか学生っぽいイベントは残ってない。そんな十月初旬だ。
 いきなり人生のレールの上にドスンと悪魔が現れて、なんにも起こらないなんて、さすがに俺もビックリはしている。まァでもそんなものかもしれない。2000年になってからもう14年。時代は進んだ。テレビゲームはオン対戦が洗練されたくらいで、スーファミからプレステへと移行したときのような爆発的な変化なんか全然なかったし、アニメはギアス終わってからパッとしねえし、エロゲは発売延期ばっかり、声優は歌って踊って結婚し、今日も世の高校生は「なんにもねえなあ、俺の人生」と思いながら青空を見上げる。超常現象の塊が降ってきたくらいじゃ、俺たちの人生は変わらないのである。
「どーしたんですか鈴木さん」
 今日も悪魔は俺の家でアイスを食っている。おめーはアンクか。
「浮かない顔をしちゃって。そんなんだから家でじめじめする羽目になるんですよ」
「うるせーばーか」
 言い返す気も起きない。俺はすっかり無礼講になったTシャツにトランクス一枚の格好で、ソファに転がって、天井を見上げている。
 ほんとなんもする気になんない。
 悪魔はそんな俺を、ソファの背もたれに腰かけて見下ろしている。
「おめーいい加減に出てけよ。いつまでいる気だ」
「だって誰もお願いを言ってくれないんですもの。高梨さんは本当にリア充になっちゃったし……」
 しょんぼりする悪魔。人間の幸福を憂鬱そうにしているところは、辛うじて魔物っぽい。
「それにしても長岡さんとくっつくなんて。長岡さんは誰ともくっつかないクラスメイトポジションだと思ってたのに」
「そーだなー」
 俺とつるんでいた高梨は、これまた俺とつるんでいた長岡とめでたくくっついた。それはもう悪魔が手を出す暇もなかった。「お前、俺と付き合わね?」→「いいよ」のコンボで出足見て昇竜ってレベルじゃなかった。影からなにやら怪しげな魔術を行使しようとしていた悪魔は目標をロストして硬直し、俺は友人の旅立ちに頭痛がしてその場で気絶した。目覚めた時、夕闇の中に二人の姿はなく、悪魔が俺の顔をウチワで仰いでいた。
「あれから高梨さん、全然遊びに来ませんね」
「そりゃー彼女がいたら、男友達とは疎遠になるだろ……」
「そんなもんですかねー……」
 どことなく、俺より寂しそうな悪魔。なんでお前がへこんでるねん。
 まァ、高梨の人生は一度しかないわけだし? ちょっと嫉妬しちゃうけど、邪魔するわけにもいかないし。俺はべつにいーんだ。ひとりぼっちでも。
 なんて、考えてたり、たまに悪魔に愚痴ったり。うう。俺、居候の女の子にこんな弱音を吐いてるなんて。情けない。俺は男として情けない。
「どうどう」
 悪魔は俺を真剣な顔で小馬鹿にしている。
「そのうち鈴木さんにもいいことありますよ」
「別宮だって。おまえいつになったら俺の名前を覚えるんだ」
「えー? だって、別宮って言いにくいし。普通だし」
「鈴木のほうがフツーだろ」
 はあ。
 俺はぼーっと天井を見上げる。悪魔はソファの上でアン・アンを読み始める。
「それにしても、本当に今の世の中に『願い』ってないんですねぇ」
 悪魔は読者モデルのなんとかかんとかちゃんを吟味しながら言った。
「鈴木さん、どう思います?」
「しらねー。そういう時代なんじゃん?」
「鈴木さんはリア充になりたくないんですか?」
「魂を支払うほどじゃねー」
「でも、高梨さんに彼女が出来たとき、追っかけて誰か引っ掛ければよかったじゃないですか。ノリで。べつにあたしに頼らなくても」
「うるせー。めんどくせぇんだよ。なんもかも」
「枯れてますねぇ」
「うっせー。ばーか」
 俺はそのまま眠り込んだ。

 ○

 最近、俺はよく夢を見る。
 船の夢だ。
 夜更けの埠頭に、一隻の蒸気船が浮かんでいる。
 俺はなぜかその船に乗って、中に入る。すると中は、思っていたよりも薄暗くて、ぼんやりしている。夕闇時よりもっと暗い。街灯のようにポツンポツンと立っているランプの火明かり以外は、全て闇に溶け込んでいる。人影はあるが、生きているのか死んでいるのか、それも判然としない。
 余っている椅子に、腰かけてみる。
 なんか置物になった気分。
 そうして顔をめぐらせてみると、あの悪魔、金髪に夜装服の少女が、火灯りの交差するところに立って、こちらを見て笑っている。眩く滲むような金髪。濃紺に近い、夕闇色の眼。両手両足には鎖の千切れた枷がかかっている。視線を動かすだけで、その鎖の断片がチャリチャリと鳴った。手袋とブーツは銀色の装飾ベルトで、夜装服に繋がれている。よく見ると彼女は、小鳥でも閉じ込めるような鳥籠の中にいた。しかし、その鳥籠はすぐにバラバラになって崩れてしまう。
 少女は何か言っているが、俺には何も聞こえない。
 何も……
 そこでいつも、眼が覚める。

 ○

「夢診断してあげましょうか?」
 つい口を滑らせて夢の話をすると、悪魔は笑ってそう言った。朝食のスープに突っ込んだスプーンを引き抜いて、俺に向かってチラチラ振る。
「あなたにはやっぱり何か願い事があるんですよ」
「自分の都合のいい方に話を持っていきやがって」
「ふぉんふぁふぉふぉふぁふぃふぇふ!」
 悪魔はトーストを食いちぎりながら言った。
「ごくん。あのですね、船というのは出発のメタファーなんです。あなたはこれからどこかへいこうとしてるんですよ。きっとそうです」
「はいはい」
 俺はカバンを手に取った。
「学校ですか」
「月曜だからな。ていうかお前も早く着替えろ」
 この悪魔も、半年前から俺の高校に通っている。細かい書類とかは全部紅蓮がやってくれた。さすが天才少女、なんでもやってくれる。
 レイシスはパジャマ姿のまま「ふぁーあ」とあくびをする。
「二限から出ます」
「べつにいいけど留年するぞ」
「いきます!」
 パタパタと紅蓮の部屋へ入っていく悪魔。二秒くらいで洗濯機で洗われたようにくたびれた女子高生が出てきた。ただし金髪。眼が群青色でなければ、ただのアホなJKだと思うところだ。それにしてはチビっこいが。
「いきますよ鈴木さん。学校は勉強するところです。遅刻したらいけません」
「へいへい」
 いつものよーにワケわからんエネルギーだか義務感だかに突き動かされた悪魔に従って、俺も家を出た。

 ○

 俺はふよふよと浮かぶ悪魔と一緒に登校する。
 周囲の視線はもう全然気にならない。みんなすっかり慣れたのだ。
「今日も平和ですねぇー」
 悪魔が蒼穹を見上げながらぼやいた。まァ悪魔にとっては今にも落ちてきそうな青空なんて、辛気臭いものなのかもしれない。
「平和が一番だ。焼夷弾なんか降ってきたらオチオチ学校もいけねーよ」
「それはそうですけど。ていうかそんなもの落ちてくることあるんですか」
「戦争ってものがあってな……」
 俺は人間の醜さを悪魔に説明した。悪魔は不思議そうだった。
「それって何か楽しいんですか?」
「楽しくないよ。でも人間は、誰かより自分が上じゃないと安心できない生き物だからね」
「そーなんですかー。鈴木さんも大変ですね」
「おいそれは俺がスクールカースト最底辺と言いたいのか?」
 まったく失礼なやつだぜ。俺の高校は、というか俺の地域はいじめとか不登校がないのが売りなのに。
 もうイジメって時代でもないよな。ほんと。
 そんなことしても、ロクな明日なんて来ねーんだから。
「人間というのは不思議な生き物ですねぇ」
 空飛ぶ女子高生は、半年人間界で暮らしても、やたらとなにかに感心する癖をやめない。

 ○

 授業が始まると、悪魔は退屈そうにする。悪魔にも興味が湧かないものはあるらしい。
 俺はぼーっと頬杖を突いて、そんな悪魔を眺めている。
 今朝の会話をぼんやりと思い出した。
 スクールカーストかー。
 悪魔にはああ言ったが、すっかり高梨とも疎遠になったし、べつに他に仲いいやつってのもそれほどいないし、最底辺っちゃ最底辺かもなー。
 まァいいけど。
 その代わり、べつに誰かに眼をつけられてるわけじゃないし。
 このままだらだらすごして、テキトーな大学にいって、それなりのところに就職できたらいいなー。ぐらいに思ってる。
 悪魔にお願いなんてしなくても、それぐらい叶ってもよくね?
 大した願いじゃないはずだ。大した願いじゃ……
「ぐー」
 俺はやっぱり寝てしまった。
 留年するのは俺かもなあ。

 ○

「お前も悩んでいるんだな、ナル」
 紅蓮が哀れそうに言った。うるせー、と俺は答えた。
 ここは紅蓮が所属する自由活動部の部室だ。活動内容自由。なんでもあり。バーリトゥード。だから紅蓮みたいな変人がタムロする羽目になる。
 俺は学校から直帰してもやることがないので、カップ麺くらいは作らせてくれる自由部に時々お邪魔している。当然、悪魔も俺にまとわりついてきている。
「元気出せ。お前の人生はあんまり面白くないかもしれないが、悪魔に魂なんか売ると、ロクなことにならないぞ」
「なんてことを!」
 俺の背後でぶうぶう悪魔が文句を言っている。
「魂なんて、みんなが思ってるほど大事なものじゃないですよ。べつに具合悪くなったりとかしないし。ちょっといつも眠くなるとか、それぐらいですよ」
「いまより眠くなったら、起きてらんねーよ」
「じゃあ鈴木さんは、もう魂をなくしてるんですね」
 うわあ。
 なんか、グサッと来た。
 へこむわあ。
「……どーでもいいだろ。俺はいまのままでいいんだ。何も起こらない今が」
「ふうん」
 悪魔がテーブルの上の茶菓子をポリポリ食っている。
「そんなにいいもんですかねえ、平和って」
「どっからどう見てもピースをエンジョイしているやつが何を言ってんだ」
「だって、全然鈴木さん、幸せそうじゃないですよ?」
 はあ、と俺はため息をついた。
「まったくこれだから人外は。そーゆー簡単な話じゃねーんだよ。俺はな、何も起こらないってことも幸せなんだって知ってるだけなの」
「最近流行の灰色のなんとかですか」
「それならそれでいーよもう。大きな幸せなんか、あればあったで邪魔になるんだ。そーだろ? 世の中、勝ち組が本当に幸せなんだったら、もうちょっといろいろ潤ってるよ。いくら派手に勝ったって、どうせ次の戦いが待ってるだけだ」
「至言だな、ナル」
 興味深そうに紅蓮が、紅茶を啜りながら、義弟のセリフを聞いている。
「うるせーバカ」
「うーん、もしそうだとしたら」
 ぷらぷらと悪魔は足を振っている。
「私はあんまり、ここへ来た意味がないですね」
 その横顔はちょっと寂しそうだった。
 罪悪感が思わず湧いたが、仕方ない。
 だって、俺にどーしろって言うの?
 望みなんて、本当に何もないんだからさ。

 ○

 最近、俺はソーシャルゲームにハマっている。授業の合間にポチポチと探索して、アイテムをゲットする。ちょっと時間のかかるオンラインの戦争に参加したり(難しい操作なんてなにもなく、参加を登録して結果を待つだけ)、初心者のソロ向けのギルドに加盟したりして、わりと楽しんでいる。
 それを見ると悪魔はいつも「うげっ」と爬虫類でも見たような顔をする。
「人間ってわかりません。そんなもののどこが楽しいんですか?」
「バカにしちゃいけないよ。これが生き甲斐の人もいるんだから」
「それはそうかもしれませんけど……でも、ボタン押してるだけじゃないですか」
「ボタン押す以上のことが、俺らにはもうできないんだよ」
 ポチポチ。
「ほら見ろ。やったぜ。シークレットレアだ」
「鈴木さん……」悪魔は気の毒そうだ。
「ただの画像ですよ? それ」
「ばかやろー。絵師さんが一生懸命描いてくださったものをただの画像だなんて、お前はなんて失礼なやろーなんだ」
「う、すみません……」
 なんとなく押されて、しょげる悪魔。
「でも、人間はそんなのが楽しいんですね」
「まじめにやってれば損はしないからな」
 ポチポチ。
「それに時間の合間合間にやれば、待ち時間なくスムーズにプレイできるし。よくできてるよ。これで好きなだけ遊べたら延々とやっちまうけど、ちゃんと区切りがあるのがいい」
「ふーん……」
「学校とか会社とか、まじめに社会に参加してれば、待ち時間はないようなもんだしな。得した気分になるぜ」
「それって、自分が人生を損してる時間と同じなんじゃないですか?」
「まったく君は意味がわからないことばかり言うねえ」
 ポチポチ。

 ○

「ほら、鈴木さん。こんなの持ってきましたよ」
 俺はスマホから顔をあげた。見ると悪魔が何かヘルメットのようなものを持っている。
「なんだそれ」
「これはですね、魔界の道具です」
「へぇー」
「興味興味」
「いや、なんか胡散臭いし」
 スマホの画面に戻ろうとする俺を悪魔はぐいぐい引っ張った。
「ねーえー。そんなのやってないでこれ被ってくださいよ」
「ヤダ。なんか電流とか流れそう」
「そんなわけないじゃないですか! あなた私をなんだと思ってるんです?」
「邪悪の化身」
「よくわかってますね……って違う! いまはそういうことを言ってるんじゃなーい!」
 ふーふーとアラシを吹く悪魔。
「いいですか、このスグレモノはですね、なんと……」
「なんと?」
「……ファンタジー世界へ入っていける、魔法の道具なのです!」
「ふーん」
「興味興味」
「いや、そういうの、絶対なんかタチの悪いオチが待ってるんでしょ? 作者の人格を疑うよーな。やめてよね。俺、ハッピーエンド至上主義者なんだ」
「大丈夫ですって。これは私からの、灰色の人生を送る鈴木さんへのせめてもの餞なんです」
「その言い方だと、俺、死ぬよね」
「大丈夫ですってば! 死んだりしませんよぅ。私もついていきますから」
 悪魔は窓の外を見た。
「十月って、なんにもなくて退屈じゃないですか。キルタイムしましょーよ」
「まァ、ちょっとだけならやってもいいか」
 ソシャゲの待ち時間もたっぷり残ってるところだし。
「貸してみ」
「鈴木さん……!」
「ちょっとやるだけだぞ」
「ええ、かまいません! ささ、どうぞどうぞ」
 悪魔は俺の髪をなぜか梳ってから、ヘルメットをかぶせてきた。
 ばしゅううううううううん…………
 黒い光の中に俺は吸い込まれて、落ちた。
 闇はどこまでも深く、俺は何と暮らしていたのか、その時初めてわかった。
sage